明治23年、ロシアの医師、作家のアントン・チェーホフは、サハリンに旅行した。大旅行であった。イルクーツク、チタを経由して、6月26日、清国とロシアの国境が接しているアムール沿岸のブラゴヴェシチェンスクに到達する。
友人にあてて、
「シベリアはすばらしい土地でした。がいしていえば、シベリアの詩は、バイカルからはじまります。バイカルまでは散文です」
と書いた。
「ブラゴヴェシチェンスクから、日本人たち、というよりむしろ日本の女たちがはじまる。大きい奇妙なマゲを結い、美しい肢体の小柄なブリュネットで、ぼくには股が短いような気がした。」(スヴォーリンあて)
ブラゴヴェシチェンスクに着いた日に、日本人の娼妓女を相手にする。
「あのことにかけては絶妙な手練を見せてくれるので、そのせいで女を買っているのではなく、最高に調教された馬に乗っているような気になる」とも。
当時、からゆきさんと呼ばれた女たちがアジア各地に進出していた。長崎は、1898年にロシアが旅順を租借するまで、冬はロシア艦隊の停泊港になっていたから、長崎、島原、天草の女たちがシベリアに売られて行ったとも考えられる。
ただし、私は別のルートもあったと見る。
明治23年、北海道、江差のニシン漁業は最盛期を迎えていた。海岸線に白壁の土蔵が建ち並んで、「江差の春は江戸にもない」といわれる好景気を迎えていた。明治25年、江差新地の遊廓が拡張されている。
明治34年、新地裏町の戸数は101戸。そのうち妓楼17軒。見番に籍を置いた芸妓の数は50名から7、80名。自前は少数で、あとはみんな抱えだったという。娼婦の数は35名から多いときで70以上。ほとんどが江差の出身だったらしい。
私はチェーホフは、江差あたりからシベリアに流れて行った日本の女を買ったのではないかと想像する。チェーホフは若くて健康だった。このときから、チェーホフの内面に日本に対する深い関心が生まれている。
十九世紀ロシア、私はチェーホフがいちばん好きなのだ。