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岡本 綺堂のお墓に詣でたことがある。
青山墓地に桜を見に行って、たまたま尾崎 紅葉の墓に立ち寄った。すぐ近くに岡本 綺堂のお墓を見つけたので合掌した。はるかな時代の作家に敬意を払うのもわるくない、その程度の気もちだった。
綺堂は『半七捕物帳』の作家として知られているが、劇評は貴重なものだし、劇作家としての綺堂は、逍遙、鴎外などよりすぐれていると思う。中国の古典にも造詣が深い。ほんとうは綺堂のような人こそほんとうの知識人と見ていい。
晩年の綺堂は、中国古典の志怪の書を訳した。その凡例に、

訳筆は努めて意訳を避けて、原文に忠ならんことを期した。しかも原文に拠ればとかくに堅苦しい漢文調に陥るの弊あり、平明通俗を望めば原文に遠ざかるの憾(うら)みあり、その調和がなかなかむずかしい。殊に浅学の編者、案外の誤訳がないとは限らない。謹んで識者の叱正を俟(ま)つ。

翻訳者なら、誰しもおなじ思いを知っていよう。しかも、綺堂訳は、なまなかな研究者のおよびもつかない名訳といってよい。
私は岡本 綺堂に敬意をもっている。お墓に詣でたのは偶然だったが、うれしかった。