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 年賀状を出さないことにしている。そのくせ年賀状が一枚もこない正月はさびしいと思う。身勝手な思いとは知っているのだが。
 ジャン・ジロドーの訃報を知ったときのルイ・ジュヴェについて、私は書いた。(『ルイ・ジュヴェ』第五部・第七章)
 「面識のあった人々や、ゆかりのあった人々が亡くなっている。死亡通知がきたり、共通の知人から電話で知らせてきたりする。長いあいだ入院して、苦しんで死んだ友人のことを思うと、むしろ、亡くなってよかった、と祝福してやりたい。
 自分の周囲に友人、知人が、一人ひとりと、クシの歯が抜けるように去ってゆく。つまりは、自分の番が近づいてくるわけで、死は確実に眼の前に現前するようだった。」と。 こう書いたときこの思いは私の実感でもあった。
 歳末になると、知人から年賀欠礼の知らせが届いてくる。
 それぞれの肉親を失った人たちの悲しみ。しかし、そんなとき、悲しみに沈んでいる人にこそ新しい年の始めを寿(ことほ)いであげたいとも思う。不謹慎だろうか。
 ある年、亡くなった方から賀状が届いた。私は驚いた。その人はこの賀状を書いて郵便局に届けたとき、まさかご自分が死ぬなど予想もしなかったに違いない。
 私はその賀状を手にしながらありし日のその人を偲んでひとり杯を傾けた。その人を思うことが楽しかった。
 賀状をくださったのは、植草 甚一さんだった。