子どもの頃から、毎日、活動写真を見ていた。むろん、それなりに理由がある。
私が小学校に入学したとき、栄一君を別の小学校に入学させたおばさんと、私の母が知り合いになった。このおばさんは、母より年上だったが、芸者あがりで、活弁(活動写真の解説者)に落籍(ひか)されて栄一君を生んだという。
活弁のおじさんは中年の、堂々たる風貌で、活弁時代は人気があったらしい。
ト-キ-時代になって、活弁たちがぞくぞくと失職するなか、おじさんは活動写真の小屋(劇場)を手に入れて、ドサまわりの小芝居の演芸場にした。無声の活動写真と発声映画が新旧とりまぜて上映されていた時期で、やがてPCL(「東宝」の前身)が発足したとき、映画館に改装して成功した。
私は、自分のクラスの子どもたちと遊ぶより、栄一君と遊ぶようになった。遊びにあきると、映画館の二階の席にもぐり込む。「関の弥太っぺ」とか「自雷也」といった活動写真を見た。毎日、栄一君のところに遊びに行くのだから、毎日、おなじフィルムを見るのだった。栄一君は一度見たフィルムは二度と見なかったが、私は何度もおなじものを見るのだった。「四谷怪談」は一度見たが、あまりおそろしかったので、二度目に見たときは、こわいシ-ンになる前に横になって、そのシ-ンが終わるまで見ないようにしていた。 たくさんの俳優、女優の顔と名前をおぼえた。