何かを読んでいて、ふと眼についたことばからまるで別のことを考える。私の悪徳のひとつ。
「限りなき回想と、とどめえぬ感傷。少なくとも僕は、新しく加わった執筆者も含めて、本誌の書き手にはそれを望まない」。
清水 信は、三重県鈴鹿在住の批評家で、長年、同人雑誌の批評をつづけ、現在も新しい文学ジャンルをめざす「詩小説」を主宰して後進の指導にあたっている。このことばには清水 信らしいきびしさがある。
これに対して、執筆者のひとりが書いている。
「近来、ものを書こうとすると回想と感傷しか浮かんでこない。それをごまかすために、何度か奇怪な性を描いたり、歴史物に挑んだりしてきたが、それももはや種が尽きたようだ。残っているのは、とめどもない回想と限りなき感傷。」と。
おもしろいのは、清水 信が「限りなき回想と、とどめえぬ感傷」といっているのに、こちらは「とめどもない回想と限りなき感傷」といっていること。
わずかないい換えだが、それぞれの資質、方向、姿勢の微妙な違いが読みとれる。
私の場合はどうだろう、と考えた。
「限りなき回想」にふけることはない。私の思い出には限りがあるし、思い出したところで、すぐに忘れてしまう。それをごまかすために、奇怪な性を描いたり、歴史ものを書いたこともない。
何かを思い出したときに「とどめえぬ感傷」にふける。それは私にもあるだろう。むろん、書くつもりはない。もともと自分を感傷的だと思っているから。
何かを読んでいて、ふと眼についた一節からまるで別のことを考える。これは私の楽しみのひとつ。