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戦後、すぐにストリップショ-が流行した。
それまでのきびしい抑圧から解放されて、私たちに自由を実感させたのが女性のヌ-ドを見ることだった。舞台上で全裸の女性が静止した姿を見せる「額縁ショ-」が戦後の性風俗のさきがけになった。客が押し寄せたので、警察が介入した。
こういう現象は激動期の国には共通して見られる。
はるか後年、ベルリンの壁が崩れたとき、東ベルリンの市民が西側のポルノショップに殺到したり、ストリップショ-に眼を奪われたという。ソヴィエト崩壊の混乱のなかでも、まっ先に氾濫したのがポ-ノグラフィ-、ストリップショ-だった。
だから、日本でも戦後にすぐに登場したヌ-ドの「活人画」がストリップショ-のはじまりと思われている。しかし、これはあやまり。
芸者のお座敷芸はべつとして、舞台上のストリップショ-らしきものは、明治39年5月23日。日露戦争の終わった直後である。神田橋外、和強楽堂で開催された「東洋演説音楽会」というショ-のラストに登場した。
舞台に紅白の幔幕。その中央から幕が引きあげられると、「只見る、一人の裸体美人、両手に樹枝をかざして立てり」。観客は声をのんで見つめたにちがいない。
ただし、「満堂の視線、之(これ)に集まる刹那、幔幕は引き下ろされたり」という。 これを報じた「日本」の記事では「此瞬間、何等(なんら)活人画なるものに就いての感想は起らざるなり」と書いている。観客は、唖然、茫然、愕然、凝然、ただ声を失ったにちがいない。
しかも、俗謡の伴奏つきだったという。記者はこのショ-をはげしく非難している。
当時、内務省は美術作品の裸体画に対する弾圧をつよめていたことを考えあわせると、こんな記事からでも見えてくるものがある。(笑)