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一の酉。
吾妻橋をわたって、ひさご通りを千束(せんぞく)まで。すぐ裏が吉原。
夜ともなれば、押すな押すなの雑踏で、人波にもまれていつしか鷲(おおとり)神社の境内に出る。浅草たんぼのお酉さま。江戸のなごりのひとつ。
熊手売りが軒をつらねて、威勢のいい掛け声の三本〆め。ごった返しのあいだあいだに、切り山椒、八つがしら。ぶっきりアメ。子どもの心もうき立ってくる。
私の住んでいた界隈では、「いちのとり」とはあまりいわなかった。初酉(はつとり)という。いや、それよりも「おとりさま」だった。二の酉、三の酉とはいう。
ある日、新聞で雑誌の広告を見た。そのなかに、武田 麟太郎作「一の酉」と出ていた。小学生が読む小説ではない。「いちのとり」とは野暮な題名だなあと思った。
中学生になって、改造社版の「武田 麟太郎集」で読んだ。一の酉の雑踏の雰囲気が眼にうかぶようだったが、どうも内容はよくわからなかった。
ずっと後年になってまた読み返した。作家が舌なめずりをしながら市井の女を描いている息づかいに、「たけりん」(武田 麟太郎)一代の傑作と見ていいような気がした。
戦後の久保田 万太郎に、
たかだかとあはれは三の酉の月
という句がある。私の好きな一句。
敗戦後、吉原焼亡。三の輪から国際劇場の通りも黒焦げ、入谷、鶯谷から言問橋までまる見えの焼け野原。この句に無残に焼けただれた浅草の姿を重ねあわせて、作家のかなしみを読む人はもういないだろう。