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 泉 鏡花が、芸者、桃太郎に会ったのは明治23年であった。
 恩師の尾崎 紅葉の主催する硯友社の新年宴会に出席した彼の前に、神楽坂の芸妓がいた。清元と花柳流の踊りをよくしたが、名取りではなかった。
 性格も、たたずまいも、それほど魅力があったわけではない。むしろおとなしい、むっつりしたほうで、目立たない女だった。
 本名、伊藤 すず。
 鏡花は、その名を聞いて驚く。母とおなじ名前だった。鏡花は、この少女に、亡き母のおもかげを見たといってよい。
すずの母は、京都の商人の娘で、土佐浪人と江戸に出て、すずを生んだ。やがて、夫と死別する。やむなく、芸妓になって、商人の妾となったが、旦那が破産したため、すずを芸妓屋に預けて行方をくらました。すずは、一本立ちするまで芸を仕込まれたが、いうまでもなく血のにじむようなものであったという。
 三島 由紀夫は、「死にいたるまで鏡花が世間に吹聴してゐた亡き母への渝らぬ熱烈なアフェクション」は、いささか眉唾物に思われる、として、これを江戸っ子の特性というよりも、江戸趣味に耽溺した金沢出身の鏡花の「マニヤックな北方的な性格」と見ている。これに対して、小島 信夫がおもしろい意見を述べている。
 「名前なんかそれほどのことがあるものか、と思うとしたら、それは間違っている。名前は人間の入口である。偶然の名が同じであるということほどありがたいことはない。しかも年齢を聞けば十八歳。母が父のところに輿入れしたのとだいたい同じ年齢だ。次第にこの芸妓の過去をきき出すと、そこに涙をそそられるような哀れな話がひそんでいた。おそらくきき出すまでもなく分っていた、と彼は思ったのかも知れない。」という。
 私は小島 信夫に賛成する。
 鏡花には江戸趣味に耽溺した金沢出身の「マニヤックな北方的な性格」があったに違いない。しかし、すずという芸妓をはじめて見たとき、驚きに打たれた鏡花を信じる。こういう愛の coup d’esprit を疑う理由はないからである。
 母とおなじような不幸な女が眼の前にいる。そのときの亡き母が現前しているという思いが、たまたま同名と知ったという驚きに重なったに違いない。女の境遇もまた母に近いものであれば、鏡花にとっては運命と思われたに違いない。そんな程度の話なら江戸情話にいくらでもころがっている。しかし、それを動かしがたい運命と思うかどうか。そこにこそ、作家としての鏡花独特の心性がひそんでいた。
 三島 由紀夫という天才的な作家が、明治という時代の人情の機微を知らなかったはずはない。しかし、おそらく鏡花ほど下情に通じなかったと見ていいだろう。すくなくとも、鏡花の情に「マニヤックな北方的な性格」を見たあたりに、作家、三島 由紀夫 の無意識の倨傲を見ていいような気がする。