気分的に落ち込んだとき、きみならどうするだろうか。
私の対症療法としては、特別なCDを聴く。
私が聴くのは、「世紀のプリマドンナ」のCDである。
マリア・カラス? とんでもない。テバルデイ? いいえ、いいえ。むろん、サザ-ランド、ルネ・フレミング、シミオナ-ト、そうした“ディ-ヴァ”たちの誰でもない。
私がえらぶのはフロ-レンス・フォスタ-・ジェンキンス。
1868年生まれだから、ルイ・ジュヴェより一歳上。
大富豪と結婚したフロ-レンスは、オペラに夢中になって離婚された。莫大な慰謝料をもらったとたんに、これも富豪だった父が亡くなって、またまた莫大な遺産をせしめた。そこで、彼女はコロラトゥ-ラ・ソプラノの歌手として活動をはじめた。
ところが史上まれに見る悪声。そればかりか、音程も、リズム、テンポ、すべてが狂っていた。音痴もいいところ。オペラ歌手としての素質、ゼロ。
なにしろ金がくさるほどある。毎年、堂々たるリサイタルを開き、やがてパリに登場する。
ヨ-ロッパを驚倒させた。あまりの音痴だったから。
1944年、(アメリカは、ドイツ、日本と戦争している)、ついにカ-ネギ-・ホ-ルで、個人リサイタルを敢行する。
なみの神経ではない。
戦時中、エンタ-ティンメントに飢えていたアメリカ人が、彼女のリサイタルに押しかけた。前売りは完売、当時の貨幣価値で6千ドルの純益があったという。
私のもっているCDは、生前の彼女の貴重な録音をCD化したもの。
とにかく、すごい。これほどの音痴で、『魔笛』の夜の女王のアリアや、ドリ-ブの『鐘の歌』などを歌っているのだから。
ただただ恐れ入るばかりだが、ゲラゲラ笑いながら聞いているうちに、こっちも元気になってくる。なにしろいろいろと考えさせられることも多いので、クヨクヨしている暇はない。私の「コ-ジ-ト-ク」を読んでくれる人たちにも、ぜひ、聞いてほしい1枚。
まったく才能のカケラもないのに、本人だけはいっぱしの芸術家きどりでいるおかしさ、悲惨さを通り越して、ただもう笑っちゃうしかない。そして、元気になれる。
ジェンキンス女史の歌は、私にいつもさまざまな問題をつきつけてくる。だから落ち込んでなんかいられない。