旅への誘いは、いつか私の空想(ロマン)から消えて行くだろうか。むろん、私の旅は、「せめて新しき背広を着て、気ままなる旅」に出るといったものではない。
私の旅はどう見ても平凡なものなのだ。
駅まで。歩いて約800歩。私の住んでいる千葉を起点にいくつかのロ-カル線が出ているので、掲示板に出ているいちばんすぐに出発する電車に乗る。どこに行く目的もない。すわれなければ、二つか三つ、先の駅まで行って降りればいいのだから。
たまに、おにぎり、お茶、ボンタンアメなどをもって行く。
電車に乗ってしまえば、あとはもう安心しきって、車窓から、あまり変わりばえのしない風景をぼんやり眺めて、沿線のどこかの駅で降りればいい。
ずっと先の駅まで行ってもいい。終点まで行ってもいいのだが、歩きまわっているうちにうっかり駅に戻れなくなると困る。
私の住んでいる千葉は、地形上、北は印旛沼や利根川の流域、あとの三面は海に囲まれているので、半島というより、どこか島といった感じがある。昔から、成田さんへの街道以外に大きな街道はないし、交通も不便なため、江戸から千葉を通過する旅人も多くなかった。
さて、どこかの駅で降りよう。
できれば、あたりに住宅も見当たらない、駅というには、ひどくさびれた、小さな駅で降りてみる。駅前の、広場ともいえない通りに立って、さて、どこに行こうか、と考える。こういうときは、われながら行き暮れたようなわびしい気もちになるが、それでも昔の一膳飯屋のような、うす汚れたラ-メン屋でも見つかればうきうきした気分になる。
夏のたそがれ。さすがに駅前からすぐに田んぼがひろがっている土地は少くない。それでも、駅から少し離れると、はるか彼方に、私の知らない町の灯が見える。まったくなんの目的もなく、とくべつな用事もなく下車した私は、ホ-ムレスになったような気分で、とぼとぼと灯を目当てに歩いて行く。路傍に立っている道祖神が行きかう人に何かを語りかけてくるような風情はない。馬頭観音の石碑や、青面金剛と刻まれた道しるべの横を、トラックやバイクが、あわただしく走り過ぎてゆく。旅の気分どころではない。
どうかすると、ドブ川のような流れにぶつかる。用水路の名残りだろうか。見るともなく眼をやると、汚れた流れにゴミが積み重なっていたり、異臭が漂っていたり。
疲れたときは、そのまま駅にもどればいい。そして、上りの電車を待つ。千葉まで帰る人たちが乗っている。
私は詩人ではないので・・・どこへ行ってみても、おなじような人間ばかり住んでいて、おなじような村や町で、おなじような単調な生活を繰り返していても、いっこうに気にならない。
私の“小さな旅”は、いつもこんなものにすぎない。それでも私にとっては楽しい旅なのだ。