博識について。
きみは私を博識といってくれた。そのことをありがたいと思う。
しかし、私は、若い頃からずいぶん「博識の人」を見てきた。
たとえば、「世代」の同人たち。なかでも、いいだ ももの博識ぶりにはおどろかされたものだった。横光 利一の初期の短編に、自分が何かを読むと、相手はすでにそれ以上のものを読んでいて、自分がすぐにそれを読むと、相手はさらにもっと上のものを読んでいる、といった内容の作品があったが、私が何か読んでも、いいだ ももがとっくに読んでいた。後年の、いいだ ももの仕事を見ても、そのおどろくべき博引旁証を知ることができる。
個人的に知りあえた批評家でも、私などの及びもつかない博識の篠田 一士や、磯田 光一がいた。
そして、澁澤 龍彦。さらには、種村 季弘、松山 俊太郎。
私は、この人たちと話をしながら、いつもその光彩陸離たる座談に眩暈のようなものをおぼえたものだった。
だから、私は自分を博識だと思ったことはない。ただ、いろいろな仕事をしてきたので、多少なりと勉強してきたにすぎない。
ただ、こういうふうにはいえるだろう。
ある人が私より博識だということは、その人が私たちの内部にひそんでいるものを、私とは比較にならないほど、みごとに自分の身にひきつけている、と。
そういう人の博識はすばらしい。逆に、クイズ番組に出てくるような博識の連中などに少しもおどろくことはない。
――(「未知の読者へ」No.2)