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  時は過ぎて Date: 2005-11-26 (Sat) 


 いま、芝居の演出をしています。演出にかかると原稿が書けなくなるクセがありまして。
 作者はニッコロ・マキャヴェッリ。どなたもご存知のイタリア・ルネサンス人の書いた喜劇。『クリーツィア』五幕。訳は、私。
 とにかくおかしな喜劇で、これをコメディア・デッラルテふうに演出しようと思っています。劇中に、ジェフ・ベック、グランド・ファンク、ミッシェル・ポルナレフなどを使いますし、若い女優たちが乳房をポロッと見せて芝居をしますから、ちょっと奇想天外なものになるでしょう。
 マキャヴェッリといえば『君主論』の思想家ですが、劇作家としては『マンドラゴーラ』という傑作があって、『クリーツィア』もルネサンス喜劇です。マンドラゴーラは、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)、クリーツィアは向日葵(ひまわり)。

  ニコマコ いいか、計画はこういうことだ。まず、おれが寝室に忍び込む。暗闇で、静かにいそいで服をぬぐ。さて、ピエトロのかわりに、花嫁のとなりにそっとすべり込む。
  ダモーネ なぁるほど。で、どうする?
  ニコマコ さて、彼女にぴったりくっついて。新婚初夜の花婿よろしく、彼女の乳房にふれてみる! 彼女はおれの手をとって──離さない。おれは、すかさずキスをする。あら、そんな、といっておれの顔を押しのける。ところがおれは、彼女の上からのしかかる、そこで彼女も観念して──

 というお芝居。天衣無縫のいやらしさ。おおらかで、わいせつな茶番劇。どうです。おもしろそうでしょう。

 私自身のこと?
 弱ったな。あまり、うまく話せないんですよ。人さまにご披露できるような経験もないし、たとえお話しても、今の若い人たちには退屈なだけでしょうから。
 父が一生、外国系の貿易会社に勤めていた関係で、戦前の日本人としてはリベラルな環境に育ったと思います。父は少年時代にイギリス人の家庭で育ちましたから。日本橋生れの江戸ッ子で、律儀(りちぎ)で正直者。
 母は気っ腑(きっぷ)のいい女でしたね。小学校しか出ていませんでしたが、勉強が好きで、長唄、三味線、琴、生花、なんでも名とり。洋裁も自分で服を作ったりしていました。カンはいいほうでした。本を読むのが好きで。

 え、戦争ですか。
 弱ったな。
 戦争。
 まあ、戦争を体験していなかったら、もっとちがう人生をえらんだにちがいない、とは思いますね。
 一九四一年十二月八日、太平洋戦争が起きたとき、ぼくは中学二年でした。日本じゅうが昂奮に沸き返っていましたが、一瞬、眼の前が暗くなるような気がしました。この日のことは荒木 巍(たかし)という作家が短編で、ぼくの中学の情景を書いています。荒木さんは左翼の転向作家で、ぼくの中学の国語の先生でした。この短編を読んだとき、へえ、小説ってこういうことを書くのか、と思ったものでした。戦争がはじまったとき、ぼくの学歴はむちゃくちゃで、受験に失敗して、最初の中学は一年で転校、父の転勤で東京に戻って三年半、スキップして明治大学に入りましたが、戦争中は勤労動員。戦後すぐに、いまの大学院にあたる専攻科に入りましたが、途中でやめて、あとで、もう一度、大学に入りなおした、というおかしな経歴です。
 空襲は、五回も経験しましたから、川端康成の『葬式の名人』をもじって、空襲のベテランなんて冗談をいっていました。あの頃は誰でも空襲で逃げ廻っていましたから、空襲の名人も多かったはずです。大学の同期でも、三、四名が、焼け死んでいます。焼夷弾が地面に突きささって、ゴォーっとふきあげる焔の美しさったらない。あんな凄惨な色は見たことがありません。
 毎晩、今日いちにち生きてよかったな、と思います。徴兵年齢が下がって、いずれ赤紙(召集令状)がくることは覚悟していましたので、とりあえず読めるだけ本を読んでおこうと思っていました。戦争中、いくらか勉強したほうではないかと思っています。中学のときから、毎日、何冊か本や雑誌を読む習慣がつきました。夏休みに三週間かけて『八犬伝』を読んだり、ドストエフスキーを読んだり。勤労動員のとき、工場の一角に図書室があって、そこに山本有三先生が学生のために何千冊か本を寄贈なさった。毎日、何冊か借りて、工場への往復で読むようにしていましたね。あとで後輩のあいだで、中田耕治は工場の本を全部読んだという伝説ができたそうですが、いくら何でも、そんなことはありませんよ。
 戦争の頃のことを小説に? 書けません。書きたくたって書けない。悲惨だったから、というのではなくて、毎日が平凡で、それなりにあっけらかんと明るかったせいもありますね。
 当時、学生はいがぐり頭でした。徴兵の点呼(てんこ)に呼び出されて最後の第二国民兵に編入されました。点呼で身体検査を受ける前に──少し髪がのびたのを、床屋さんで切って遺髪にするんです。点呼のときに奉公袋という手提げをもって行くので、その中に入れるわけ。大森に住んでいましたから、近くの理髪店で切ってもらいましたが、人手が足りなくて、その店の綺麗な娘さんが切ってくれた。半紙をもらって、髪の毛をひとつまみ、包んだとき、娘さんがポロッと涙をこぼした。こんな子どもまで戦地に行くのかと思ったんでしょうね。なにしろチビでしたから。テレくさかったけれど、涙を見せてくれたのが、うれしかったな。
 戦争なんて、その娘さんの涙のひとつぶにも値(あたい)しませんよ。
 勤労動員にかり出されて、三菱石油の川崎工場で働いていました。ドラム缶作り。いまでも、ドラム缶を見ると、なつかしい気がします。
 その工場では、ぼくひとり、朝鮮や沖縄から送られてきた労働者たちとよく話をしました。タバコをわけてやったり。かんたんな韓国語も教えてもらいました。そんなこともあって、ぼくは、いまでも韓国の人たちに親近感がありますね。
 工場の隣りに、日本鋼管の大きな工場があった。その隅っこに捕虜収容所があって、アメリカ兵が入れられていました。なにしろ食料事情がひどいので、捕虜たちもわずかな地面を耕して、ネギやホーレンソウを作っていましたよ。わずかな空き地、それも砂地にタネをまいて。可哀そうなものでした。ぼくは、昼休みに、二、三人、憲兵の眼を盗んで、おぼつかない英語で捕虜たちと話をしたり、タバコをくれてやったり。工場を欠勤したやつのタバコの配給をくすねてくるんです。
 ここも空襲でやられました。日本鋼管も三菱石油も空爆されて、捕虜たちもずいぶん爆死しています。憲兵がひとりやってきて、材木を一列に並べて、その上にアメリカ兵の死体をクロスさせて並べ、そのうえにまた材木を並べ、またアメリカ兵の死体をならべるというふうにして、ガソリンをぶっかけて焼いているのを、ぼくは砂に身を伏せて見ていた。憲兵に見つかったらたいへんですから。ふと気がつくと眼の前に靴が落ちている。それも片っぽだけ。よくみたら靴に足の切れっぱしが生えている。不思議なものを見たなあ、と思った。なんだか抽象画でも見ているような気がしました。
 戦争が終わってすさまじい混乱が起きて、インフレーションの波をかぶって飢えていたけれど、毎日、夢中で生きてましたね。その年のうちにものを書きはじめました。今なら同人雑誌をやるとか、文学賞をねらって書くんでしょうが、当時は紙もないので同人雑誌どころじゃなかった。だから文学的出発なんてりっぱなものじゃない。新聞の匿名批評。ちっぽけなコラムを書きはじめました。
 戦後の匿名批評はぼくがいちばん先に書きはじめたんです。大阪の夕刊紙に登場した「白井明」(林房雄)よりも早かったから。ぼくのコラムはいくらか評判になったらしく、半年ばかりあとで、「白井明」が登場してきましたよ。そのあとで大熊信之、大宅壮一が書き出しました。
 原稿料は十円。ところがコーヒー一杯が五十円。五枚書いてコーヒー一杯分ですからねえ。ハイパー・インフレーションで、あとで百円になったけれど。
 匿名批評を書いたのはこのときだけです。批評家になってから、書いたのは二回だけです。その後もずっと匿名書評をつづけていたと思っている人がいますけれど、他人を傷つけるようなかたちで書いたことはありません。
 子どものときから、ほんとうに尊敬していたのは、ヴァレリーとジッド。日本の文学者では小林秀雄です。
 いまは小林秀雄の世界からすっかり離れていますが、依然として敬意をもちつづけています。もともと、誰かを一度好きになると、いつまでも好きになっている性格で、ヘミングウェイなんかに対してもおなじです。ヘミングウェイを読まなくなったいまでも、ヘミングウェイは好きです。
 戦時中に小林秀雄を読んだおかげで、神国日本とか皇国哲学などというあやしげなしろものに心を奪われなくてすんだと思います。当時のぼくにとってはありがたいことでした。そのかわり、小林秀雄の影響からぬけ出すのにけっこう苦労したとも思います。

 処女作は「ショパン論」です。その前にけっこういろいろ短いものを書きとばしていたので、ほんとうは何が処女作なのか自分でもわからない。中学生のとき、浅草の軽演劇を何本か書きましたから。座付作者みたいな人が時勢にあうように手を入れて、舞台にのりました。まともなものでは、最初に「ランボオ論」みたいなものを書きました。埴谷雄高さんの「ラムボオ素描」に刺激されて書いたものでした。この原稿を依頼してきた人が詩人でしたが、なんともいい加減な人で、原稿をもって行ったっきりおしまい。もっとも、いま読み直したらそれこそ冷や汗ものですが。
 「近代文学」のことですか。
 これはもう文学史だなあ。いまいったように、匿名批評を書きはじめて間もなく、荒 正人さんが手紙を下さったんです。ぼくのことを三十代の人間だと思ったらしくて、こちらから返事をさしあげたところ、おめにかかることになりました。ぼくは勇気を出して、会いに行った。神田の文化学院にあった「近代文学」の事務所に。
 荒さん、驚きましてねえ。そりゃそうでしょう。子どもみたいなのがきたんだから。
 その日、埴谷雄高さん、佐々木基一、山室 静さん、本多秋五さんたちにおめにかかりましたが、みなさん、おもしろがって相手をしてくれましたよ。こっちはこわいもの知らずでしたから、話題はつきませんでしたね。たまたまヴァン・ダインから中国の劇作家の曹雨(ツァオ・ユゥ)まで話題に出て、ぼくがだいたい読んでいたので荒さんがすっかり感心したようです。
 こうして「近代文学」の方々を存じあげたわけです。戦後すぐに「近代文学」はいちばん活気にあふれていた雑誌でしたから、ぼくにとっては決定的な機縁になったと思います。
 いろいろな勉強をさせてもらいました。とにかく、先輩のみなさんの話についてゆくだけでもたいへんでしたから。わからないことはすぐに質問しましたね。エンゲルスを読んで、わからないことが出てきたので荒さんに聞くとか、無声映画に出ていた女優さんのことを埴谷雄高さんに聞くとか。さすがに埴谷さんも真言立川流については教えてくれませんでしたけれど。
 中村真一郎、加藤周一、福永武彦の三氏が思想的な対立から「近代文学」を脱退することになったとき、ぼくは安部公房といっしょに事務所にいたけれど、中村さんの顔を見たら怖くなってふたりで外に逃げちゃったな。
 いまでも残念というか、とり返しのつかないできごとと思えるのは、中野重治の「批評の人間性」にはじまる、政治と文学の論争です。いまのぼくから見ると、戦後左翼の最初のつまづきでした。あの批評というか、論争提起がなかったら、その後の左翼系の文学、世界観、文学観は、はるかに違った展開を見せたのではないか。そういう意味で、残念な論争でした。
 ぼくが共産党の文学政策などをまったく信用しなくなったのも、あの論争のせいでした。左翼の文学者たちの発言の傲慢さも、私にとってははげしい嫌悪をもたらしたと思います。いまでも共産党は好きではありません。
 もっとも、当時、論争した方々、ぼくなんかよりもっとよくこの間の事情にくわしい方々が何も発言なさっていないのですから、ぼくなんかは何も語るべきではないでしょう。
 戦後すぐの時期は、いまからみると、奇妙なほど活気にあふれていて、解放感もいっぱいでした。毎日、一夜明けると、新しい作家や評論家が出てくるという感じで、ぼくなんかそんな有象無象のひとりでした。すぐれた人たちがぞくぞく登場してきましたね。安部公房、いいだもも、関根 弘、針生一郎、みんな凄い才能ばかりでした。
 いつだったか、武田勝彦が「世紀の会」のことを書いていて、発足の時期やメンバーがわからないといっていましたけれど、あの「世紀の会」は安部公房とぼくが二人で考えたのです。メンバーもふたりで選んだわけ。埴谷雄高さんに相談したとき、会の名前はどうするの、と聞かれて、ロシア語の「エポーハ」が頭にあったものだから「世紀の会」はどうかしら、と答えた。破顔一笑でしたね。ドストエフスキーか。やっぱり埴谷雄高さんに看破られたか、と思ったことを思い出します。
 だから、会員番号もぼくが一番、安部公房が二番、三島由紀夫も二十三、四番にいました。五味康祐なんていうのもきましたよ。
 いいだももが参加してから、みるみるうちに大きくなったし、そのうちに安部公房が左傾して行く。
 ぼくは、やがて肺浸潤がひどくなって「世紀の会」にも出られなくなってしまいました。最初の挫折だったなあ。やがて「近代文学」から離れて、岸田国士先生の提唱した「雲の会」の最年少のメンバーになって「演劇」の編集を手つだったり。芝居の世界に入って行ったため、ずいぶん廻り道をしました。「雲の会」ができた頃は文壇人と演劇人がとても近い場所にいたんです。いまは、それぞれが無関係だし、それぞれが孤立していますね。これも残念です。
 ぼく自身はいつも孤立していました。仕方がないと思っています。これからもせいぜい勝手な生きかたをするしかないと思っています。
 こんどの芝居、見にきてくださいよ。

注   芝居はマキャヴェッリ作『クリーツィア』 中田耕治/訳・演出。 
    私の劇団の研究生だった山谷えり子が出ている。はるか後年、参議院議員になった。ほかに、六条辰也、菅野由紀子など。
    私の劇団は、『階段の上の暗闇』、『作者を探す六人の登場人物』などを公演。後に『劇場』(ウイリアム・サローヤン)の上演に失敗して解散した。

    
    このエッセイは「面白半分」(五木寛之編集)に発表された。 


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