私に才能があったらさっそく笑劇一幕を書くだろう。思いがけない展開に困惑して、あわてふためく男の姿を見せるだけで、観客は笑いころげるだろう。
それとも、ベルプリンガーさんは発明狂だったのか。日頃から何につけ創意工夫にとんでいた人物であった。ところが、仕立屋の仕事ではせっかくの工夫もいかせなかった。そこで、ひさしい以前から不可能なことを持続的に考えつづけ、おのれの夢想から、空を飛ぶという計画や、運動の計算を追求しつづけ、ついに人類の夢の実現を確信するにいたったのか。
もし、こういうテーマを選んだら私の書くものは本格的なドラマになる。
ベルプリンガーさんは芸術家だったのかも知れない。
彼は前人未踏の作品をめざしたのだ。彼の胸にどんなに大きな希望や夢想があったか。彼の眼には、大空を自由自在に飛びまわる鳥のような自分の姿が見えていた。空を飛ぶこと、それは絶対の探究であった。残念なことに、芸術家としての彼は失敗しなければならなかった。
失敗した理由は、ほんのわずかな力学的な計算のミスだったのか、それとも、素材がジェラルミン、とまではいかなくとも、何かの軽合金なら成功できたのに、ドイツ・カシのような重い木材しか使えなかったためなのか。そんなことではなかった。
芸術家として失敗した。彼は自分が乗るものを作ってしまったのであって、他人が乗るべきものを作らなかったからである。
やっぱり喜劇仕立てのほうがいいかも知れない。
シュワーベンでは、その後、しばらくはこの哀れな仕立屋の思い出が残ったらしい。
こんな小唄が人々の口にのぼったという。
“Der Sneider von Ulm hats’ Fliege probiert,
Na hat ihn der Teufel in d’Donau ‘nei’g’ fuhrt!“
ウルムの仕立屋 空 飛んだ
悪魔が ドナウに 引きこんだ
この記事は、「独逸語学雑誌」(明治44年8月号)で見つけた。今ではもう、この偉大な仕立屋さんの話を誰ひとり知らないだろう。
――中田耕治