宇佐美 恒城
中田先生が亡くなられてから半年が経過しました。
学生時代に参加していたネクサスの会は、今でも大切な想い出です。
大学三年生となりキャンパスが駿河台に移った時に、文学とクラシック音楽に詳しい知人の影響で、文学部の授業に潜り込むようになりました。一回限りの出席が多かったのですが、中田先生の授業だけは毎回のように出席したものでした。何とも言えない愛嬌と優しさに満ちたお人柄と、通り一辺倒ではない映画鑑賞会を主とした授業がとても面白かったからです。
上映中要所要所で、先生から色の使い方やテーマの見せ方などについての指摘がありました。ストーリーを追うことに終始することしか頭になかった私には思いもよらない講義で、新たな発見に満ちた授業が続きました。
一番前の席で聴講していた私が回を重ねるうち上映機器の操作を担うようになり、そのうち先生からネクサスの会に誘っていただくようになりました。
その頃のネクサスは、美術館などの鑑賞会を主にした活動をしていました。素養のない私にとっては、優れた作品を鑑賞してもありふれた感想しか持つ事ができませんでしたが、今になって考えるとあの時の経験が、自分の感性の深いところに大きな影響を与えていると感じます。
社会人の方がほとんどを占めるネクサスの会からは大きな刺激を受けました。鑑賞会のあと「やるき茶屋」で開かれる飲み会では、おどけたように自らをツアコンと自称する安東忞さんやバベル翻訳学院で先生の教えを受ける諸先輩方が様々なことを話しておられ、生意気な私ではありましたが、全く違う世界に内心、圧倒されておりました。
本当に多くのことを学ぶことができました。皆様とても親切で、あの頃をとてもなつかしく思い出すとともに、ネクサスという場を作って下さった先生には今も深く感謝する次第です。
諸先輩方はみなキラキラと輝いておられ、ものすごい熱気に包まれておりました。今まわりを見渡しても、皆様のように強い信念に燃えた力強い眼をした方をみかけることがめっきりなくなっているのは誠にさびしい限りです。
飲み会では皆様一様に、先生から授業でけちょんけちょんにけなされたと嘆いておられましたが、都度先生は、独特のはにかむような笑顔で愛情込めた弁解に終始され、外野の私は、失礼ながらとてもほほえましく感じておりました。
後年開催された文学の特別講義においてはもちろん、飲み会でのちょっとした会話においてですら、謎かけするような語り口に断定的な言葉遣いが入り交じる先生の話しぶりが自分の知的好奇心をくすぐり、もっともっと話を伺いたいと惹かれた大きな理由だったと考えます。
ですが、先生のご発言は簡単に消化できるものではないため、いつの間にか忘却の彼方へ消え去ってしまいました。もっと真剣に記録をとって、折に触れ思い出すべきだったなあと今にして後悔しております。
先生は、学生の私には厳しい事を仰ることはほとんどありませんでした。ただ、今も心に残る言葉があります。
「常に二つ以上のことを考えなさい」。
思慮が足りず単細胞の思考回路が定着していた私にとりまして、ほとんど不可能な取り組みを行うよう語気鋭く要求されたのでした。以来、その言葉を心の奥深くに刻み込み、三〇年近くその言葉と共に過ごしてまいりました。
先生のご発言で忘れることのできないエピソードがもう一つございます。先生は学徒動員の際、プレス機を操作したタイミングで瞬時にページをめくり、読書をなさっていたそうです。大変な怪我を負うかも知れない場においてすらも、危険を顧みず懸命に勉学に勤しんでおられた先生の並大抵でない覚悟を折に触れ思い出すことで、私は都度自分を奮い立たせてまいりました。
先生は到底近づき得ない巨人でした。幅広いご興味の対象や、その奥に見え隠れする厳しさにいつも恐れを感じておりました。先生、いや人間性や社会の深いところにある名状しがたい世界に踏み込むことが出来ない私にとりまして、澁澤龍彦氏やド・ブランヴィリエ侯爵夫人などは今に到っても近寄ることができません。
それだけではなく、不勉強で虚飾だらけの、何も持ち得ない、真理を洞察するにはあまりにも遠いお気楽なお花畑に安住する自分自身を思い知らされるのが、怖いだけだったと強く思います。
今思い返すと、先生の懐の広さとやさしさに甘えることしかできませんでした。頂いてばかりで、何も応えることのできなかったことを深くお詫び致します。
長い間御無沙汰して本当に申し訳ございませんでした。
ご冥福を心からお祈り申し上げます。
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