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どうすれば作家になれるのか。
1944年、勤労動員先の会議室に集まった学生のひとりが小林 秀雄に訊いた。私ではない。小川 茂久だった。ただし、そのときの小林 秀雄の答えは今もあざやかに私の心に残っている。
ようするに、一瞬に心に去来するものを、いつでも自分の内面にいきいきとよみがえらせる能力を身につけること。正確に小林 秀雄がこう答えたわけではないが、私が受けとった答えは、そういうことだった。
これに似たことを、里見 敦が語っている。(1946年)
たとえば、電車に乗っていて、向こう側にすわっている男女の、話声は聞こえずとも、口許をかすめた微笑ひとつで、ながらくつれ添う夫婦ものか、兄妹か、恋人か、恋人でもすでにからだの関係があるかどうか、てだしはまだかに至るまで、いきなりピンとくるような観察。
もっとも里見 敦は、どこまでが「観る」で、どこからが「察する」のか、その境界さえ曖昧模糊たるもので、実は「観察」などとはおこがましく、「観ながら空想する」ぐらいがせいぜい、と謙遜しているが。
似たようないいかただが、じつは大きな違いがある。小林 秀雄は、このときベルグソン的な直観を語っていたはずだが、里見 敦は日本の作家の修練について語っていたと思う。
私の内部でふたりのことばはさまざまな方向に発展して行った。