宝井 其角(1661~1707)に、
京町の猫かよひけり揚屋町
という句がある。つまらない句にしか見えない。むろん、ダブル・ミ-ニング。
たちまち、廓という異空間が見えてくる。
吉原の芸妓はもともと、仲之町と京町(横町とよばれていた)の二つにわかれていた。昭和初期に仲之町芸者は85名、京町に70名ばかり。
吉原芸者といえばほんらい仲之町芸者のことで、大店(おおみせ。おおだなと読むと、べつの意味になる。)に出入りするのは、仲之町芸者だけ。
横町芸者は見番制度をとっていた。玉(ぎょく)一本が30銭。2時間を一座敷として玉4本。お祝儀が2円40銭は1時間2本。祝儀90銭のきめだった。
明治の作家、福地 桜痴が、仲之町芸者を呼んでことごとく白無垢を着せ、当時いちばんの幇間、桜川 善孝を坊主に仕立てて、くちぐちに南無阿弥陀仏と念仏を唱えさせながら、精進料理で酒を飲んだのが法事遊び。たいへんな費用がかかったはずである。
品川楼の花魁、清司(せいじ)は客と心中した。その名をついだ二代目の清司(せいじ)は、初代清司の菩提をとむらうために、背中に南無阿弥陀仏、袖に卒塔婆(そとうば)、裾にしゃれこうべ、木魚、鉦(かね)などを模様にした白装束で客をとった。
昔の吉原にはそんな話がいくらでもある。
福地 桜痴の大尽遊びを羨ましいとは思わない。二代目清司(せいじ)の殊勝ぶりにも興味はない。さりながら、夜更けの新内流しや、火の用心に廓をまわる夜番の金棒の音を寝ざめの床でしんみり聞いてみたかったという思いがないわけではない。
そこで、其角の一句がなかなか趣きのある句に見えてくる。