芥川龍之介の語学力は非常に高いものだったと思われる。
(1) ところが、「僕等の語学的素養は文芸上の作品の美を捉える為には余りにも不完全」だから、西洋の詩文の意味は理解できても、その作品の「一字一首の末に到るまで舌舐めずりをする」ほどには味わえない、という。(「文芸的な、あまりに文芸的な」)
いまの翻訳家にしても、いくらかおなじ嘆きを抱いている人はいるだろう。
(2) その三年前にも、芥川龍之介は、
「僕の語学の素養は彼等(外国の作家、詩人)の内陣に踏み入るには浅薄を免れなかった」という。そして今も外国の詩人の音楽的効果を理解できない、とする。
(3) 僕に上田 敏と厨川白村とを一丸とした語学の素養を与えたとしても、果して彼等の血肉を啖ひ得たかどうかは疑問である。」(「僻見」)という。
私の考えは以下の通り。
(1)は、芥川龍之介のように非常に高い語学力をもった人なら当然の意見で、この論理から、野上 豊一郎のような翻訳論を展開するのは愚劣である。ある国語にまったく違う文脈のものを移植する作業は、円周率の計算を出すようなもので、未来永劫、原作と同一の結果が出るわけではない。つまり、翻訳は「一字一首の末に到るまで舌舐めずりを」しながら訳したからといって名訳ができるわけではない。
(2)については、芥川龍之介の謙虚を見るべきだろう。と同時に、(3)は、上田 敏と厨川白村に比肩するひそかな自負を見ていい。
現在の私たちは外国について、語学的にも、情報量も、芥川の時代とは比較できないほど優位に立っている。しかし、翻訳が楽になったわけではない。だから、「僕等の語学的素養は文芸上の作品の美を捉える為には余りにも不完全」という思いは、私たちにも共通しているだろう。
私が志賀 直哉を軽蔑するのは、戦後すぐに国語のフランス語化を提言するような愚劣なもの書きだったことによる。野上 豊一郎に反発するのは、彼の「翻訳論」に、日本語は外国の文芸上の作品の美を捉える為には余りにも不完全だから、その意味だけを訳せばよいとする無能と、原文を理解するなら直接、その言語に当たるべきとする大正教養派の傲慢を読むからである。