堀内 成美
翻訳のクラス以外に、エッセイのクラスに在籍したことがあり、一度だけ、お誉めに与った。高二の夏、アメリカのミズーリ―州で音楽一家にホームステイした想い出と、その後20年余りに亘る交流についてだった。「当時の日々の輝きが活き活きと伝わった、その後の人生の原点となり、今に続いている家族史としてよく書けていた」。お言葉を戴いたのはそれきりだったが、人生の宝物についてのエッセイをご評価戴いたのが何より嬉しかった。
そして、期末の総合評価欄に、「君が入ってくると、教室があたたかくなるようだった」
あの一篇きりが私にとっての上出来で、後は駄作のオンパレードだった故に、評価のしようがなかったのではないか。箸にも棒にもかからない技術的なことはさておき、人として何らかの美点を見出して下さったのだ。
私の何をもってあの一文になったのかは、畏れ多くて伺えずじまいだった。
真意は知れずとも何とはなしに、<あたたかくなるようだった>のは、私のほうだ。
劣等生と縮こまっていた私を優しく包み込んで下さった、誰も等しく存在価値があると。
先生のあのお言葉自体、削ぎ落とされた美しいエッセイそのものだった。
バベルには6年ほど通ったが、翻訳には向かないと断念することにした。
「翻訳から落ちこぼれてしまって……」ご報告すると、「誰が落ちこぼれなどと言った?自分からそんなことを言ってはいけない。彼女たちは特別才能があると思うかもしれないが、そんなことは無い。みんな同じなのです。翻訳が好きか、何があっても続けたいか、そのための努力を惜しまないと思えるかどうか、なのです。あなたは、たまたま自分はこの世界に向いていないと思っただけ、落ちこぼれではない。離れて見えてくることもあろうから、戻りたいと思ったら、いつでも翻訳に戻ればいい。他に目指したい世界が見つかったなら、それはそれで喜ばしいこと。どんな世界に向かおうと、応援しますよ。時々報告して、あなたがどんな世界に居るのか。楽しみにしています」
お心に掛けて戴いたのに、翻訳から離れる申し訳なさに身を縮ませていた。去ろうとする者へ、何とも沁みるお言葉なことか。熱いものがこみ上げ、目が潤んだ。何年かは生徒でいて縁のあった者を、決してお見捨てにならない。先生のご薫陶はこれからも受けたいのでと、ご連絡をお願いした。
ある年のお誕生日お祝い会で、宿帳についてのお話しがあった。「いつも差し障りのない同じことしか書かない人がいるが、もっと自分の言葉で、今の自分のことを綴ってほしい」。プライベートを告白せよということではなく、その時々における旬の自分の何かを、掬い取って観よ、それを自分でなければ書けない言葉に表してほしい、と受け留めた。
宿帳がやってくると、家族や自分の出来事、それについての感懐を長々綴っていた、あの時のお約束通り。後の方もあると思いつつ、お目に掛かれる機会はめったにないので、今をお伝えしたかった、私は私らしく別の世界で、なりたい自分を目指していますと。
駄文にページを戴いていると恥じ入りながらだったが、間違っていなかったと思わせて下さった。
振り返ると、翻訳を学び始めた頃の情熱を失っていたのだと気づかされる。どんな努力も惜しまないとは思えなくなっていた。先生はいつも見事に核心を衝かれる。
翻訳を断念した2年後、2000年に出合ったのが、<語り>の世界だった。
<語り>とは、登場人物・その心模様を声の表情で演じ分け、会話ではない地の文にも人物の心象風景を投影した読みをし、独り芝居のような劇的朗読法。2009年から10年、恩師の前座を務めた。
その間、ずっと山本周五郎作品を語っていた。文学講座で周五郎を取り上げられた後の会食時に、授業にはないご教示を下さった。周五郎作品は花を表題に入れた作品も多く、題にはなっていなくとも登場する花に主人公を投影し、物語を象徴している事も多いと。
当時稽古していたのは『山茶花帖』。山茶花は、主人公が幼い頃から自分の分身のように思ってきた花。花言葉を調べると主人公そのもの、知らなかった周五郎の巧妙な仕掛けに開眼する想いだった。
悪女をやってみたいと考えていたところへ出会ったのが、文学講座の資料にあった周五郎の『夜の辛夷』。それまでの演目は、愛する人の倖せを願う健気な誇り高き女性の生き様ばかりだった。この物語によって、私は新境地を開くことができた。先生の資料とご高説まで承れた幸運のお蔭様である。
恩師のお薦めで2021年にプロとして独立し、「名作語り 成美会」を旗揚げした。息子の七光りで、高名なクリエイティブディレクターとご縁を得、<語り家>と命名して戴いた。先生は、そうした経緯をとても歓んでくださった。夫はプロデュサーとして会をまとめ上げてくれ、息子は写真家でフライヤー写真を撮ってくれもし、娘の有難い支えもあった。
家族総力挙げての支援に先生は目を細められ、「皆それぞれに幸せだけれど、あなたほど倖せな人はいない」。家族へ言いたいことを秘めてもいたが、宿帳からそれもお見通しだったのだろうか。今ある倖せを大切にしなければと思わせて下さった。
私のいくつかのCDをお聴きになっていらした。昨年のお誕生会でのお言葉は、「物語への思い入れが強すぎると感じた事がある」。演劇でも優れた手腕を発揮された先生ならではのご批評である。
今年3月、お言葉を抱き、独演会に臨んだ。御霊となられた先生はご来聴下さったに違いない。お教えを戴いたにも拘らず、悪癖は一朝一夕には直し難い。主人公たちに感情移入し、舞台でも泣いてしまった。稽古で散々泣き、泣ききったと思っていたのに、物語にのめり込んでしまった。
皆様も大いに泣いて下さったのは、語り家冥利に尽きる。しかしながら、語り家は登場人物の心象風景を描きつつも、聴き手の感性でその世界をふくらませるのが望ましい。
最後の最後まで、先生は、翻訳とは違う世界で生きる私へ、何よりのアドバイスを残して下さった。
言葉に尽きせぬ深謝が沸き返る。ご遺言を全うできるよう、語り家として精進する覚悟である。
’03・11・3 「ルイ・ジュヴェとその時代」の扉へお記し下さったお言葉:
「堀内成美さんへ ビロードのように美しい果実 心を込めて」
年を重ねることは悪くない。様々な役割を徐々に終えて重荷を下ろし、自分が目指したいことに向かえるようになってゆくからだ。別な役割を担わなければならなくなることが、あるにあるけれど。
身軽になってゆくのに反比例して、容貌の衰えは致し方ない。それもまた、人生を刻んだ歴史。先生のお言葉通り、年を重ねた「ビロードのように美しい果実」でありたいと願う。
あるお誕生会でのご挨拶の一節、生い立ちの記から始まりそれまでの人生で、様々な艱難を与えられたお話の締め括りだった。「・・・色々なことがあったけれども、人生に絶望したことはない」。
胸に突き刺さり、魂を覚醒させられる想いだった。
何が起ころうと、自分の人生として受け留める覚悟なのだ。想定外の出来事に翻弄され続けても、これが自分の人生だと腹を括った時、ではこれからをどう切り拓いてゆくか、心の在り処がシフトしてゆく。お言葉は、未来を見晴るかす希望の源ともなった。
極楽とんぼの有閑マダムに見えるらしい私だが、様々な艱難を与えられてきた。この言葉を得た後も、艱難は降っては湧いた。長いトンネルの先の小さな点程の光も見えない時、お言葉を自分に繰り返した。不甲斐ない自分を許すおまじないともなった。進めずおろおろしても、泣き崩れてもいい、絶望さえしなければ。いつかきっと、目指す未来が見えてくると信じよう、先生の背を追って。
最後のお誕生会となってしまった日、会後のレストランへ、先生がタクシーにお乗りになるのを目にしていた。行ってみると、歩いて数分の所。その距離をタクシーにお乗りになければならない先生の御身を案じた。同席はできないかもしれないと知らされていたが、レストランで諦めずに待った。やはり、席に余裕がなく、お食事はご一緒できなかった。
夫の誕生日だったこともあり、一人席を待つのも諦め、駅へ向かい始めて足を止めた。せめてツーショットでも撮らせて戴こうか。談笑が始まっているところへ割って入るのは無粋だと、戻るのを思い留まった。まさか次がないとは思いもよらなかった。人生を湛えた笑顔を戴けず残念でならない。
あの日、時間切れでご自分のお話をご遠慮された方も、集えなかった方も、次の機会があると疑わなかった。そう信じさせて下さる闊達さが、先生にはまだおありだった、危惧した通りお体はお弱りになっていたものの。また御目文字叶いそうな気がしてしまったのは、私だけではなかったろう。
結びに、最後となった日のお言葉を、当日のメモ書きから:
※一つは、サイズ感について。生い立ちの記をお話しされたが、どんなテーマでも、10分で語ることができる。エッセイでも言われた長さで書くことができる。中田耕治ならではと思わせるものが話せる、書ける。制限のあるサイズの中で、読んでもらえるエッセンスを抽出するセンスが大事。
〆のお話は、これから来るものが楽しみ。インフレ・デフレ等、翻訳・舞台への作用を考えると、絶壁の前に立たされる思いはあるが、この10年が面白い。恐れるのは戦争。銃器ではなく、IT等目に見えない戦争が始まっている。
たった一ついいことは、私たちには時間がある。成れの果てを見せられるのは、恥ずかしくもあり誇りでもある。今後を見られないのは残念だが、密かな期待と同人愛を持ち続ける。※
最後となられたご入院時もしっかりとしていらして、先生らしいご様子を伺った。
見事にして美事な「成れの果て」をご披露下さり、僭越乍ら、天晴れ!師であること誇らしく。
お読みになれない追悼文をと願われたのは、最後の修錬の機会を与えて下さったのではないか。
鬼籍に入られてなお、ご自分が師としてできることを、残された者たちのためにお考え下さった。
そして、各人の人生において、中田先生との出逢いが何をもたらしたのかを見つめることになろう。
一方、突然やってくるに違いない旅立ち、お別れを言えないであろう私たちに、先生へお手向けする最後の言葉を書く機会をお与えになったのだ。
先生、最後の恋文を書かせて下さって、深謝申し上げます。
お名の通り、人々の心と才能を耕し、それぞれが見定めた世界で居場所を治められるようご尽力。
先生が結んで下さいました方々とのご縁を大切にし、お言葉たちを心に刻み、歩んで参ります。
心からの感謝を、お捧げ申し上げます。
百合子様と待望の再会を果たされ、安東さんや懐かしい方々とも語らっていらっしゃいましょう。
ご冥福は叶えられたと存じます。
御霊となられた自由を、ご堪能くださいませ。
先生とのご縁有難く、嬉しゅうございました。
またいつの世かで、お会いできます事を切望しております。
その日まで、ご機嫌麗しゅう。