220

前に、この「ト-ク」で「シンシナティ・キッド」(ノーマン・ジュイソン監督/65年)にふれた。もう一度、エドワード・G・ロビンソンのことを書いておきたい。
映画は、ニュー・オーリーンズを舞台に、スタッド・ポーカーの達人、「シンシナティ・キッド」と、「ザ・マン」と呼ばれる老人の対決。小味だが、いい映画だった。
この映画のロビンソンは戦争中の「運命の饗宴」、戦後すぐの「他人の家」、さらにそれ以後をつうじて彼の最高の演技だと思う。
ずんぐりと小柄だが、牡牛のような体躯、ひろい額に細眼のまなざし、いつも葉巻をくわえている酷薄な唇、残忍なギャングスタ-をやらせたら最高の役者だった。何かあると、ゆっくりひろがってくる不敵な笑顔がすごい。
おれを知らないやつでも、にやりと笑ったおれの近くに寄ってきたらおもわず恐怖におののくに違いない。そんな笑いかただった。
私にとっては、なつかしい映画スタ-のひとり。

219

どうすれば作家になれるのか。
1944年、勤労動員先の会議室に集まった学生のひとりが小林 秀雄に訊いた。私ではない。小川 茂久だった。ただし、そのときの小林 秀雄の答えは今もあざやかに私の心に残っている。
ようするに、一瞬に心に去来するものを、いつでも自分の内面にいきいきとよみがえらせる能力を身につけること。正確に小林 秀雄がこう答えたわけではないが、私が受けとった答えは、そういうことだった。
これに似たことを、里見 敦が語っている。(1946年)
たとえば、電車に乗っていて、向こう側にすわっている男女の、話声は聞こえずとも、口許をかすめた微笑ひとつで、ながらくつれ添う夫婦ものか、兄妹か、恋人か、恋人でもすでにからだの関係があるかどうか、てだしはまだかに至るまで、いきなりピンとくるような観察。
もっとも里見 敦は、どこまでが「観る」で、どこからが「察する」のか、その境界さえ曖昧模糊たるもので、実は「観察」などとはおこがましく、「観ながら空想する」ぐらいがせいぜい、と謙遜しているが。
似たようないいかただが、じつは大きな違いがある。小林 秀雄は、このときベルグソン的な直観を語っていたはずだが、里見 敦は日本の作家の修練について語っていたと思う。
私の内部でふたりのことばはさまざまな方向に発展して行った。

218

伊勢に足をはこんだ芭蕉が、
宮川に芋洗う女、西行ならば歌作らむ
と詠んだ。すごい字あまりだが、さすがにいい句だと思う。
はるか後年、「大阪朝日」の水島 爾保布がこれをもじって、漫画、漫文に、
宮川に芋洗う女、弥次郎兵衛ならば何とせむ
とつけた。弥次郎兵衛は、いうまでもなく『東海道中膝栗毛』に出てくるヤジさんのこと。これを岡ッ引きが見逃すはずがない。
たちまち不敬罪ということになって、水島 爾保布はトッちめられた。
戦前の「治安維持法」がどういうものだったか。東ドイツの「シュタ-ジ」どころではなかった。
もっとも、今だってうっかりマンガも描けない時代になってきた。

217

10年前。
作家、遠藤 周作が亡くなった。
私は彼の葬儀に参列したが、式場は参列者でいっぱいだった。大勢のファンが長い列をなして在りし日の作家を悼んでいた。私は教会の外の庭に立って、立錐の余地もないほどつめかけた会葬者のなかで、若き日の遠藤 周作を偲んだ。やがて聖歌の合唱になって、隣りにいた若い女性が美しい声で唱和していたことを思い出す。
当時、私は長い評伝(『ルイ・ジュヴェ』)を書きつづけていた。遠藤 周作が生きていたら読んでもらいたかった。しかし、評伝はいつになったら完成するのか、自分でもわからなかった。それに、完成しても出版できるかどうか。私は自分の内部にうごめいている不協和音、混乱ばかり気になっていた。私の内部ひどく暗くていびつに歪んだ穴がぽっかり開いている。それまで私の周囲にいてくれた人が不意にいなくなって、私をしっかりとり囲んでいた輪がくずれようとしている。そんな思いがあった。このときの私はほんとうに懊悩のなかを歩きつづけていた。
この年、飯島 正、司馬 遼太郎、武満 徹、大藪 春彦、増淵 健、宇野 千代といった人々が亡くなっている。
ジ-ン・ケリ-、アナベラ、クロ-デット・コルベ-ル、ドロシ-・ラム-ア、マリア・カザレス、マルチェッロ・マストロヤンニたちも。
「Shall we ダンス?」、「岸和田少年愚連隊」、「トキワ荘の青春」といった映画をやっていた。「楽園の瑕」や「天使の涙」なども。「42丁目のワ-ニャ」をみて、その監督をひそかに軽蔑したことをおぼえている。
私の内面に死というイデ-が浮かんできたのは、このときからだったような気がする。

216

テレビ。高野 悦子女史の「ポルトガル紀行」(1994年)の再放送。
鉄砲伝来をテ-マに自分のシナリオ、ポルトガルの監督で映画化しようとして「大映」に話をもって行ったところ、いつの間にか、別の監督、シナリオに変えられて映画化されたという。よくある話だ。
映画は日米合作の「鉄砲伝来記」。監督は森 一生。シナリオは長谷川某。主演は、若尾 文子。こんな映画なんかもう誰もおぼえていないだろう。
高野さんは、最後には訴訟に持ち込んたが、映画のタイトル・クレジットに原案・高野 悦子と出ただけだった、という。
「大映」の永田 雅一ならそんな悪辣なことも平気でやったろうな。「羅生門」が世界的に知られたとき自分がプロデュ-スしたと吹聴して歩いた。あの温厚な山本 嘉次郎(映画監督)が、めずらしく憤懣を文章にしている。
芸能界にはこういうゲスが掃いて捨てるほどいる。今だって変わらない。

215

国分寺の駅から表通りに出た。少し歩いたとき、見知らぬ若者に呼びとめられた。知り合いではなかった。にこにこして話しかけてくる。どうやら路上でインチキ商品を売りつけようとしている。さりとてヤクザではない。アルバイト学生でもない。少し警戒しながら立ちどまった。たいして利口でもなく、詐欺を常習とするほど悪辣でもない。こすッからい感じがなかった。予想した通り、携帯電話そっくりに作ってあってボタンを押すと時間が出てくるトゥ-ルを買ってくれという。
人のよさそうな微笑をうかベながら、不況で会社が在庫処分に踏み切ったもので、品質は保証するという。明るい表情で、誠実そうな若者だった。
だますやつと、だまされるやつ。私はだまされるほうがわるいと思っている。さては私をくみしやすし、と見たか。
彼がどういうふうに私をだまそうとしているのか興味があった。ひとしきり話を聞いてから私は男をふり切った。
なかなか興味があったよ。品物に、ではなく、きみに。私はいってやった。
しばらく歩いているうちに気が変わった。たしかにペテン師には違いないが、やたらに明るくて気のいい男なので憎めない。Made in China のオモチャなのだから孫にくれてやってもいい。戻った。男の顔に不審な表情が浮かんだ。
こんなものはいらないのだが、あんたの気のいいところが気に入った。買ってやるよ。私はだまされていると承知した上で、きみの人柄が気に入ったといってやった。
男は唖然とした顔になったが、明るい声で、ありがとうございます、といいながら、私にオモチャをわたしてくれた。私の顔を見て、「失礼ですが、ご住職さんで?」
「冗談じゃない。おれが坊主に見えるかい。だいいちそんな人徳のある御方じゃないよ。きみにだまされるくらいだからな」
別れるとき手をふってやった。ちょっと楽しい気分だった。

214


好きな絵。
その前に立っていると、見ている私に無言で語りかけてくるような絵。
はじめて見たのに、なぜかなつかしい気がするような絵。
そういう絵は・・・・少ない。
ヘミングウェイは、プラドに行くと、ゴヤ、ル-ベンス、ベラスケスに眼もくれず、まっすぐスペイン絵画の展示室に寄って、いつまでも一枚の絵を見ていたという。
私も行ってみた。かなり狭い部屋で、その絵は小品といっていいサイズだった。おなじ8号ほどの二枚がならんでいる。それぞれ美少女が描かれている。
十六世紀に生きていた若い娘の肌のしっとりした匂い。何か超自然的な美しさに女のいのちのなまなましさが重なりあっているようだった。
ヘミングウェイはどちらの少女に惹かれたのだろうか。私はどちらともきめかねて見較べていたが、そのうちにそんなことはどうでもよくなってきた。
はじめて見たのに、なぜかなつかしい気がするような絵だった。

213

誰でも知っているほど有名だが、誰も読まない名作。たしかヴォルテールが『神曲』をあげていた・・・と思う。私は『神曲』は読んだが、ヴォルテールは読まない。
「貫一の眼は其全身の力を聚めて思悩める宮が顔を鋭く打目戍(うちみまも)れり。五歩行き七歩行き十歩行けども彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて大息したり。
『宜し、もう、宜し、お前の心は能く解つた。』
有名な小説の一節。誰でも知っているほど有名だが、誰も読まない名作。
大学で紅葉の作品をいちおう読んだけれど、批評家として論じたことはない。そこで、最近やっと『金色夜叉』を読み直した。紅葉は、短編のほうがずっといい。
『金色夜叉』がつまらなかったのは、文体のせいではない。貫一が五歩行き七歩行き十歩行ったとき、よく歩数をかぞえたなあ、とバカなことを考えたけれど。
岡本 綺堂さんのお墓のすぐ近くなので、ついでに紅葉さんのお墓に詣でた。
最近まで『金色夜叉』を読み直しませんでした。ごめんなさい、紅葉さん。

212

ファッション雑誌の記事。
靴のブランド「イレギュラー・チョイス」の春夏は、女心をくすぐるロリータ的なデザインがいっぱい。分厚い麻のウェッジソールに小花プリントの組み合わせがロマンチックです。
へえ、こういうのがウェッジソールなのか。ナボコフが読んだらよろこぶかも。
スポーツウェアなどに用いる機能性の高い合繊を使ったヌードカラーのドレス。重ね着したようなドットのスカートはドレスと一体になっています。
ふ~ん、ヌードカラーとは恐れ入ったなあ。
それで、思い出したことがある。
二十世紀に入ったばかりのドイツは、外国語がどっと流れ込んだ。洗濯屋(ワイスワレンゲシェフト)はランジェリー、下着屋(ヘムデンゲシェフト)はシュミズリーになつたが、ローブ、ジュポン、コルセットといった名詞は、まったく存在していなかった。
外国語の氾濫とあまりの変化にたまりかねた国語擁護派が、ドイツ国語省を新設せよ、と騒いだが、第一次大戦で、お風呂屋(バーデル)、理髪屋(ハールクロイスラ)、お菓子屋(ツッカーベッカー)、お裁縫(シュナイダー)、宿屋も小料理もドイツ語が消えてしまった。お裁縫はテイラー、宿屋はホテリアー。
日本は・・・もう、ヤバいかも。

211

外国語の研修について調べているうちに、明治44年、東京外語のドイツ語学科の修学旅行が、清国、膠州湾、青島(チンタオ)だったことを知った。この年、7月29日、横浜出帆、8月3日、青島(チンタオ)着。滞在期間は4週間。
「ドイツ語の実地練習、地理および開化史的知識の増進、ことに大洋航海、植民地におけるドイツ人の生活観察」が目的という。
旅費は、船賃が往復で33円。青島(チンタオ)滞在費、21円。計、60円。
こまかい規定がある。旅装は・・・制服制帽、シャツ、スボン下、着替え。鉛筆、万年筆、小刀、筆記帳。洗面用具、うがい用具。毛布、袷(あわせ)帯、清心丹など。洋傘、望遠鏡、地図。
いまの小学生の林間学校なみだね。
おもしろいのは、団長の許可なくして、料理店、旅館、私宅、海水浴などに「立ち入るべからず」。武器の携帯禁止。禁制の場所にて写真撮影すべからず。
最後に「清国学生と政治上の談話をなすことを禁ず」とあった。

210

1906年、ライト兄弟が、世界最初の空中飛行に成功した。日露戦争が終わった翌年だったことは、あまり人が気づかない。
レオナルド・ダヴィンチが空中飛行を考えていたことは、よく知られているが、実際に、翼をもつ飛行物体を作ったのは、1670年、イタリアのボレツソ。この人のことは、私も知らない。
飛行機らしきものを作ったのは、1796年、イギリスのジョ-ジ・カレ-。この人のことも、じつは知らない。

→「仕立屋さん 空 飛んだ」

209

巴里に於ける飛行椿事・・・五月二十一日、巴里に於いて挙行せる巴里マドリッド間の飛行競争会に於いて、出発後、一大椿事起こり一飛行機は群衆の頭上に墜落して、数多(あまた)の重傷者を生じ、内閣総理大臣、モニ-氏、陸軍大臣、ベルト-氏、及び高級武官一名、重傷を負ひしが、陸軍大臣は遂に負傷の為に死去せり。独逸大使は仏国政府に対し、独逸宰相、並びに同政府の悼詞を述ぶべく伯林(ベルリン)より電命令せられたり。
これは、明治44年の新聞記事。
この事故は、20米突(メ-トル)の空中から一機が墜落したもの。当日、このレ-スをみようとつめかけた観衆は「実に二十万人に上れり」という。
首相は、両足を骨折したほか、外鼻骨を挫折、視力障害を起こした。
この事件で、セルビア国王のパリ訪問が、急遽、延期された。
おなじ時期、日本でも、ブレリオ式飛行機の事故で、徳川大尉、伊藤中尉が重傷を負っている。こちらの記事には・・・「とにかく、日本飛行家は未だ飛行に於いて充分の成功を収めざるが如し」とあった。
こんな記事を読むと、じつにいろいろな感想がうかんでくる。

208

2008年度から、公立の小学校で、英語が正式の科目として教えられるようになる。 これまでは、「総合学習」の一環として、英語を教えることはできたが、正式の科目として教えることはできなかった。
英語を教えていた地域では、「小学校段階から英語の能力がついて、関心が高まった」、「教員の教える意欲が向上した」という評価する声が出ている、という。
けっこうな話じゃありませんか。
じつは、私は語学が好きではない。そのくせ、翻訳したり、どこかの大学で英語を教えたこともある。考えてみれば(いや、考えなくたって)そらおそろしい話だ。
そういう私だが、公立の小学校で英語を正式の科目として教えることに反対はしない。ただし、英語以外でも、中学で教える内容の一部を小学校で教えることが可能になる、という条件で、「反対はしない」だけである。
私は忘れない。日本の教育行政がどれほど多くの誤りを重ねてきたか。
文部官僚の一部のほんの思いつきで、やれ「学校群」やれ「ゆとり教育」、やたらに教育制度いじりやら教育システムをコロコロ変えて、結果としていちじるしい学力低下を招いてきたではないか。もっとも、そんなことをいい出したやつは、もうとっくに退職して、今頃は天国でのんびり暮らしているだろうナ。
ま、いまに誰もがエ-ゴしゃべっちャッて、みんなハッピ-だよ~ン。外交だって、エ-ゴ通じたりして。ほら、9.11ンとき、アメリカにトンでって「テロに反対する」
We must fight terrorism.かなんかいっちゃった、ええカッコし、いたやんか。
あんとき、そばにいたおエライさん、ギヨッとしてはったで。(オラ、ここンとこ、ちゃんと録画しといたもンな。)
だけど We must fight against the terrorismぐらい、いっチャッってほしかつたな。
フぁ~ッ。(ナントカHGのパクリっすヨ。)
そんじゃ、ま、小学校の英語のお勉強ヨロシコ!

207

お隣りに新婚の夫婦が引っ越してきた。ある日、その奥さんが私の妻に訊いた。
失礼ですが、ご主人はどこかおからだでも・・?
いいえ、別にどこもわるくありませんわ。妻が答えた。
日がな一日、家にひきこもって何か書いているのだから、えたいの知れない人間に見えたのだろう。その頃の常識では、失業者か、病人、それも肺結核か神経衰弱の患者と見たらしい。
どんなお仕事を・・?
もの書きですけれど。
ああ、代書をなさっているのですか。
あとでその話を聞いて私は大笑いした。
当時の私は、翻訳を二、三冊、あとは雑文を書きつづけていた程度のもの書きだった。毎日、犬をつれて近くの公園を散歩したり、ときどき訪ねてくる若い人たちを妻の手料理でもてなすぐらいがせいぜいだった。私のところに遊びにきてくれた仲間に、常盤 新平、志摩 隆(後年、「パリは燃えているか」を訳した)、鈴木 八郎(劇作家)、若城 希伊子(後年、女流文学賞を受けた)たちや、若い俳優、女優のタマゴたちがいた。
みんな貧しかったが、そろって勉強好きで、それそれ自分のめざす世界に向かってつき進んでいた。

いわゆる土地の名士だった岳父もずいぶん肩身が狭かったらしい。何を書いているのかわからない無名のもの書きに娘を嫁がせなければならなかったのだから。
昭和28年頃のこと。

206

小間物屋。今ではまったく見かけなくなった。昔のスーパー、またはコンビニ。
日用品ならなんでもそろっていた。店先に板の台に、石鹸、歯磨き、香水、白粉(おしろい)、椿油などが眼につくように並べられている。
江戸と明治がまざりあっていた。
たいていが土間で、中の棚には半切れ、状袋、筆や墨、和紙、色紙、書簡箋。
その奥に手巾(ハンケチ)、手拭い、メリヤス、どうかすると、女ものの半襟、かもじまで。このあたりには、明治と大正の匂いがただよっていた。
とりどりの雁首のついたキセル。なかには村田張り、千段巻きのシンチュウギセル。
舶来タバコの綺麗な箱を飾りつけ、安ものの駒下駄、夏には麦わら帽子など。
和菓子も、串団子、金鍔(きんつば)、豆大福、酒マンジュウ。
売薬、ウイスケから電気ブラン、ポルト・ワインなどの洋酒まで。
これが温泉場の小間物屋になると、店いっぱいに湯花染、ご当地名物の繰りもの細工。花筒(はないけ)。木彫りの置きもの。
いちおう何でもそろっていた。
永井 荷風は「コルゲート」で歯を磨いていたし、芥川 龍之介は「コカコーラ」を飲んでいた。
今では小間物屋は根こそぎ壊滅した。江戸情緒もへったくれもない。
戦前、価格が均一の「10銭ストア」があった。そういう移りかわりを見てきた私には、戦後になって、いたるところに進出してきたアメリカン・スタイルのコンビニも、私にとっては西洋小間物屋に見える。

205

出羽ガ嶽のことを知っている人は、もういないだろう。
斉藤 茂吉が可愛がった力士で、お正月か何かに、斉藤邸に挨拶にうかがった。幼い頃の北 杜夫は、その巨躯に恐怖をおぼえたという。これは北 杜夫が書いている。
こんな笑話があった。
相撲部屋でも、お正月には屠蘇を祝い、お雑煮をいただく。
出羽ガ嶽のお雑煮に入れるお餅の大きさはハガキほどもあった。
お相撲さんのことだから、ぺろりとたべてしまう。
「めんどうくさい、出羽ガ嶽のお雑煮は往復ハガキにしろ!」

出羽ガ嶽は関脇どまり、膝やからだの故障で不成績がつづいて、番付は落ちるばかりだった。やがて廃業、いつしか忘れられてゆく。
私が土俵の出羽ガ嶽を見たのは二度。前頭の上位のときと、十両に落ちてからと。二度ともあっけなく負けてしまった。

学校の帰り、チンドン屋が出て人だかりがしていた。電車通りに面した角にお菓子屋ができて、開店のお披露目だった。
クラリネット、三味線、ハチに小太鼓で、「美しき天然」のメロディ-に乗って、チョンマゲ、鳥刺し姿の男女がうねり歩いているなかに、赤と白のトンガリ帽子をかぶった巨大な男が、店の名前をくろぐろと墨書した幟(のぼり)を掲げ、背中に旗指物(はたさしもの)をさして、のっそりと歩きまわっている。見物人は遠巻きにして、ゲラゲラ笑っていた。
出羽ガ嶽の落ちぶれ果てた姿だった。
小学生は、なんだか悲しくなって、べそをかきながら家に帰った。

204

高見盛というお相撲さんに人気がある。
制限時間いっぱい、最後の仕切りに入るとき、自分の気もちを引きしめるのだろう、いきなり自分の顔を両手でバシバシッとたたく。満面を紅潮させながら、両手の拳をにぎりしめ胸もとをドシンドシン。つづけて二、三度、両手を胸もとにグイッグイッとひきつける。まるで重量挙げの選手がバ-ベルをあげるように。
そのウォ-・ダンスの動作が滑稽というか、見ていておもしろいので、場内に声援と笑いがどっと沸く。本人は大まじめなのである。
こういうお相撲さんが、ほかにもいたのだろうか。
明治14年頃、三段目に、越ノ川というお相撲さんがいた。この力士が土俵にあがると、どっと笑いが沸いて、たいへんな人気だった。なにしろ、ユルフンで、やたらと上のほうにしめている。本人はそれを気にして、両手の親指を突っ込んで、下にさげる。そのとき、おなかをペコペコさせる。仕切り直すたびに、それをくり返す。
見物人は大喜び。本人は、なんで見物が笑うのか気がつかない。どうして笑うのかわからなかったらしい。
少しも当てこみがなかったので滑稽が下卑(げび)なかった。
この越ノ川は負けてばかりいたが、それでも番付はあまり下がらなかった。人気があったせいだろう。
江見 水蔭を読んでいて、こんなお相撲さんのことを知った。

203

双葉山は不世出の名横綱だった。
ほかの横綱、玉錦、男女ノ川(みなのがわ)、武蔵山たちも、双葉山には負けつづけた。誰が双葉山を敗るか、連日、興味が集中していた。
小学生の私のご贔屓は三役では鏡里、小結の綾昇(あやのぼり)、平幕の鯱里(しゃちのさと)たちだった。玉ノ海、名寄岩などは、性格、取り口が荒っぽいせいで、あまり好きになれなかった。
いまでも双葉山が安芸ノ海と対戦した日のことをおぼえている。
ラジオにしがみついて、取り組みを聞いていた。
この日、双葉山が敗れるとは誰ひとり思っていなかったに違いない。
結果として双葉山の70連勝が阻まれた。場内は騒然、というより、歓声、怒号、叫喚の坩堝で、座ぶとんが飛び、まるで暴動でも起きたような騒ぎになった。アナウンサ-の声も聞きとれないほどの騒ぎになった。
私は母に知らせに走り寄った。
「お母さん! 双葉山が負けたよ!」
母の宇免は洗いたての割烹着、小ざっぱりした身だしなみ、おしろいもつけず、無造作に髪をたばねて台所で水仕事をしていた。まだ20代の後半で、相撲に関心がなかった。私があまり昂奮しているのであきれたらしい。私にひとこと。
「可哀そうに。だけど、あしたッからまた勝ちゃいいじゃないの」
私は茫然とした。

202

1932年の映画スタ-名鑑。

トップに、田中 絹代。つづいて、川崎 弘子、澤 蘭子、入江 たか子。これが三役クラス。
平幕に、夏川 静江、梅村 蓉子、及川 道子、伏見 直江、浦辺 粂子。
少し下だが、琴 糸路。新人では、五味 国枝、光 喜三子。
もう誰も見たことのないないスタ-たち。私はだいたい見ている。私の好きな女優は、琴 糸路だった。このリストには出ていないが、しばらくあとで、森 光子がデビュ-する。スタ-女優の森 静子の実妹だろうと思っていた。
アメリカ映画のトップは、ノ-マ・タルマッジ、メリ-・ピックフォ-ド、コンスタンス・タルマッジをおさえて、コ-ネリア・オ-ティス・スキナ-。少し下に、グロリア・スワンソン。新人では、メイベル・ボ-ルトン。
無声映画のスタ-たちが、交代してゆく状況が見えてくる。

201

座について、両者はまるで百年の知己のようにうちとけて語りあった。
彼が、
「お困り召されたかな」
というと、相手はかるく笑って、
「なんで、わしをこんなに苦しめなさるのじゃ。これから、わしがあんたに代わって官軍を指揮するから、あんたがわしに代わって江戸城に立てこもってもらいたいな」
と答えたがすぐにまじめになって、
「でも今度、あんたがきてくださったので、わしもすっかり安心しましたよ」
といった。
江戸城明け渡しである。西郷 隆盛、勝 海舟のふたり。場所は品川の薩摩屋敷。
ほんとうかどうか、私は知らない。昭和初期、児童もので知られていた安倍 季雄が書いている。