晩年、アルツハイマーに襲われた作家や芸術家は少なくない。作家のサマセット・モ-ム、演出家のジャック・コポオ、写真家のバ-ク・ホワイト、丹羽 文雄のように。
娘として、実の母がアルツハイマーになったら、どういうふうに対処するだろうか。しかも母親が有名な文筆家で、その娘もまた作家だったとしたら。
エレノア・クーニー著『夕光の中でダンスを』は、副題が「認知症の母と娘の物語」となっているように、アルツハイマーの母親を愛しつづけながら、娘として、作家として見つめた女性の回想である。船越 隆子の翻訳がいい。
エレノアの母は作家として知られていただけではなく、有名な博物学者、バードウォッチャー、画家のオーデュボンの足跡をたどった評伝的なドキュメントを書いた。しかし、三度目の夫、マイク(環境問題に熱心にとりくんでいた作家)と死別した悲しみから立ち直れないまま、やがて運命の悪意のようにアルツハイマーの症状を見せる。
母はなにごとにつけ、非常に能力のある女だった。ところが、その母に奇行や妄想があらわれ、エレノアは「女ラスプ-チン」のような母にふりまわされる。エレノアは母のことを思うと、ときどきものすごく苦しくなる。やりきれなくて。やがて母の人格が確実に崩壊してゆく。そうなった母は、いろいろなホステルや老人介護の施設からも追い出されてしまう。その姿は息ぐるしいほど、いたましい。
ここに描かれている奇行は、外から見ればおかしなことばかりだが、当事者にとっては懊悩の日常。ときにはすさまじい葛藤が描かれる。
ただし、母の無残な姿を描いた私小説ふうなアルツハイマー残酷物語ではない。私たちはこの本を読む途中で作家とともに考えるのだ。母がマイクをどんなに愛していたか。愛とは何か。さらに自然や、老病死苦について。ラストに近く、やっと見つけた優秀な施設に入所させた母が全裸で男のベッドにもぐり込んでいたと報告されて、娘は最後まで残った女としての母に微笑をむける。
作家は、アルツハイマーになった母を娘の眼で見つめながら、アメリカの中産階級の生活を描いた家庭小説の伝統を受けついでいる。と同時に、母をテ-マにした芸術家小説をめざしている。
いみじくも、登場人物のひとりがエレノアにいう。芸術的な才能をもつことの意味は、「自分にあたえられた義務」と心得ること、と。
訳者の船越 隆子がこの作品を訳したのは「自分にあたえられた義務」と見たのではないだろうか。
エレノア・クーニー著『夕光の中でダンスを』 船越 隆子訳
06.2.オープンナレッジ刊 1700円