ディノニクス(Deinonychosaurus)のなかでも、トロエドンのファンである。ピッツバーグの博物館で見た。
日本で見られる「恐竜展」では、まず大型種に圧倒される。メラノロサウルス、アンキサウルスといった草食恐竜。こういうのは凄い。なんといっても姿がいい。
ステゴザウルス、トゥジャンゴサウルスなど、背中に鎧のようなプレート(スパイク)を背負った連中はどうも好きになれない。見るからに凶暴そうだが、不細工で、いかにも頭がわるそうだから。
小型恐竜のドロマエザウルスは眼が正面を向いて、ものを立体的に見ることができたらしい。トロエドンはもう少し小型。走るのも早かったらしい。長い、しなやかなシッポのせいで、すばやく方向転換できた。トロエドンは、現在知られているほかの恐竜たちより、はしっこくて頭もよかった。とてもかわいい。
ほかにも、剣竜とか、イグアノドン、トリケラトプス、その他いろいろ並んでいるわけだが、トロエドンはたいてい「恐竜展」の隅っこにひかえている。誰もまともに見やしない。そういうひかえめな扱いをうけているところがいい。
月別: 2005年10月
133
猿之助(猿翁)のこと。芝居好きだった母から聞いたような気がする。
まだ団子といっていた時分、父の段四郎の「勧進帳」の後見をつとめた。
あろうことか、弁慶の数珠がぶっつり切れた。それを見た団子は、すぐさま懐中にしたかわりの数珠をさっと出して、弁慶にわたした。
楽屋でも、団子の後見はたいそう褒められたという。
ところがこれを聞いたほかの後見が、せせら笑って、
「そんなことは、あたりまえの話で、後見をするくらいのやつなら、誰でも心得ていることだ」といったという。
この猿之助の働きは私の心に残った。きみたちはこの話から何を考えるだろうか。
「ほかの後見」のなかに、のちに役者として名をなしたひとがひとりでもいたのかどうかそんなことを私は知りたい。
132
小林 秀雄が教室に姿を見せると、学生たちは緊張する。教壇の机の横に椅子を置いて、無造作に切り出す。
「何か質問は?」
思いがけないことなので誰も答えない。学生たちは固唾をのんで見まもっている。うっかり質問しようものなら、どんな辛辣な返事が返ってくるかわからない。おそろしい沈黙が流れる。誰も質問しない。と、
「あ、質問はないのか」
そのまま教室から出て行ってしまった。
翌週からの講義では、学生のひとりが質問をすることにした。せっかくの講義が聞けないのは残念だからだった。幼稚な質問ばかりだったが、質問に答える小林 秀雄は見ものだった。額のあたりに手をやって、指先で髪の毛をつかむ。指先にくるくる巻きつける。
その動作に――小林 英雄の直観、感性、それをどう説明するかという判断、その思考の速さがごうごうと渦をまいているように見えた。
131
古本屋を歩く。二週間に一度は古本屋歩きをつづけている。
「およそ本屋の数の多い事にったら、東京の神田本郷に及ぶ所は、世界中何処の都会を歩いても決してない」という。長谷川 如是閑の『倫敦! 倫敦?』(明治43年)にそう書いてあるが、いまの神田、本郷はすっかり様変わりしてしまった。「本屋の数の多い事」はたしかだが、スキー用品の店や、ファストフード、ビデオ、DVDショップがふえて、店の隅っこで思いがけない掘り出し物を見つけて狂喜することもなくなった。
神保町で植草 甚一さんの姿を見かけたときは、その日の収穫はない。めぼしい本は、みんな植草 甚一さんが先にあさってしまうからだ。
植草 甚一さんは私を見かけると、近くの喫茶店に誘うのだった。買ってきたばかりの本を楽しそうにご披露しながら、その内容、著者の経歴などを説明してくださる。
おかげでこっちもその本を読んでしまったような気がして、つぎに別の場所で見つけてもおなじ本は買わなかった。
130
源氏店。『世話情浮名横櫛』の「与三郎」が、
「もし、お富さん、いやさお富、久しぶりだったなあ」
と頬かむりの手拭いをとる。
場所は、いまの人形町三丁目。もとの電停、人形町からひがし北。これも、もうなくなってしまった末広から大門の通りを、玄冶店(げんやだな)といった。このあたりに、船板塀に見越しの松、つまり妾宅が多かったという。
戦時中、羽左衛門で見た。うらぶれた男のゆすりと、自分を捨てた女へのうらみが重なって、晩年の羽左衛門でも出色の芝居だった。凄い。見ていてゾクゾクした。
もっとも、私の住んでいた近くにも船板塀に見越しの松が多くて、芝居に出てくるお富さんのような綺麗なお妾さんもいたっけ。
おめかけ横町が焼けたのは、一九四五年三月十日。
129
正宗 白鳥から、じかに芝居の話をきいたことがある。
「演劇」の編集長だった椎野 英之が軽井沢の別荘に伺って、作家の原稿をうけとってきたのだった。まだ戦後の混乱が続いていた時期で、食料の買い出しで列車は大混雑していた。列車内でスリに狙われたか、落としたか、椎野は原稿を紛失してしまった。
椎野は真蒼になって、軽井沢に電話をかけた。事情を説明してあやまったが、白鳥さんは、もう一度、原稿を書くといってくれた。たまたま翌日、白鳥さんは東京に出てくることになっていた。原稿は朝の10時に江戸川アパートでわたすという。
私が頂きに行くことになった。むろん、白鳥が私のことを知っているはずもない。
原稿をわたしてくれた白鳥さんは、江戸川からハイヤーで歌舞伎座まで行くことになっていた。
「きみ、乗って行ったらどう?」
私は同乗させてもらったが、このとき白鳥さんから、芝居の話をうかがったことはいまでもあざやかに心に残っている。
128
山登りに熱中した時期がある。中年過ぎての山歩きだったから、大きな顔はできないのだが、平均して10日に1度、多いときで、月に5、6回、山を歩いていた。
アメリカ軍放出の戦闘用のザック、磁石、軍手にナタ、飯盒、水筒。網シャツ、黒いカッターシャツ。靴だけはスウェーデン製のものを愛用していた。
ある日、仕事を終わって夜中から歩き出して、夜中じゅう歩いて、翌日の昼過ぎに知らない麓に下りた。村人は私を営林署の人と間違えたらしい。
はじめの数年はひとりで歩いていたが、やがて「日経」の記者だった吉沢 正英といっしょに登るようになり、さらに安東 つとむ、石井 秀明たちと登るようになって、山男らしくなってきた。ハイキング・コース程度の低い山でも、わざとコースをそれて、ケモノ道や、杣人(そまびと)の道をたどって歩くと、ずいぶん苦労するし、ときには思いがけない難所にぶつかる。そういうとき、信頼できる仲間がいてくれるのは心強い。
この山登りが私を変えた。どういう事態にぶつかっても機敏に対処する姿勢がいくらか身についたような気がする。
127
串田 孫一さんが亡くなられた。(05.7.8)
戦時中の串田さんの「日記」に、わずか一か所だが、私の父親が出てくる。串田さんは慶応でフランス語を教えていた。私の父、昌夫は、そのクラスでフランス語を勉強していた。串田さんよりもずっと年長だった。父は、串田さんに心服していた。
昌夫は、若い頃フランス系の貿易会社に勤めたことがあったが、もともと英語が専門で、長年「ロイヤル・ダッチ・シェル」に勤務していた。戦時中に、旧仏領インドシナに行く予定で、フランス語のブラッシアップに串田さんのクラスに通ったらしい。
父は、串田さんの授業のすばらしさを私に話してくれた。そのせいで、串田 孫一さんの名は私にとって、ひどく身近なものになった。のちに私は文学者としての串田 孫一さんの著作を知ったが、いつも父のことばを思い出していた。
後年の私が登山に熱中したのも、語学を教えるようになったのも、串田 孫一という、自分では会うことのなかったひとにあやかりたいという思いがあったのかも知れない。
126
オノト・ワタンナを読みたいと思った。アメリカン・ジャポニズムの女流作家である。
読みたかった理由は、若き日の永井 荷風がオノト・ワタンナの『ヒヤシンスの心』を読み、「文章清楚にして情趣まま掬すべきものあり」と批評しているからだった。
二十年探しつづけたが、神田でやっと一冊、手に入れた。実際に読んでみると、どうにもあまったるいお話で失望した。それっきりこの女流作家のことは忘れた。
去年から、私は「文学史」めいた講座をはじめた。当然、永井 荷風もとりあげたが、このとき、もう少しオノト・ワタンナを勉強してみようと思った。それを知った井上 篤夫がわざわざ『おウメさん』を探してくれた。十九世紀末の作品で、永井 荷風はおそらくこの作品も読んだのではないだろうか。
最近、アメリカのジャポニズム小説について羽田 美也子のすぐれた研究が出た(彩流社/05.2)。ほかにも少数ながら、研究者があらわれているという。そうした研究者たちの努力に敬服している。
125
野津 智子は翻訳家。『仕事は楽しいかね?』の翻訳で知られている。最近、つぎつぎに本を出している。どれも、いい訳だった。
『マジック・ストーリー』(フレデリック・ヴァン・レンスラー・ダイ)は成功するために知っておくべき6つの「教訓」を教えてくれる。〈ソフトバンク〉。
『笑って仕事をしてますか?』(デイル・ドーテン)は、『仕事は楽しいかね?』の著者の新作。壁をブチ破るには笑顔がいちばん。〈小学館〉。
『スピリチュアルな力がつく本』(アンドレイ・リッジウェイ)は、私たちの内部に、予言者、共感者、戦士、シャーマンが存在するという。〈PHP〉。
『出世する人の仕事術』(ステファニー・ウィンストン)は、きみの能力をひき出す極意を教えてくれる。〈英治出版〉。
私なども、若いときにこういう本を読んでいたら、もう少し楽しい仕事ができたに違いない。
124
いつか私は書いたのだった。ひとはときとして愛するひとのなかに永遠をもとめる、と。(「フリッツィ・シェッフ」)愛はある情緒(エモーシォン・パルティキュリエール)のなかに永遠をかいま見ることにほかならない。だから、ほんとうの愛がいつまでもつづくことを心のどこかで、ほんのわずか信じたとしても無理からぬことだろう。
だが、そうした愛がつづくことはない。男と女の関係が終わったとき、彼や彼女は――長くつづく真実の感情がもてないのかもしれないと思わなかったのだろうか。そんな疑問が胸をかすめる。
つまり、自分の無能力になぜか罪の意識をおぼえてしまうようなことはないのだろうか。そこからもう少し先には、相手がほんとうに自分を愛してくれていたのか、という疑いが待ちうけていることにならないのだろうか。
123
内村 直也の「えり子とともに」の放送開始は、1949年10月だった。主演者は、小沢 栄(のちに栄太郎)、阿里 道子。音楽は芥川 也寸志、のちに中田 喜直。2年7ヶ月、127回。
当時、こういう連続放送劇ははじめての試みで、四十代だった内村さんはライターとして、五十代の伊賀山 精三、三十代の梅田 晴夫、二十代の私を起用した。ほんとうは矢代 静一に打診したのだが、矢代が断ったため私を起用したのだった。
私は放送劇を書いた経験もなかった。原稿の注文もなかったし、前途暗澹たる状況だった。内村さんは、そういう私を憐れんで、勉強の機会をあたえようと思ったのだろう。実際に放送の現場に立ち会ったことは得難い経験になった。
内村さんの援助で、私は大学に戻った。ある日、講師の加藤 道夫が驚いた顔で、
「きみ、大学に戻ってるんだってね」といった。
このときから文学落伍者(リテ・ラテ)として生きようと思った。
122
ムッシーナは投げる姿勢に特徴がある。野茂 英雄のトルネードもめずらしいスタイルだが、ムッシーナのピッチングには独特なポーズとリズムがある。マウンドに立つと横にかまえてバッターを見る。眼をほそめる。ちょっと悲しそうな顔になる。胸元にグラヴを押しつけると、いきなり上半身を下に折りまげる。ヒョイッとかがめるのではない。腰のまがったおばあさんのような姿勢になる。MLBでもめずらしい投球姿勢。
ヤンキースには、ランディ・ジョンスン(05年は不調だが)からリベラまで、名だたる投手がそろっている。ランディ・ジョンスンはいつも自分の投球に絶対の自信をもっている。あの禿鷹のような顔つきが、獲物を見据えるような感じになる。
リベラはクローザーだが、シーソーゲームの最終回に出てくると、大向こうをうならせる千両役者のようで、見ていてワクワクする。ピンチのリベラは、むずかしいことを考える哲学者のような顔になる。
マイク・ムッシーナは今年(05年)も好調で、ヤンキースも地区優勝した。
私はムッシーナのファンだが、ヤンキースのファンではない。
121
ラジオをはじめて小説に出したのは菊池 寛だそうな。
はじめてテレビを小説に出したのは誰か。これはわかっている。
中田 耕治だった。本人がいうのだから間違いない。「三田文学」に書いた短編『闘う理由 希望の理由』のなかで、TVカメラの砲列がリングをとり囲むシーンを書いておいた。まだ民間放送も存在せず、公共放送の試験放送も出ていなかった。
私はラジオの現場で仕事をしていた。
それだけに、あと数年でテレビが確実に出現すると思っていた。そうなれば、かならずスポーツの実況放送が流れる。そう思っていたずらをした。
編集を担当していた山川 方夫は、さすがに気がついて、
「こんなの出して大丈夫ですか」
といった。
120
「夏は来ぬ」。小学校唱歌。
(1)うのはなの匂う垣根に
時鳥はやもきなきて
しのびねもらす
夏は来ぬ
(2)五月雨のそそぐ山田に
賤の女が裳ぬらして
玉苗ううる
夏は来ぬ
歌ったことはおぼえているのだが、メロディは忘れてしまった。誰の作詞だったのか。こんな歌詞から、佐々木 信綱、島崎 藤村、有本 芳水などを連想する。
いや、伊藤 彦造、高畠 華宵、蕗谷 こうじの描く美少女たちの姿までも眼にうかんでくる。
時鳥はホトトギス。賤の女はしずのめ。裳はもすそ。
今の小学生に読めるはずがない。いや、女子大生でも読めないし、イメージできないだろう。それでいいのだ。