たまに「コージートーク」を読んだ人からメールがある。こんな小さなエッセイでも誰かが読んでくれている。うれしいかぎり。
今回のメールは――若い頃から中南米を放浪して、現在は東京で、シナリオ講座を受講しながら脚本、小説、詩を書いている人から。かりに「Sくん」とお呼びしよう。
いろいろとお答えしたい内容なのだが、まとめて返事を書くことができないので、とりあえず、ひとつのことを考えてみよう。
「やり過ぎ、一つに集中すべし、ということは分かっているのですが、やはり全部やりたい。これも何かの病気かもしれませんね。まあその性癖のおかげで、先生の広範なテーマのコラムが好きなわけですし、こりゃ先生も同病じゃないだろうかと勝手に想像したりして、ますます親近感が沸いてくる次第です。」
まったく無名とはいえなかったが、まだ、自分のめざす世界の見当もつかなかった頃、先輩の方々によく忠告されたものだった。中田君は創作だけに集中すればよかった。そうすれば作家になれたのに、と野間 宏にいわれた。中田君は語学をやらなければいけません、そうでないと、十返 一のような(軽)評論家になってしまう、と荒 正人にいわれた。きみは批評よりも戯曲を書いたほうがいい、と内村 直也がいってくれた。
ようするに、気が多い、一つのことに集中したほうが成功できる、という忠告だったと思う。今、思い返してもありがたい助言だったと思う。
ただ、このときから自分なりに考えた。一つのことに集中する、ということは、自分を作り直すということなのだ、と。しかし、これがそう簡単にはいかなかった。
当時の私は、イギリスの戯曲を熱心に読みあさった。誰も読まないらしく、古本屋の片隅に埃をかぶっていたから。だいいち値段が安かった。内容もやさしいように見えた。戯曲を読むことのむずかしさに気がつかなかった阿呆が、私だった。
アメリカの詩を読んだ。短いので、簡単に読めるからだった。
こうして「勉強」らしいことをはじめたのだが――結果はごらんの通りのていたらく。今の私の語学はいまだにあやふやで、おまけにそろそろボケてきているので、ほんとうに語学を身につけることができなかった。
ただ、こういうムチャな乱読のおかげで、ノエル・カワードも、アーチバルド・マクリーシュも、W・H・オーデンも、何もかもごった煮になって私の内部にひしめきあうことになった。
アメリカの詩人を読んだといっても、系統的に読んだわけではないので、ホイットマンからシルヴィア・プラス、ミュリエル・ルケイザー、エミリー・ディッキンスン、とにかく手あたり次第に読みつづけた。
小説もおなじことで、偶然に手にとった作家は、私にとってはすべて未知のものばかり。とにかく読むしかなかった。
だからといって「気が多い」ことにはならないだろうと思う。
それに、小説を読むのは楽しみのためで研究するためではなかった。いい小説を読んだとき、自分の思考が、不意にそれまで考えもしなかった豊かなものになる。自分では想像もしなかったほどの深みに達している。そう思える瞬間がある。
そういうとき、眼がくらむような思いで立ちつくすような眩暈におそわれる。
私はいつも好きな作家をそんなふうに「発見」してきたのだ。
これだって「一つのことに集中」することにならないだろうか。
――(「未知の読者へ」No.1)