小学生の私は腕白ぼうず、いたずらばかりしていた。学校から帰るとすぐに外に飛び出して、メンコ、ビ-玉、原っぱで忍術ごっこ、川っぺりでツブテ打ち。夜はラジオで村岡 花子先生の「子どものじかん」を聞くだけ。勉強は大きらいだった。
見かねた母(宇免)が学習塾に頼みに行ったが、面接で先方に断られた。途方にくれた母は、隣りのクラスの級長だった杉田(慶一郎)君のお母さんに相談した。たまたま杉田君の親戚で近くの酒屋の主人が書道の達人と聞いて、私をお習字に通わせることにした。 この酒屋さんは商売熱心な人だったが、習字の練習はきびしかった。この達人に、墨硯、筆づかいの初歩から教えてもらったことを生涯のよろこびと思っている。
酒屋さんの義兄の桜田さんは、水戸藩の剣道の達人だったが、杉田さんの縁で算数を教えてくれた。年配、四十五、六、頭を剃っていたので、禅寺の修行僧のように見えたに違いない。この人も外見は柔和だが、内面ははげしい人だった。
この人の母親、「桜田おばさん」も私にとっては忘れられない老女である。娘の頃の美貌を偲ばせるおばあさんだったが、私をまるで孫のように可愛がってくれたのだった。躾けのきびしい武家育ちで、品がよく、昭和になってお歯ぐろをつけていたので、子どもながらに驚いた。見たこともなかったから。
母からの届けものをしたとき、「桜田おばさん」は丁寧に手をついて、
「お使いがら恐れ入りました。お母さんに、どうぞこのようなごねんごろにはおよばぬとつたえてください」
と挨拶された。
何をいわれたのかよくわからなかったので、私はペコンと頭をさげて帰ってきた。
いまでも、私を可愛がってくれた「桜田おばさん」のことを思うと、なつかしい思いが胸にあふれてくる。
杉田君はきわめて優秀な人で戦後まもなく理学博士になった。