こんな文章を見つけた。
「イギリスの少年達は『ロビンソン・クルーソー』を熱心に読んで、海国男児の勇壮な魂を鍛え、イタリヤの少年達は『クオレ(愛の学校)』を読んで、愛国心やおもひやりの心を養ふのだといひます。どこの国にも、その国の人が少年時代に必ず読む本があるものであります。」
「少年倶楽部」昭和11年(1936年)3月号、山中 峯太郎の『敵中横断三百里』のための付録。
私なども『敵中横断三百里』を愛読した少年だったが、「その国の人が少年時代に必ず読む本」といわれると、つい別のことを考えてしまう。
今の子どもたちが、はたして『ロビンソン・クルーソー』や『クオレ(愛の学校)』を読むだろうか。誰も読まないだろう。勇壮な魂を鍛える時代でもないし、愛国心やおもひやりの心を養うことも必要もないからだが、子どもの頃に、こういう作品を知らずに過ごすことは、不幸なことの一つ。
別の不幸は、私たちが少年文学を考えるとき、つい『ロビンソン・クルーソー』や『クオレ(愛の学校)』などをもち出さなければならないことにある。
さらに大きな不幸は、『ロビンソン・クルーソー』や『クオレ(愛の学校)』をあくまでもすぐれた文学作品として読むことがなかったことだろう。山中 峯太郎の『敵中横断三百里』はもはや誰も読まない。それでいいのだ。
だが、福島 安正のオリジナルは、日本人の書いたもっともすぐれたノン・フィクションの一つ。この作品をすぐれた文学としてとりあげた文学史は一つもない。これこそ、私たちにとっては大きな不幸ではなかったか。