私が歌川 国芳の評伝を書くはずもないが・・・このエピソ-ドを書き込むだろうか。おそらく書かない。前回、そう書いた。
書かない理由は、おわかりだろう。この逸話には、どこかうさんくさいところがある。だから、わざわざ書く必要もない。
国芳が画家としてどんなに熱心に対象に迫ろうとしたか。結果として、国芳のリアリズムを高く評価する。こうして誰もが納得する批評が成立する。
ここのところがうさんくさい。
おなじ注文を受けた画家が、かならずや身分の高い諸侯の眼にふれるものと心得て、つつしんで筆をとり、美しい女たちの入浴の図を描いた。誰が軽蔑できるのか。
国芳を称賛する人は、大名におもねって美人入浴の図を描いた国貞を冷笑したかも知れない。この逸話には、国貞に対する無意識の軽蔑、あざけりがひそんでいる。私は、こういう批評上のトリックをいつも不快に思ってきた。ほんとうは諸侯たちの審美眼など、まったく信じていない国貞が、つつしんで筆をとったと見せかけて、のうのうと美女たちの入浴の図を描いたかも知れないではないか。国貞ほどの画家はそのくらいの芸当ができないア-ティストではない。
もし、歌川 国芳の評伝を書いて・・・このエピソ-ドを書き込むとすれば、わたしはもっと別の視点からとりあげるだろう。それは、芸術家としてのヴォワイユ-リズム(のぞき趣味)である。国芳をいやしめるためではない。ピカソなどに見られる強烈な生命のダイナミズムなのだ。ヴァン・ドンゲンのような美人画家の内面に何があったか、そんな連想から、国貞のふてぶてしい韜晦ぶり。
私は江戸の芸術家たちを尊敬しているのである。