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◆2005/12/14(Wed) 152 [No.167]


 近くの大学の学園祭に行く。例年のことだが、若い人たちで混雑している。私のような高年の人をほとんど見かけない。
 かならず「漫研」の部屋に行ってみる。たいていは失望する。ついでに美術展に行くことにしたが、催場がわからない。ぐるぐる歩いてしまった。ここも、ほとんど全部、平凡な作品ばかり。しかし、性懲りもなく学園祭に出かけている。
 しばらく前に、テレビで「スウィング・ガールズ」(矢口 史靖監督/04年)を見た。これにもひどく失望した。こんな映画より、テレビで、おなじように高校の吹奏楽部の生徒たちを描いた所 ジョージの番組のドキュメントのほうがはるかにすばらしい。
 ほんとうの青春の姿が、汗や涙としてとらえられているからだ。

◆2005/12/11(Sun) 151 [No.166]

 
『O嬢の物語』は、女性のマゾヒズムを描いたポルノグラフィーとして世界じゅうに衝撃をあたえたが、作家、ポーリーヌ・レアージュの正体をめぐっていろいろな噂が流れた。ひろく信じられたのは、ジャン・ポーランの変名ではないかという噂だった。
「EROTICA」(マヤ・ガルス監督/97年)は、10人の女性のインタヴュー。ボルノ女優のアニー・スプリンクル、『肉屋』の作家、アリーナ・レイエス、女性のヌードを美しくエロティックに撮影する写真家のベッティナ・ランスなど。
 そのなかにポーリーヌ自身が登場していた。1907年生まれ。すっかり老齢に達しているが、上品なレディで、淡々と自分の性生活を語っている。彼女は作家のジャン・ポーランと15年間、事実上の「関係」があって、生涯でいちばん幸福な時期だったという。 女性として誰かに服従したいという欲求は、完全に個人の趣味という。恋する女なら誰でも経験するでしょう、と語る。そして「今の私は死人も同然」と語る。
 おなじドキュメントに、『O嬢の物語』に絶大な影響をうけたというジャンヌ・ド・ベルグも登場する。彼女が、じつはアラン・ロブ・グリエの夫人で、サド・マゾヒズムは夫によって調練されたこと。これも驚きだった。      
 今にして思えば、『O嬢の物語』は二十世紀の文学作品でもっとも特異な作品だった。おなじように評判になった『エマニュエル夫人』や『孤独な泉』、『肉屋』程度のEROTICAではない。この作品は、これからもまったく違った文学的時空を生きつづけるだろう。

◆2005/12/07(Wed) 150 [No.165]


 最近のハリウッド映画。ここ3年で、観客動員数が、毎年、5パーセント近く減少している。今後もますます観客が離れてゆくだろう。私にしても、ハリウッド映画をほとんど見なくなっている。そのかわりアジア映画を見ている。
 テレビで韓国ドラマを多く見ているせいで、韓国の俳優、女優たちの顔と名前がだいぶわかるようになってきた。かなり前に「画酔伝」を見てから韓国映画に関心をもった。韓国語がわからないのが残念だが、内容はわかった。あとになって美少女、ソン・イエジンがこの映画でデビューしていることに気がついたし、キム・イジン(「大長今」では済州島の医女をやっている)が出ていた。
 韓国ドラマの「大長今」。主役のイ・ヨンエ(李 英愛)はもっとも魅力のある女優さん。新作映画「親切なクムジャさん」は、ハードな復讐もの。最近、BSでこの女優さんのドキュメントをやっていた。
 中国の映画雑誌「影視圏」(05.11.)の記事に・・「清醇的眼神,細膩柔和的表情,渾身散発出温暖人的親和力」とあったが、ほんとうにその通りだと思う。「大長今」の出演者では、「最高尚宮」のヨ・ウンゲという老女優と、敵役の「チェ・サングン」をやっているキョン・ミリに注目した。ふたりともすばらしい女優さんだと思う。
 アジア・ポップスも聞いている。王 菲がしばらく活動をやめているのは残念だが、あい変わらず中国の超級女声を聞いている。このところ關 淑怡(シャーリー・クァン)、林 憶蓮(サンデイ・ラム)たちが復活して、来年はいよいよ周 慧敏(ヴィヴィアン・チョウ)が登場するらしい。

◆2005/12/04(Sun) 149 [No.164]


 吉行淳之介が『コールガール』という小説を書いていた頃、私が訳した『コールガール』からいろいろ引用されていた。
 当時、知りあったコールガールに聞いたことがある。
 娼婦はほんとうに客に惹かれることがあるのだろうか。
 はじめはまともに答えてくれなかったが、しばらくして自然に答えてくれた。
 客のなかには醜い男もいる。醜いほどではないにしても自分の好みのタイプではなかったりする。そういう男に気を許すことはない。客もそれを知っていて、たいていの男たちは、自分だけの快感をもとめるだけで、女の感情など気にかけない。
 しかし、ときにはほんとうにほれぼれするような男に出会うこともある。ルックスや個性、その相手が特別なものに見えるような、ほんのちょっとしたことがあって、その男の相手をするのが楽しくなる。
 ところが、たいていの娼婦は、たとえ心を惹かれる男にぶつかっても、深間にはまり込んで問題を起こすようなことはない。むろん、そうした男と寝るのは楽しいのだが、娼婦はあるところからはっきりした距離をとって真剣な愛情をもたないようにする。
 昔の遊女もおなじだったに違いない。
 今から四十年も前の話。今の女性たちのことは知らない。

◆2005/12/02(Fri) 148 [No.163]


 やっと『アナイス・ニン作品集』が出た。私の編訳、『ガラスの鐘の下で』(響文社/2200円/05.11.15.)である。
 装幀と、短編全部に山本 直彰さんの絵を小さくカットふうに使わせていただいた。山本さんは国際的に知られている画家である。
 まだ製本の段階に、「響文社」の高橋 哲雄さんが製本所に飛んで行って、できあがったばかりの見本をすぐに私に送ってくれた。お互いによろこびあう。なにしろ、待ちに待った出版なのだから。見本が出たのがたまたま私の誕生日だったので、なによりのお祝いになった。
 『アナイス・ニン作品集』には、訳者たち、エッセイを寄せてくれた人たち、造本にかかわった装幀者、デザイナー、出版社の人たちのたいへんな努力が隠されている。
 一冊の本が出るまでに、どれほどおおぜいの人の辛苦が重なっているか。たいていの読者はそんなことを考えない。芝居の観客は、舞台の役者たちだけを見て、裏方や、大道具方、照明、衣裳部のおばさんたちのことを考えない。それとおなじことだろう。
 だが、私の読者たちに、ぜひ知ってほしいことがある。
 まるっきり無名だったアナイス・ニンは、自分で活字をひろって、自分で印刷機械にかけて、わずかな部数の本を出した。部数、300部。
 それが『ガラスの鐘の下で』なのだ。

◆2005/11/27(Sun) 147 [No.162]


 リディア・ディヴィスの『ほとんど記憶のない女』(白水社)を読む。
 この数年、私が読んだ小説のなかで、いちばんすぐれたものの一つ。
 全部で61編の短編。少し長い短編もあるが、「面白いこと」、「たいていの場合彼が正しい」、「恐怖」など。いずれもわずか数行の短編。「ピクニック」という短編はむずか2行。「恋」は3行。ほかにもわずか1ページにみたない掌編が多い。いちいち読者に紹介するわけにはいかないが、「ロイストン卿の旅」、「サン・マルタン」などは比較的長い短編。
 それぞれ硬質な輝きを放つ宝石や、きらきらしたビーズや、少しいびつなガラス玉や、女性なら誰でも身につけるアクセサリ、そんなものを無造作に放り込んだ宝石函。しかも、風にのってはこばれる植物の種子のように、しなやかで、かろやかな柔毛(にこげ)や、するどいトゲをもっている。不思議な小説ばかり。
 幻想的な世界もあれば、古めかしい紀行文めいた旅行記もある。寓話的だったり、離婚する女の苦悩や、友人に対するするどい観察もある。グレン・グールドや、ミッシェル・ビュトールなどにふれながら、思考がアメーバのようにどんどん増殖してゆく。
 誰もが考えそうでいながら、けっして考えないようなことをリディアは考える。表面はそれほど独創的には見えないが、ほんとうはじつにユニークな発想なのだ。その背後、というか、その考えの先にあるものが、いきなり私たちにつきつけられる。
 しばらく前にひとしきり評判になったミニマリズムの作品を連想させるけれど、ミニマリズムの作家と比較しても、刺激的な緊張、密度、そこで語られるナレーションの意外さ、女であることを見つめるきびしいまなざしにおいて、はるかにすぐれている。
 どの短編もつぶぞろいで、語られていることもおもしろいが、不意に切断されたような、それ以上は語られなかったことが、私たちにいろいろな想像させる。
 どれをとってもみごとな短編だったし、なによりも翻訳がすばらしい。
 翻訳することは読むこと。翻訳することは書くこと。もし読むことが翻訳することで、翻訳することが書くことなら・・書くことは書くこと、読むことはまた読むこと。そうなると、読むことは読んで読むこと。「読んでいるときは、書いているので読み、読んでいることは翻訳もしているので読む、したがって読んで読んで読んで読むこと」(「くりかえす」)という。これはそのまま訳者の岸本 佐知子の姿勢に違いない。
 訳者は、ニコルソン・ベーカーや、「ヴァギナ・モノローグ」の訳で知られているが、翻訳家として、エッセイストとしても、もっともすぐれた仕事をしているひとり。
 私は、ふとアナイス・ニンを連想した。とくに彼女の処女作品集『ガラスの鐘の下で』を。アナイスとリディアにはなんの関係もない。リディアには、アナイスふうに幻想的、セミ・シュールレアリスティックな作品はまったく見られないのだが。
 しかし、アナイスもリディアも、私に小説を読む楽しさを教えてくれた。小説を書きたい人は、ぜひ、彼女たちを読むほうがいい。
 私は、ときどき気がむいたときリディアの作品の一つ二つを読む。おいしいケーキを食べるようにして。むろん、ひどく苛烈な味が残るけれど。

   『ほとんど記憶のない女』
       リディア・ディヴィス著
       岸本 佐知子訳
       05.11.5刊  白水社 1900円

◆2005/11/23(Wed) 146 [No.161]


「鈴ヶ森」は、「お若えの、お待ちなせえ」で有名な芝居。
 鼻高幸四郎が長兵衛役者の第一という。むろん見たことがない。つづいては七代目の得意芸。そのあとで九代目(団十郎)が極めつけの長兵衛役者として語りつがれている。
「鈴ヶ森」の長兵衛は、「勧進帳」の「弁慶」よりもむずかしい役だと思う。よほどうまくいっても、どうにもウケにくい。逆にいえば、長兵衛役者がしっかりしないと、狂言のほんとうの凄さが出せない芝居だろう。
 戦時中に、羽左衛門の権八、吉右衛門の長兵衛で見た。なにせ中学生だったから、芝居のよさなどわかるはずもなかったが、それでも羽左衛門の独特の口跡にしびれた。それに拮抗して、吉右衛門の芸の凄味。魂が宙に飛んだ。
 あまりいい芝居を見てしまうと、どうもあとがつづかない。戦後に何度か「鈴ヶ森」を見たが、見られたものではなかった。狂言そのものの値打ちが下がったようで、そのうちに歌舞伎から足が遠のいた。

◆2005/11/21(Mon) 145 [No.160]


「戦後」といっても、第一次大戦の「戦後」を調べたことがある。
 フランスは、戦死・戦病死が131万人。16歳から45歳の男子、795万人の16.5パーセント。
 工業地帯が戦場になったため生産は激減した。農業も、大半の農民が召集されて、ゆたかな農地が荒廃した。穀物の生産は、戦前の40パーセント。
 意外なことに、ロシア革命の影響も大きく、ロシアの公債や、利権が消えてしまった。
1914年(戦争開始)に3020億フランあった国家資産が、1918年(戦争終結)には2270億フランに落ちた。じつに四分の一が失われたのである。
 膨大な軍事公債がはげしいインフレーションを惹き起こした。物価は戦争開始の年に比較して、3.5倍。物価指数は、1914年を100として、1918年は360。
 これが第二次大戦の「戦後」となると、はるかに悲惨なことになる。

『ルイ・ジュヴェ』を書いた時期、私はまるで知らなかった経済から金融まで勉強したのだった。
   
→『ルイ・ジュヴェとその時代』(第六部/第一章)

◆2005/11/19(Sat) 144 [No.159]


 もっけの調法。鶴屋 南北の『高麗大和皇白浪』で、島原の廓から逃げた遊女「滝川」を追って「當馬」が、大和路で、偶然、「滝川」を見つける。
「わしもその詮議を頼まれて、わさわさ尋ねて大和路へ、踏みこんだが、勿怪(もっけ)の調法。今日ここで逢うからは、サァ、連れて行きます。ござりませ」
 もっけのさいわいは知っていたが、「もっけの調法」は知らなかった。
「當馬」は拒む「滝川」にむかって、
「コレ、お前、マァ、廓にござるうち、逢引のある女郎衆ゆゑ、あののもののですびいても、(中略)成るように、成らぬように散らしたを、よもやお前、忘れはさっしゃるまいが」と、しなだれかかる。
「あののもののですびいても」とか、「成るように、成らぬように散らした」という台詞は、もっけの調法にいまでも使えるかも。
 郵政民営化法案で、自民党の執行部が反対派を「あののもののですびいた」が、反対派のなかに「成るように、成らぬように散らした」連中がいた、というふうに。
 大南北が苦笑いするだろうなあ。

◆2005/11/17(Thu) 143 [No.158]


 ひやかし。
 廓のなかを歩く。顔見世の女をながめるだけで、登楼しない。
 江戸時代、吉原の近くにあった紙漉場の職人が紙を水に冷やしておいて、廓をひとまわりして帰ると、紙がほどよくひえていたことから。『嬉遊笑覧』に出ている。
 いまでは吉原遊郭を知っている人もいないだろう。少年の私は、吉原をひやかしにつれて行かれたことがある。むろん、登楼したことはない。ひやかしただけである。
 ところで、ひやかすの「か」が気になる。やる、やらせる、とおなじで、やらかすの「か」が気になるように。
 こういう用法は、国語学者の先生に訊けば簡単に説明がつくかも知れない。私としては、このことばには、自分を少し切りはなして、どこか自己戯画化めいた感じがあるような気がする。
 別のいいかたでは、素見。昔の小説を読んでいると、ぞめき、と、ルビがふってあったりする。

◆2005/11/15(Tue) 142 [No.157]


 江藤 淳のこと。ある日、内村 直也先生から電話があった。江藤 淳という優秀な人がいるのだが、アルバイトで翻訳をしたいといっている。慶応の後輩なんだよ。すまないが、きみ、力になってやってくれないか。
 すぐに江藤 淳に会った。場所は神田の「小鍛治」という喫茶店で、会った瞬間に、聡明で、ひどく老成していて、まるでトッチャンボウヤのようだと思った。私たちの話はハーバート・リードからコンラッド・エイキンまで。じつに多彩な話題が出たが、彼は博識だった。ただし、私はこういうすぐれた若者が私のように俗流ミステリーの翻訳をすれば苦労するだろうと思った。
 その日、まず「早川書房」の編集者だった都筑 道夫に紹介した。このことは、後年、都築自身がエッセイに書いている。福島 正実にも紹介したが、福島ははじめから江藤君とはソリがあわなかった。結果として、江藤君は翻訳家にならなかったが、江藤君のためにはそれでよかったと思う。
 晩年の江藤 淳は高井 有一に語ったという。
「六十歳を過ぎてそれ以前のものを凌駕する作品を書いた人はいない」。
 本人がそういうのだからたぶん間違いではない。

◆2005/11/13(Sun) 141 [No.156]


『収容所』は、80年代に駐日ポーランド大使だったルラッシュの回想。いまでは誰も読まないだろう。しかし、いま読んでもけっこうおもしろい。
 ズジスワフ・ルラッシュ、1930年、ポーランド生まれ。ワルシャワ中央計画統計大学で、経済学を専攻。54年、統一労働者党(共産党)中央委員会に勤務。やがて、56年に外国貿易省に入る。優秀なエリートだったに違いない。
 81年、駐日ポーランド大使として赴任した。当時、ポーランドはヤルゼルスキの軍事政権に対してワレサ(ワレヤンサ)を中心にした「連帯」が、はげしい抵抗をみせていた。イデオロギー支配の恐怖にようやく亀裂が走りはじめる。
 ルラッシュは、日本に赴任した81年のクリスマス・イヴに、アメリカに亡命した。あまり話題にならなかったが、冷戦のさなか、共産圏のポーランド、ヤルゼルスキ体制を根底から揺るがす事件だった。翌年、国家反逆罪で、欠席裁判ながら、ワルシャワの軍事裁判で死刑を宣告された。その後、共産主義ポーランドが崩壊してしまったから、こんな軍事裁判も、一場の笑劇に終わった。
『ルイ・ジュヴェ』を書いたとき、ジュヴェのポーランド巡業の時期のポーランド情勢の参考になるか、と思って読んでみた。むろん、ジュヴェのことなど一か所も出てこない。評伝を書く。ときにはずいぶん遠まわりもしなければならない仕事なのである。

◆2005/11/11(Fri) 140 [No.155]


 都の錦(八田 光風)は、江戸(元禄)の戯作者。西鶴の文章を盗作したとそしられて、『元禄太平記』の冒頭で反論している。
 古来、小野篁が白楽天の影響を受けたとか、司馬遷が左伝の文章に似せて「史記」を書いたとか、いろいろな例を並べて、いわく、

「詩に換骨の法をゆるし、うたに古人の詞(ことば)をとれと、先達の教えなれは今都の錦が文章に西鶴がいい捨てを用ひたりとて、さのみ疵にもあらず。古木を以て新しきとするは、皆名人の所為ぞかし」

 おかしいのは、最後の部分で、惜しいことに都の錦は、せっかくもの書きにになったのに、二十七歳で、西海の藻屑と消えてしまった、とぬけぬけと書いている。
 都の錦というペンネームを捨てても困らない。それからも梅薗堂、澤風軒、黄金道裏山人といったペンネームを駆使して書きとばしたらしい。
 江戸のポットボイラーの一人。たいした才能ではないが、江戸時代の三流作家、山崎北華とならんで、おもしろいマイナーポエット。

◆2005/11/09(Wed) 139 [No.154]


 明治の人はよく手紙を書いた。子規、漱石の書簡は文学史に光彩を放っているが、一葉の書いた女子手紙の模範文などを読むと、明治という時代の息吹きまでつたわってくる。
 ジッド/マルタン・デュガールの往復書簡や、コクトオ/ジャック・マリタンの往復書簡や、キャサリン・マンスフィールド、D・H・ロレンスの手紙を読むと、芸術家のエスプリにじかにふれるような気がする。
 最近の私は手紙を書かない。年賀状も出さなくなった。さして理由もないのだが、面倒なせいもある。つまり、手紙を書く余裕がない。それでも、知人に手紙を出すときは、かならず自筆で書く。ワープロの手紙をもらって、しばらくして読み返そうと出してみたらほとんど読めなくなっていた。
 親しい友人に手紙を書くのは楽しい。心のなかでその相手を思いうかべながら手紙を書いたほうが、電話やインターネットと違って自分の正直な気もちが届くような気がする。

 作家志望者は、できれば自分の尊敬する作家の書簡集を読むといい。
 いい文章修行になる。


◆2005/11/07(Mon) 138 [No.153]


 ユトリロの絵はかなり多く見てきた。
 パリを愛して、パリの街角、名も知れぬ通り、家並みばかり描いた画家は多い。たとえば荻須 高徳。しかし、ユトリロは荻須 高徳とはまったく違う。
 こうした見方は、不幸な人生を送ったユトリロへの憐憫とは関係がない。
 ユトリロは、ときに点景的に人物を描く。通行人のように。ときにはそれが三人になる。男女のカップルと子どもひとり。あるときから、このことに気がついた。
 さりげなく男女のカップルと子どもを風景に置いている。いかにもユトリロにふさわしい、というより、こういう巷をうろついて、この三人を描くために死んでいったのだという気がする。男女のカップルと子ども。これに気がついてから、冷たい、よそよそしいパリの風景、灰色の塀や、坂道の土の下にユトリロ自身が横たわっているような気がしてきた。そんな我にもない思いに、ふと胸をしめつけられる。
 男女のカップルと子どもがぼうっと描かれているユトリロの絵を見ると、なぜか底知れない、不気味な、孤独を感じることがある。


◆2005/11/05(Sat) 137 [No.152]


 キスリングが日本で、はじめて知られたのは1926年だった。数年後に外山 卯三郎編『キスリング』という薄っぺらで、印刷もよくない画集が出ているので、たとえ僅かにせよキスリングが知られていたことは間違いない。
 戦時中に本郷の古本屋で手に入れたが、お粗末な写真版のキスリングに魅せられた。空襲のときも必死に持ち出して逃げた。このときから、モジリアーニ、ファン・ドンゲン、キスリング、フジタといった画家の仕事に関心をもちつづけてきた。それは、やがてピカソに対する関心に収斂してゆく。
『ルイ・ジュヴェ』(第五部/第七章)で、マドレーヌ・ソローニュ(女優)にふれて、私は一行、「マドレーヌをモデルにしたキスリングの肖像画が日本にある」と書いた。
 それ以上、私は何も書かなかったが、この絵は、1968年、世界最高の文学賞をうけた作家がその賞金で買ったとつたえられる。
 この「マドレーヌ・ソローニュ」は、あまり人の関心を惹かないがキスリングの最高の傑作。その作家の「末期の眼」にどう映っていたのだろうか。

◆2005/11/03(Thu) 136 [No.151]


 サルトルは80歳になって、自分は少しも年をとった気がしない、と語った。
 あれほど強靱な論理で、世界にむかって思想的に発言をつづけていただけに、その活動に「老い」を感じさせなかった。バートランド・ラッセルのほうが、ずっとヨタヨタしていた。私はサルトルの発言に驚かされたが、同時に、サルトルは「老い」を認めたくないのだろうと思った。(現実には、数年後にサルトルは亡くなっている。)
 私もいまや老年に達している。ところが、自分が少しも年をとった気がしない。へんな話である。ほんとうはもっと枯れた、いかにも老人らしい境地に達していいはずなのに、どうもそんな気がしない。サルトルと違って、私はおよそ哲学的な思惟、直観、認識をもたない。つまり、頭がわるい。半分くたばりかけていながら、少しも年をとった気がしない、というのは、どう見てもバカの証拠だろう。
 しかし、自分が彼の年齢になってみて、実感としてのサルトルのことばがよくわかるのである。自分は少しも年をとった気がしない、と思うほど老いぼれたには違いないけれど。われながら、へんな話だと思う。

◆2005/11/01(Tue) 135 [No.150]


 浅草(六区)の映画館は、関東大震災後に再建されたが、おもなものだけでも、大勝館が一級、日本館、富士館あたりが二級、あとは、帝国館、東京倶楽部、電気館、千代田館、大都映画といった映画館があった。大勝館は封切り館なので、誰かにつれて行ってもらうだけだった。
 昔の話である。芝崎町に東洋一の大劇場、国際劇場ができて、コケラ落としのすぐあとで日中戦争がはじまった。
 芝居の実演は、松竹座、常盤座、金竜館、花月など。私の少年時代には、すでに玉木座、凌雲座、万盛座、カジノなどはなかった。もとの音羽座、三友館は映画館になっていたが、音羽座が何という映画館になったのか知らない。
 落語専門の江戸館はあまりおぼえていないのだが、金車亭にはよく通った。浪曲よりも落語が好きだったが、落語を聞くなら上野に出るほうがよかった。講談では神田 伯竜の怪談のこわかったこと。
 山ノ手には行ったことがない。世田谷、杉並と聞いただけで、まるで別世界のような気がした。新宿の武蔵野館に行ったのは、戦後で、外国映画が見られるからだった。


◆2005/10/30(Sun) 134 [No.149]


 ディノニクス(Deinonychosaurus)のなかでも、トロエドンのファンである。ピッツバーグの博物館で見た。
 日本で見られる「恐竜展」では、まず大型種に圧倒される。メラノロサウルス、アンキサウルスといった草食恐竜。こういうのは凄い。なんといっても姿がいい。
 ステゴザウルス、トゥジャンゴサウルスなど、背中に鎧のようなプレート(スパイク)を背負った連中はどうも好きになれない。見るからに凶暴そうだが、不細工で、いかにも頭がわるそうだから。
 小型恐竜のドロマエザウルスは眼が正面を向いて、ものを立体的に見ることができたらしい。トロエドンはもう少し小型。走るのも早かったらしい。長い、しなやかなシッポのせいで、すばやく方向転換できた。トロエドンは、現在知られているほかの恐竜たちより、はしっこくて頭もよかった。とてもかわいい。
 ほかにも、剣竜とか、イグアノドン、トリケラトプス、その他いろいろ並んでいるわけだが、トロエドンはたいてい「恐竜展」の隅っこにひかえている。誰もまともに見やしない。そういうひかえめな扱いをうけているところがいい。

◆2005/10/28(Fri) 133 [No.148]


 猿之助(猿翁)のこと。芝居好きだった母から聞いたような気がする。
 まだ団子といっていた時分、父の段四郎の「勧進帳」の後見をつとめた。
 あろうことか、弁慶の数珠がぶっつり切れた。それを見た団子は、すぐさま懐中にしたかわりの数珠をさっと出して、弁慶にわたした。
 楽屋でも、団子の後見はたいそう褒められたという。
 ところがこれを聞いたほかの後見が、せせら笑って、
「そんなことは、あたりまえの話で、後見をするくらいのやつなら、誰でも心得ていることだ」といったという。
 この猿之助の働きは私の心に残った。きみたちはこの話から何を考えるだろうか。
「ほかの後見」のなかに、のちに役者として名をなしたひとがひとりでもいたのかどうかそんなことを私は知りたい。

◆2005/10/26(Wed) 132 [No.147]


 小林 秀雄が教室に姿を見せると、学生たちは緊張する。教壇の机の横に椅子を置いて、無造作に切り出す。
「何か質問は?」
 思いがけないことなので誰も答えない。学生たちは固唾をのんで見まもっている。うっかり質問しようものなら、どんな辛辣な返事が返ってくるかわからない。おそろしい沈黙が流れる。誰も質問しない。と、
「あ、質問はないのか」
 そのまま教室から出て行ってしまった。
 翌週からの講義では、学生のひとりが質問をすることにした。せっかくの講義が聞けないのは残念だからだった。幼稚な質問ばかりだったが、質問に答える小林 秀雄は見ものだった。額のあたりに手をやって、指先で髪の毛をつかむ。指先にくるくる巻きつける。
 その動作に――小林 英雄の直観、感性、それをどう説明するかという判断、その思考の速さがごうごうと渦をまいているように見えた。

◆2005/10/24(Mon) 131 [No.146]


 古本屋を歩く。二週間に一度は古本屋歩きをつづけている。
「およそ本屋の数の多い事にったら、東京の神田本郷に及ぶ所は、世界中何処の都会を歩いても決してない」という。長谷川 如是閑の『倫敦! 倫敦?』(明治43年)にそう書いてあるが、いまの神田、本郷はすっかり様変わりしてしまった。「本屋の数の多い事」はたしかだが、スキー用品の店や、ファストフード、ビデオ、DVDショップがふえて、店の隅っこで思いがけない掘り出し物を見つけて狂喜することもなくなった。
 神保町で植草 甚一さんの姿を見かけたときは、その日の収穫はない。めぼしい本は、みんな植草 甚一さんが先にあさってしまうからだ。
 植草 甚一さんは私を見かけると、近くの喫茶店に誘うのだった。買ってきたばかりの本を楽しそうにご披露しながら、その内容、著者の経歴などを説明してくださる。
 おかげでこっちもその本を読んでしまったような気がして、つぎに別の場所で見つけてもおなじ本は買わなかった。

◆2005/10/22(Sat) 130 [No.145]


 源氏店。『世話情浮名横櫛』の「与三郎」が、
「もし、お富さん、いやさお富、久しぶりだったなあ」
と頬かむりの手拭いをとる。
 場所は、いまの人形町三丁目。もとの電停、人形町からひがし北。これも、もうなくなってしまった末広から大門の通りを、玄冶店(げんやだな)といった。このあたりに、船板塀に見越しの松、つまり妾宅が多かったという。
 戦時中、羽左衛門で見た。うらぶれた男のゆすりと、自分を捨てた女へのうらみが重なって、晩年の羽左衛門でも出色の芝居だった。凄い。見ていてゾクゾクした。
 もっとも、私の住んでいた近くにも船板塀に見越しの松が多くて、芝居に出てくるお富さんのような綺麗なお妾さんもいたっけ。
 おめかけ横町が焼けたのは、一九四五年三月十日。

◆2005/10/20(Thu) 129 [No.144]


 正宗 白鳥から、じかに芝居の話をきいたことがある。
「演劇」の編集長だった椎野 英之が軽井沢の別荘に伺って、作家の原稿をうけとってきたのだった。まだ戦後の混乱が続いていた時期で、食料の買い出しで列車は大混雑していた。列車内でスリに狙われたか、落としたか、椎野は原稿を紛失してしまった。
 椎野は真蒼になって、軽井沢に電話をかけた。事情を説明してあやまったが、白鳥さんは、もう一度、原稿を書くといってくれた。たまたま翌日、白鳥さんは東京に出てくることになっていた。原稿は朝の10時に江戸川アパートでわたすという。
 私が頂きに行くことになった。むろん、白鳥が私のことを知っているはずもない。
 原稿をわたしてくれた白鳥さんは、江戸川からハイヤーで歌舞伎座まで行くことになっていた。
「きみ、乗って行ったらどう?」
 私は同乗させてもらったが、このとき白鳥さんから、芝居の話をうかがったことはいまでもあざやかに心に残っている。

◆2005/10/18(Tue) 128 [No.143]


 山登りに熱中した時期がある。中年過ぎての山歩きだったから、大きな顔はできないのだが、平均して10日に1度、多いときで、月に5、6回、山を歩いていた。
 アメリカ軍放出の戦闘用のザック、磁石、軍手にナタ、飯盒、水筒。網シャツ、黒いカッターシャツ。靴だけはスウェーデン製のものを愛用していた。
 ある日、仕事を終わって夜中から歩き出して、夜中じゅう歩いて、翌日の昼過ぎに知らない麓に下りた。村人は私を営林署の人と間違えたらしい。
 はじめの数年はひとりで歩いていたが、やがて「日経」の記者だった吉沢 正英といっしょに登るようになり、さらに安東 つとむ、石井 秀明たちと登るようになって、山男らしくなってきた。ハイキング・コース程度の低い山でも、わざとコースをそれて、ケモノ道や、杣人(そまびと)の道をたどって歩くと、ずいぶん苦労するし、ときには思いがけない難所にぶつかる。そういうとき、信頼できる仲間がいてくれるのは心強い。
 この山登りが私を変えた。どういう事態にぶつかっても機敏に対処する姿勢がいくらか身についたような気がする。

◆2005/10/16(Sun) 127 [No.142]


 串田 孫一さんが亡くなられた。(05.7.8)
 戦時中の串田さんの「日記」に、わずか一か所だが、私の父親が出てくる。串田さんは慶応でフランス語を教えていた。私の父、昌夫は、そのクラスでフランス語を勉強していた。串田さんよりもずっと年長だった。父は、串田さんに心服していた。
 昌夫は、若い頃フランス系の貿易会社に勤めたことがあったが、もともと英語が専門で、長年「ロイヤル・ダッチ・シェル」に勤務していた。戦時中に、旧仏領インドシナに行く予定で、フランス語のブラッシアップに串田さんのクラスに通ったらしい。
 父は、串田さんの授業のすばらしさを私に話してくれた。そのせいで、串田 孫一さんの名は私にとって、ひどく身近なものになった。のちに私は文学者としての串田 孫一さんの著作を知ったが、いつも父のことばを思い出していた。
 後年の私が登山に熱中したのも、語学を教えるようになったのも、串田 孫一という、自分では会うことのなかったひとにあやかりたいという思いがあったのかも知れない。

◆2005/10/14(Fri) 126 [No.141]


 オノト・ワタンナを読みたいと思った。アメリカン・ジャポニズムの女流作家である。
 読みたかった理由は、若き日の永井 荷風がオノト・ワタンナの『ヒヤシンスの心』を読み、「文章清楚にして情趣まま掬すべきものあり」と批評しているからだった。
 二十年探しつづけたが、神田でやっと一冊、手に入れた。実際に読んでみると、どうにもあまったるいお話で失望した。それっきりこの女流作家のことは忘れた。
 去年から、私は「文学史」めいた講座をはじめた。当然、永井 荷風もとりあげたが、このとき、もう少しオノト・ワタンナを勉強してみようと思った。それを知った井上 篤夫がわざわざ『おウメさん』を探してくれた。十九世紀末の作品で、永井 荷風はおそらくこの作品も読んだのではないだろうか。
 最近、アメリカのジャポニズム小説について羽田 美也子のすぐれた研究が出た(彩流社/05.2)。ほかにも少数ながら、研究者があらわれているという。そうした研究者たちの努力に敬服している。

◆2005/10/12(Wed) 125 [No.140]


 野津 智子は翻訳家。『仕事は楽しいかね?』の翻訳で知られている。最近、つぎつぎに本を出している。どれも、いい訳だった。
『マジック・ストーリー』(フレデリック・ヴァン・レンスラー・ダイ)は成功するために知っておくべき6つの「教訓」を教えてくれる。〈ソフトバンク〉。
『笑って仕事をしてますか?』(デイル・ドーテン)は、『仕事は楽しいかね?』の著者の新作。壁をブチ破るには笑顔がいちばん。〈小学館〉。
『スピリチュアルな力がつく本』(アンドレイ・リッジウェイ)は、私たちの内部に、予言者、共感者、戦士、シャーマンが存在するという。〈PHP〉。
『出世する人の仕事術』(ステファニー・ウィンストン)は、きみの能力をひき出す極意を教えてくれる。〈英治出版〉。
 私なども、若いときにこういう本を読んでいたら、もう少し楽しい仕事ができたに違いない。

◆2005/10/10(Mon) 124 [No.139]


 いつか私は書いたのだった。ひとはときとして愛するひとのなかに永遠をもとめる、と。(「フリッツィ・シェッフ」)愛はある情緒(エモーシォン・パルティキュリエール)のなかに永遠をかいま見ることにほかならない。だから、ほんとうの愛がいつまでもつづくことを心のどこかで、ほんのわずか信じたとしても無理からぬことだろう。
 だが、そうした愛がつづくことはない。男と女の関係が終わったとき、彼や彼女は――長くつづく真実の感情がもてないのかもしれないと思わなかったのだろうか。そんな疑問が胸をかすめる。
 つまり、自分の無能力になぜか罪の意識をおぼえてしまうようなことはないのだろうか。そこからもう少し先には、相手がほんとうに自分を愛してくれていたのか、という疑いが待ちうけていることにならないのだろうか。

◆2005/10/08(Sat) 123 [No.138]


 内村 直也の「えり子とともに」の放送開始は、1949年10月だった。主演者は、小沢 栄(のちに栄太郎)、阿里 道子。音楽は芥川 也寸志、のちに中田 喜直。2年7ヶ月、127回。
 当時、こういう連続放送劇ははじめての試みで、四十代だった内村さんはライターとして、五十代の伊賀山 精三、三十代の梅田 晴夫、二十代の私を起用した。ほんとうは矢代 静一に打診したのだが、矢代が断ったため私を起用したのだった。
 私は放送劇を書いた経験もなかった。原稿の注文もなかったし、前途暗澹たる状況だった。内村さんは、そういう私を憐れんで、勉強の機会をあたえようと思ったのだろう。実際に放送の現場に立ち会ったことは得難い経験になった。
 内村さんの援助で、私は大学に戻った。ある日、講師の加藤 道夫が驚いた顔で、
「きみ、大学に戻ってるんだってね」といった。
 このときから文学落伍者(リテ・ラテ)として生きようと思った。


◆2005/10/06(Thu) 122 [No.137]


 ムッシーナは投げる姿勢に特徴がある。野茂 英雄のトルネードもめずらしいスタイルだが、ムッシーナのピッチングには独特なポーズとリズムがある。マウンドに立つと横にかまえてバッターを見る。眼をほそめる。ちょっと悲しそうな顔になる。胸元にグラヴを押しつけると、いきなり上半身を下に折りまげる。ヒョイッとかがめるのではない。腰のまがったおばあさんのような姿勢になる。MLBでもめずらしい投球姿勢。
 ヤンキースには、ランディ・ジョンスン(05年は不調だが)からリベラまで、名だたる投手がそろっている。ランディ・ジョンスンはいつも自分の投球に絶対の自信をもっている。あの禿鷹のような顔つきが、獲物を見据えるような感じになる。
 リベラはクローザーだが、シーソーゲームの最終回に出てくると、大向こうをうならせる千両役者のようで、見ていてワクワクする。ピンチのリベラは、むずかしいことを考える哲学者のような顔になる。
 マイク・ムッシーナは今年(05年)も好調で、ヤンキースも地区優勝した。
 私はムッシーナのファンだが、ヤンキースのファンではない。

◆2005/10/04(Tue) 121 [No.136]


 ラジオをはじめて小説に出したのは菊池 寛だそうな。
 はじめてテレビを小説に出したのは誰か。これはわかっている。
 中田 耕治だった。本人がいうのだから間違いない。「三田文学」に書いた短編『闘う理由 希望の理由』のなかで、TVカメラの砲列がリングをとり囲むシーンを書いておいた。まだ民間放送も存在せず、公共放送の試験放送も出ていなかった。
 私はラジオの現場で仕事をしていた。
 それだけに、あと数年でテレビが確実に出現すると思っていた。そうなれば、かならずスポーツの実況放送が流れる。そう思っていたずらをした。
 編集を担当していた山川 方夫は、さすがに気がついて、
「こんなの出して大丈夫ですか」
 といった。

◆2005/10/02(Sun) 120 [No.135]


「夏は来ぬ」。小学校唱歌。

 (1)うのはなの匂う垣根に   
     時鳥はやもきなきて
    しのびねもらす
     夏は来ぬ

 (2)五月雨のそそぐ山田に
     賤の女が裳ぬらして
    玉苗ううる
     夏は来ぬ

 歌ったことはおぼえているのだが、メロディは忘れてしまった。誰の作詞だったのか。こんな歌詞から、佐々木 信綱、島崎 藤村、有本 芳水などを連想する。
 いや、伊藤 彦造、高畠 華宵、蕗谷 こうじの描く美少女たちの姿までも眼にうかんでくる。
 時鳥はホトトギス。賤の女はしずのめ。裳はもすそ。
 今の小学生に読めるはずがない。いや、女子大生でも読めないし、イメージできないだろう。それでいいのだ。

◆2005/09/30(Fri) 119 [No.134]


 ネットワーク。おおげさなものを考えているわけではない。
「コージートーク」を読んでくれるみなさんに感謝している、と同時に、ちょっと驚いてもいる。
「コージートーク」の内容はごく限られたもので、それも自分に関心のあるジャンル、テーマばかり。あくまでコージーなものに過ぎない。
 インターネットのおかげで私などが情報を発信できるというのはありがたいのだが、私がとりあげないものがある。メディア・リテラシーの前提になる知識が、あまりに違っているもの。たとえば、アクチュアリティーに関して、ネットに見られるトークのほとんどが、そのときどきのテレビや新聞ジャーナリズムの影響によるものと見ていい。
 私は、そんなものを書くつもりはない。
 これは、私のつぶやきだが、いつかおなじような魂をもった書き手の小さなネットワークとして機能するようになればいい。ささやかな期待がある。

◆2005/09/28(Wed) 118 [No.133]


 つまらない本を読んで、ああ、つまらなかったとぼやくのが私の趣味である。
 いい本を読んで、ああ、よかったと思うほうが、精神衛生上、いいことはわかっている。しかし、そうそう、いい本にぶつかるはずもない。
 つまらない本を読んで、つまらなかったなあ、と思ったとき、すぐに考える。
 何故、つまらなかったのか。作者は、きっと自分ではいい本だと思って書いているのではないか。もし、そうだとすれば、ほんとうはいい本なのに、ひょっとして私だけがつまらないと思ったのではないか。
 私の体調がよくないのかも知れない。睡眠不足。いや、食欲不振のせいか。このところ何か悩みはなかったか。ひょっとして鬱病かも。これはもう、はっきりと認知障害のあらわれではないか。
 つまらない本ばかり読んでいて、思いがけずいい本に出会ったときのほうが喜びも大きい。そうでなくとも、つまらない本を読むと、つぎからつぎに考えることが出てきて、けっこう楽しい。だから、つまらない本を読むことは、どうにもやめられない悪徳の一つ。

◆2005/09/26(Mon) 117 [No.132]


 これっきり。これっきりですか。
 山口 百恵のポップスの歌詞にあった。それきり。それまで。それだけ。それかぎり。
 徳富 蘆花の小説を読んでいたら、
「敬二が最後の手紙のことを云ひ出すと、寿代さんは、
『わたしびっくりしたわ、何にも書いてない方のを一番にあけて見たさかい』
と唯それっ切りのあどけない顔をした。」(「黒い眼と茶色の目」其六)
とあった。
 それっきりのあどけない顔。いい表現だが、もう誰も使わないだろう。
『柳樽』にこんな川柳がある。
    十三夜おぼえていなは それっきり。
 こんな風俗から、昔の男と女の姿が見えてくる。いまの女だって、似たような気分はあるだろう。ただ、それっきりの、罪深さ。

◆2005/09/24(Sat) 116 [No.131]


「レンガ」は、戦後すぐに有楽町で息を吹きかえした喫茶店だった。
 日比谷、有楽町界隈の映画館のすぐ近く。階下は映画を見に行くカップルたちの待ち合わせの場所だったが、階段をあがって、二階は客種もちがってなんとなく雰囲気が変わっていた。戦後すぐに、私は「時事」の椎野 英之に渡す原稿をいつもここで書いた。椎野は、この喫茶店で、しばらく雑談をしたり、いろいろな人に紹介してくれた。
 二十年近く「レンガ」に通いつづけた。私が立ち寄る時間はだいたいきまっているので、友人たちや編集者たちも「レンガ」で私を待っているのだった。
 その後、有楽町界隈にもいろいろな喫茶店ができて、「レンガ」は「ジャーマン・ベーカリー」に変わった。「ジャーマン・ベーカリー」にも十年以上通った。
 きまった店にしか行かないので、ひどくcompulsiveな性格に思われそうだが、別の店に入って自分の気に入るかどうかわからない。だいいち、めんどうくさい。
 いまは、「ジャーマン・ベーカリー」もなくなってしまったので、有楽町にも行かなくなった。

◆2005/09/22(Thu) 115 [No.130]


 エキム・タミロフ。アメリカの映画俳優。もう誰もおぼえていないだろう。もともと有名なスターではない。1898年、ロシアのバクー生まれ。1923年、「モスクワ芸術座」の一員として巡業。そのままアメリカに亡命。英語がまったくしゃべれなかった。映画はまだトーキーになっていない。
 ハリウッド・デビューは「愛の悪魔」。「ベンガルの槍騎兵」(1935年)で、ようやく注目された。私などが彼を知ったのは、戦後最初に公開されたディアナ・ダービンの「春の序曲」や、イングリッド・バーグマン、ゲーリー・クーパーの「誰が為に鐘は鳴る」あたりから。
 なにしろ背が低く、ずんぐりして、風采があがらない。ひどいロシア訛り。卑怯で、気が弱いくせに押しのふとい、こずるい役が得意だった。
 60年代、クロード・シャブロル、オーソン・ウェルズの映画で、大きくバケた。人生、何が起きるかわからない。1972年、パームビーチで亡くなったとき、彼を偲んでワインをあけた。こんなファンもいるのである。

◆2005/09/20(Tue) 114 [No.129]


 吉永 珠子は女子美の芸術科の助手だった。
 女子美は相模原市の郊外に移転したばかりで、遠くに低い山系がつらなり、冬になると、大気が凍って、叩けば音がするような自然がひろがっている。
 大学の近辺にレストランも喫茶店もない環境だった。研究室にいてもすることがないので、もっぱら原稿を書いたり、翻訳をしていた。仕事にあきると、近くの木立や、遠い路線のバス停まで散歩をするのだった。
 少し疲れて研究室に戻った。一階下の芸術科の研究室に私などが立ち寄ることはないのだが、助手の吉永 珠子が気がるに声をかけてくれるので、ときどきコーヒーをご馳走になった。彼女はマリリン・モンローが好きで、私をマリリンの伝記作家と知って、いつもマリリンのことが話題になった。楽しい時間だった。

 吉永 珠子はいま作曲家になっている。映画の仕事や、いろいろなオーケストレーションの仕事で知られている。この「中田 耕治ドットコム」の基本を作ってくれたのは、吉永 珠子、田栗 美奈子だった。

◆2005/09/18(Sun) 113 [No.128]


 神田の古書店で、「宮城県治一斑」という小冊子を見つけた。100円。宮城県総務部統計課・編。昭和15年版。いまどきこんな冊子を読む人はないだろう。
 私が仙台市荒町尋常小学校の小学生だった頃、宮城県の学齢児童数は26万9058人。就学のパーセンテージは99.77。
 1939年の児童数は24万5299人。性別で見ると、男の子が12万5962人。女の子が11万9337人。1学級あたり、尋常科の生徒数は平均55人。高等小学校の生徒数は51人。私の学年では、男子クラスが三つ、女子のクラスがふたつ。
 尋常科卒で、丁稚奉公にやられたり、少年工になるものも多かった。高等小学校を出てすぐに少年航空兵になった二人の同級生が戦死している。まだ15歳か16歳で。
 こんなつまらない小冊子にも、愚劣な戦争にかりたてられて行った小国民の姿があぶり出しのように見えてくる。

◆2005/09/16(Fri) 112 [No.127]


 若城 希伊子は、ほんとうのお嬢さん育ちで、おだやかで上品な女性だった。いつも華やぎのある微笑を見せて、気品があって、すきッとしていた。
 岡田 八千代に師事したほか、川口 松太郎、内村 直也、吉屋 信子に師事した。戦後の混乱のさなかに父君の事業が挫折したため、ずいぶん苦労したらしい。
 戦後すぐに劇作家として登場した。新派の『想い川』などが代表作だと思う。私は八百屋お七ひとりのモノローグ芝居『お七』を演出したことがある。
 若城女史は途中から小説を書きはじめて、『小さな島の明治維新』(82年)で「新田次郎文学賞」、『政宗の娘』(87年)などがある。残念なことに、晩年の彼女が心血を注いだ、井伊家の歴史を描いた大作はついに未完成のままに終わった。晩年は、折口 信夫の教えをまもって「源氏」の講義をつづけた。私の『ルイ・ジュヴェ』の完成を喜んでくれたが、出版を見ずに亡くなった。私としては、ほんとうに残念なことだった。
 若城女史が亡くなってときどき彼女の作品を読み返す。
 たとえば、『空よりの声』は川口 松太郎とのかかわりを描いた作品だが、芝居や小説の世界を知るうえで、若い人の必読の芸談、芸評、作家論だろう。

◆2005/09/14(Wed) 111 [No.126]

 
 尾上 菊五郎(六代目)、市村 羽左衛門(十五世)を見ている。
 羽左衛門なら、「助六」、「切られ与三」、「直侍」、「石切梶原」。六代目なら「八重垣姫」がまっさきに眼に浮かんでくる。
 私の祖母は小芝居の「寿座」がご贔屓だった。あまり都心に出ることもなくなっていたが、六代目を見ちゃあ、ほかの芝居は見られないねえ、といっていた。そのかわり羽左衛門が好きではなかった。
 あんな細っこいのが、甲高い声を出して、のたくりつんで出てきて、どうなろうってンだい、と悪口をいう。
 ふだんは仲がいいくせに、芝居話になると、母はやけにムキになって、
 そんな棚おろしのほうは、もう大概にしてちょうだい、と反論する。
 1945年、羽左衛門が亡くなって、戦後の私は歌舞伎にかわって新劇ばかり見るようになった。六代目が亡くなってからまた見るようになったのだが。

◆2005/09/12(Mon) 110 [No.125]


 ジャン・ルノワールの最後の作品、「ジャン・ルノワール小劇場」(1969年/日本未公開)を見た人は少ないだろう。
 フィルム・ア・スケッチ(オムニバス)というか、三つのエピソードを集めたもの。それぞれの冒頭、狂言まわしのようにルノワール自身が解説している。途中で中幕のように、ジャンヌ・モローが世紀末の小唄をご披露する。
 芸術家の描く軌跡はそれぞれユニークなものだが、とくに劇作家、映画監督の仕事は、高いピークに達したあと、どうしようもなく低いほうに流れることが多い。「小劇場」は、ルノワールという芸術家、半世紀におよぶ大監督の最後の仕事としては、無残なほど演出力が衰えていると思う。
 映画を見て胸を衝かれた。いたましい思いがあった。
 なぜかしきりに芸術家の運命を考える。芸術家であることの運命を考える。

◆2005/09/10(Sat) 109 [No.124]


 ヌードに関心のない男はいないだろう。
 ひきしまった乳房を光(照明)に向かって、惜しみなくさらしている女ほど美しいものがあるだろうか。クロード・アネのことば。
 たとえば、「プレイボーイ」の美しい女たち。肉体的に非の打ちどころがない。美貌で、みごとに張りつめた乳房。ひきしまった腰。性器は見せていないが、綺麗に手入れされた性毛。
 はっきりいおう。彼女たちのヌードは、いつも男の欲望をそそるためにしか存在していない。彼女たちの美しさは、ほんのわずかな時間、その雑誌の出まわっているときしかつづかない。
 美しい女は世にもまれなものだと思う。だが、女のもっとも美しい瞬間は、もっとわずかな時間で描かれるデッサンやクロッキーに見られる。どんなにへたなデッサンやクロッキーでも、女がほんとうに美しい瞬間をとらえようとしているからだ。

◆2005/09/08(Thu) 108 [No.123]


『リュミエールの子供たち』。(95年/日本版「日活」ビデオ)。フランス映画100年史。
 1895年3月19日、世界最初の実写フィルム『リュミエール工場の出口』が撮影された。それから一世紀、無数の映画がスクリーンに登場する。
 ルイ・ジュヴェは、『北ホテル』、『レディ・パナマ』、『アリバイ』、『帰ってきた男』、『舞踏会の手帳』の5本が入っている。『犯罪河岸』も入っているが、シャルル・デュランのシーンだけ。
『帰ってきた男』は、ギャビー・モルレーに別れをいいわたすラストシーン。『舞踏会の手帳』は、マリー・ベルを相手にヴェルレーヌの詩を口ずさむシーン。
「ごく最近の映画は、ノスタルジーを感じるには近すぎる。だが、それも永遠につづく映画の未来の記憶になる。」
 とはいえ、半世紀もすれば、ほとんどの俳優、女優たちの名前は誰の記憶にも残らない。だからこそ私はときどきこのドキュメントを見直す。

◆2005/09/07(Wed) 107 [No.122]


 中国語を勉強したかった。記憶力が落ちているし、もともと外国語を身につける才能がないので、とうとうものにならなかった。
 中国語を勉強したいと思った動機は、1992年、まだ有名ではなかったシャーリー・ウォンのCD、「執迷不悔」を聞いたせいだった。それからは、チェン・ミン(陳 明)、ナーイン(那 英)、リン・シューホワ(林 淑樺)と聞きつづけた。
 私に中国語を教えてくれたのは、千葉大の大学院で教育学を勉強していた小姐と、人工知能を研究していた小姐だった。ふたりとも、たいへんな才媛で、人工知能を研究していた小姐は、卒業と同時に工学博士になり、現在も世界のトップレベルの研究をつづけている。教育学を勉強していた小姐は、千葉大を卒業と同時に、ロンドン市立大の大学院に留学した。私はふたりが去ったため中国語の勉強をやめてしまった。
 シャーリー・ウォンは現在の王 菲である。

◆2005/09/06(Tue) 106 [No.121]


 トルストイの『戦争と平和』を訳したことがある。マニュエル・コムロフがダイジェストしたもので、オードリー・ヘップバーン主演で映画化された。日本でも公開にあわせて翻訳することになって、田村 隆一が私に依頼してきた。
 ダイジェストといっても4000枚からの長編なので、福島 正実、都筑 道夫、常盤 新平たちにそれぞれ分担して訳してもらうことになった。いまとなっては凄い顔ぶれだが、いずれも個性的な訳者ばかりで、できあがってきた訳は下訳といった程度のものではなかった。

 この仕事を終わったあと、肺結核が再発してしばらく寝込んでしまった。

◆2005/09/05(Mon) 105 [No.120]


 ベラスケスの「ラス・メニーナス」を見た。圧倒的な傑作だった。すぐ隣りの展示室に、ジョルジョーネ。これは凄い。さらに奥にゴヤの「マハ」が並んでいる。それほど大きな絵ではないが、こう、たてつづけに傑作ばかり見せつけられると、眼が灼熱してしまう。
 イタリア絵画の展示室に階段がつづいている。
 ヘミングウェイは、いつもここのグィド・レニの小品の前にたって、あかず眺めていたという。美少女が並んでいる。一枚は農民の娘。もう一枚は小間使いか子守女らしい娘。ヘミングウェイは、どっちの少女がお気に入りだったのか。
「マハ」の前にはいつも人だかりがしているので、誰も見ないらしいグィド・レニを見に行く。彼女たちの美しさは、どんな王女、どんな貴婦人ももたない輝きにみちあふれている。

◆2005/09/04(Sun) 104 [No.119]


 エリック・ホッファーを読んで、こんなことばを見つけた。
「人間の魂のなかの高貴な心性――勇気、名誉、希望、信念、義務、忠誠。こういうものは、ややもすれば仮借ない非情さに変質してしまう。」
 戦争で、私たちは、たくさんの勇気、名誉、希望、信念、義務、忠誠を見る。しかし、戦争の現実は、かならず仮借ない非情さをともなうものだ。
 ホッファーは沖仲仕のような労働をしながら、自分の思想を築きあげて行った思想家だった。彼はつづけていう。
「ただ思いやりだけが、これをおしとどめられる。さらには、思いやりのある人だけに“静かな細い声”が聞きとれるのだ。静かな細い声、すなわち良心の声である。」と。
 勇気、名誉、希望、信念、義務、忠誠といったことばが出てくると、どうしても条件反射的に警戒する。そういうことばを使う連中を信じたくない。
 私の声も静かな細い声だろう。

◆2005/09/03(Sat) 103 [No.118]


 新潟に行ったことがある。新潟の新聞にエッセイを書き、テレビに出てマリリン・モンローのことを話した。ずいぶん昔のことだが。
 思案小路、甚九郎小路といったゆかしい道筋。西堀通りの由緒あるお寺さん。
 鍋茶屋通りで、美しい古町芸者を見かけた。
 江戸の儒者、寺門 静軒の『新潟富史』を読むと、昔の新潟の成り立ちや、花柳界のことまで、じつによくしらべあげている。「新潟は多く女を生みまた多く美なり。けだしその土地、陰に位するをもつてならん。妓女は温柔にして、ほぼ京の女に似る。(中略)温にして妬心なく、情客とかりそめの幸いをほしいままにす。これ江都と反す。不義理をとらえて、文句をいうがごときはなし。」

 新潟の魅力は私をとらえたが、原稿料も出演料ももらえなかった。ひどい話だ。いまさら「不義理をとらえて、文句をいう」つもりはないが、よくもなめやがったな。その後、二度と新潟に行ったことがない。

◆2005/09/02(Fri) 102 [No.117]


 花について。「美しい花がある。花の美しさなどというものはない」。小林 秀雄のことば。有名過ぎるほど有名なフレーズだが、しばしば誤解されている。
 小林 秀雄から離れて、まったく別のことを考える。私の描く花には誰にも見ぬけないものが秘められているのだ。
 いつか『ルイ・ジュヴェ』で書いたのだった。
「彼がおのれの裡に見届けているものは、マドレーヌという女、マドレーヌの“花”をすばらしい眺めとして楽しむ自分ではなかったか。」(第五部 第三章)
 マドレーヌ・オズレイ。ルイ・ジュヴェの「恋人」だった女優。
 私はいつも誰にも見ぬけない、秘められた“花”をこそ描いてみたいと思ってきた。

◆2005/09/01(Thu) 101 [No.116]


 ロンドンで、二度目の同時多発テロが起きたとき(05年7月21日)、目の前が暗くなった。ロンドン在住の知人のことが心配だったから。
 事件が起きたのは、地下鉄のノーザン線、オーバル。この系統とヴィクトリア線がつながっているウォーレン・ストリート。ハマースミス・アンド・シティ線のシェパーズ・ブッシュ。
 オーバルは知らない。ウォーレン・ストリートとシェパーズ・ブッシュは少し知っている。シェパーズ・ブッッシュで降りて、バッキンガム宮殿までぶらぶら歩いただけで、けっこう遠かったような記憶がある。どうしてそんな歩き方をしたのか、自分でも説明がつかないのだが、バッキンガム宮殿の衛兵交代は見た。たまたま人ごみに気がついて寄って行っただけ。観光客がつめかけていたが、私は名所見物に興味がなかった。
 それでも、一度でも行ったことのある場所、少しでも知っている場所はなつかしい。小説にもなんとか書けそうな気がする。もっとも、ロンドンのことは一度も書く機会がなかった。

◆2005/08/31(Wed) 100 [No.115]


 イギリスの戯曲や批評を多く読んできたつもりだが、小説はそれほど読んでいない。はじめから系統的な読書とは無縁で、手あたりしだいに読んできたせいだろう。ほかに読まなければならないものがいっぱいあった。
 だから外国の作家についての知識は偏頗なもので、好きな作家、劇作家は徹底的に読みつづけたが、きらいな作家には眼もくれなかった。
 詩は翻訳したことがない。むずかしくて歯が立たないからである。ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、マリリン・モンローの詩を翻訳したぐらい。ウィリアム・イェーツの戯曲を読まなかったら、彼の詩は読まなかったと思う。
 そろそろ好きな詩人を訳してみようか。そんなことを考える。ただ、考えるだけのことだが。

◆2005/08/30(Tue) 99 [No.114]


『おさん』のヒロインはいう。
「――九月の朝顔、時候はずれだから見る人もないでしょ、花も小さいし、実もならないかもしれないのに、蕾であってみればやっぱり咲かなければならない、そう思ったら哀れで哀れでしようがなかったわ」
 男と女の「哀れさ」を見つめること。山本 周五郎は、終生、そういう思いを生きた作家だった。
 男がいて女がいる、というのは悲しいものだ、という思い。
 私が山本 周五郎が好きなのは、作中人物にいつもそういうせつなさが感じられるからなのだ。

◆2005/08/29(Mon) 98 [No.113]


「ロリ・マドンナ戦争」は、いわゆるB級映画。きっと誰も知らないだろう。
 ストーリーもよくおぼえていないのだが、若い娘が南部の片田舎にやってきて、牧場主(ロバート・ライアン)の一家と、隣の地主(ロッド・スタイガー)一家の対立にまき込まれる。復讐(フュード)テーマだが、意外にいい映画で、当時、どろ沼化していたベトナム戦争に対する批判がこめられていた。
 主演女優はシーズンズ・フューブリー。モデル出身で、この映画で新鮮な魅力をふりまいていた。しかし、映画女優としては成功しなかったらしい。
 ずっとあとになって、カート・ラッセルの近未来SFに端役で出ていた。私は胸を衝かれた。期待していたほど伸びなかった才能を見ると、とても悲しい。

◆2005/08/25(Thu) 97 [No.111]


 吉行エイスケは新興芸術派の作家。たいへんに早熟な作家だった。十七歳で、「あぐり」(安久利)と結婚して、翌年、長男、淳之介が生まれている。
 二十三歳の吉行エイスケは「バルザックの寝巻姿」を書く。ロダンと花子の関係を描いた短編。この年、あぐりは市ヶ谷で美容院をはじめた。
 村山 知義の設計した二等辺三角形の建物で、手すりのついた狭い階段から二階に出ると、丸い窓から市ヶ谷の駅前の通りが見える。戦後、焼け残って、ファッション・ブティックになっていた。まるで、モルナールの芝居に出てくるような雰囲気だった。K.K.という、武蔵野美大を出たデザイナーがここで働いていた。
 私はある短編でこのブティックを描いた。むろん、吉行淳之介の知るはずもないことだが。

◆2005/08/24(Wed) 96 [No.110]


 モンタンが来日したとき、フランス大使館で歓迎パーティーが催されて、なぜか私も招待されていた。
 モンタンは堂々たる風格で、背が高く、ゆたかな声で、みごとなスピーチをした。短い時間、といっても十分ばかり、じつに冷静、かつ明晰に、とうとうと日本の文化を論じた。
 つづいて日本を代表する有名な映画俳優ふたりが挨拶したが、空疎で無内容な挨拶だった。ひとりは、テレくさそうに、適当にモンタンに敬意を表しただけで、通訳も困ったらしく、途中でかなり省略してしまった。私は、ふたりともモンタンの映画をろくに見ていないことに気がついた。「いそしぎ」も「ギャルソン」も「Z」も。
 日本の役者の頭のわるさ、社交性のなさにはほんとうにあきれたが、これほどの男性ならマリリンが恋したのも無理はないという気がした。

◆2005/08/23(Tue) 95 [No.109]


 香港映画のファンだった。やがて香港ポップスを聞くようになった。
 最近(2005年6月)、陳 慧嫻の上海コンサートは、あまり評判にならなかった。香港で出したベスト盤も売れなかったらしい。潘 越雲は負債に苦しんでいるという。陳 淑樺はもう歌わなくなって、ひっそりと暮らしている。葉 倩文は、舞台で歌っているとき、数十万ドルの耳飾りを踏みつぶしてしまった。
 私が好きだった林 青霞(ブリジット・リン)は、当年、五十八歳。「去年の雪いまいずこ」の思いがある。

◆2005/08/22(Mon) 94 [No.108]


 のっぽ。やたらに背が高い人のこと。赤ノッポ青ノッポ。「小国民文庫」の各巻に連載されていた武井 武雄のマンガ。そそっかしくて、怒りっぽくて、すぐに真っ赤になって鉄棒をふりまわす赤ノッポ。いつも、赤ノッポにふりまわされて、オタオタ、オロオロする青ノッポ。
 私は毎日、父にせがんでアメリカのコミック、ジグスとマギーを読んでもらうような子どもだった。赤ノッポ青ノッポはなんだかローレル&ハーディーのスラプスティックを見るようでおもしろかった。
 ただ、幼いときから、私の好みはほかの人たちとずいぶん違っているらしい、と思いはじめた。

◆2005/08/21(Sun) 93 [No.107]


 ドストエフスキーは、哲学的で、難解な作家と見られている。むずかしそうだと思う人は「作家の日記」あたりから読むといい。
 ある日、ドストエフスキーの短い作品を脚色し、短い一幕ものにして、実際に稽古してみた。稽古に参加してくれたのは、私といっしょに勉強している仲間たち。私塾のような勉強の場だから、実際に上演したわけではないが、プロをめざすひとたちの演技の訓練にも使えるし、アマチュアがまったくの無装置、無照明の舞台でやっても、じゅうぶんおもしろい。
 稽古を見た岸本 佐知子が、ドストエフスキーっておもしろいですね、といってくれたのがうれしかった。

◆2005/08/20(Sat) 92 [No.106]


 とうもろこしを焼く匂い。石川 啄木の歌碑がある公園。真夏、真昼、喧噪、人の流れ。四十年ぶりに会った旧友たち。
     しんとして幅広き街の
     秋の夜の
     玉蜀黍(とうもろこし)の焼くるにほひよ
 秋の夜ではない。真夏、真昼。老人三人が焼いたとうもろこしを食べている。ぎらぎらする光の散乱の下で。

◆2005/08/19(Fri) 91 [No.105]

 ソヴィエトについて書かれた本は無数にある。ほとんどはもう読む必要もない。私も読まない。それでも、これまで何度も読み返した本が何冊かある。
 ジッドの「ソヴィエト紀行」と「紀行修正」、ソルジェニーツィンの「廃墟のなかのロシア」、ナターリア・ギンズブルグの「暗い昼、あかるい夜」、トロッキーの「裏切られた革命」、シャリアピンの「自伝 蚤の歌」など。
 それぞれ違った思想、違った立場から書かれたものだが、じつにさまざまなことを「発見」する。あらためてロシアの「現在」を考えるのが私には必要なのだ。


◆2005/08/18(Thu) 90 [No.104]

 
 御病気如何御座候や。随分心身を調ふるよふにあそばさるべく候。
 良寛さんが、維馨尼(いきょうに)にあてた病気見舞い。じつに簡潔で、いい手紙の例だと思う。維馨尼は四十三歳。親友の姪。当時、良寛さんは五十歳。病気がちだった弟子を思ってオロオロしている良寛さんの表情が見える。
 維馨尼が亡くなって五年後に、良寛さんは歌の弟子として貞心尼と出会う。貞心尼、三十歳。良寛さん、七十歳。美しい邂逅だった。
仏教者としての良寛さんのことは私にはわからない。しかし、良寛さんの手紙を読むだけで優しいお人柄がしのばれる。


◆2005/08/17(Wed) 89 [No.103]


 弟が亡くなったのは、日中戦争が勃発した翌年、1938年6月13日だった。数えで6歳。私が小学5年のとき。このときから、私にとって死はいつも身近なものになった。
 弟を失った母はほんとうに狂乱した。何を見ても悲嘆に沈む。弟が遊んだおもちゃを見るだけで、いろいろと思い出すらしく、毎日泣き暮らしていたが、ある日、私を見てクズばかり残ったとつぶやいた。
 私は弟を思い出すと、いつもひとりで広瀬川の小さな砂州に遊びに行った。水面をかすめるアユやハヤの影を放心したように眺めたり、草むらに寝そべって空を見つめていた。
 この頃から、私は性格が変わったと思う。

◆2005/08/16(Tue) 88 [No.102]

 映画を見つづけてきた。つまり、さまざまな女の愛の姿を見届けてきたことになる。
『獲物の分け前』のジェーン・フォンダ。息苦しいほどエロティックな愛。『巴里祭』のアナ・ベラ。可憐な花売り娘の愛。あるいは、『殺意の夏』のイザベル・アジャーニの狂気の愛。『天井桟敷の人々』のマリア・カザレスの報われない愛。
 いつか私は書いたのだった。ひとはときとして愛するひとのなかに永遠をもとめる、と。(「フリッツィ・シェッフ」)愛はある情緒(エモーション・パルティキュリエール)のなかに永遠をかいま見ることにほかならない。だから、ほんとうの愛がいつまでもつづくことを心のどこかで、ほんのわずか信じたとしても無理ではない。

◆2005/08/15(Mon) 87 [No.101]


 レニングラードは美しい街だった。
 通訳のエレーナさんの案内で、「血の日曜日」の現場や、冬宮、ツァールスコエ・セロといった歴史的な場所や美術館に行っただけだが、この憂愁にみちた街の印象はいつまでも心に残った。
 帰国したあと、『メディチ家の人びと』のエピローグにレニングラードの印象をレニングラードの印象を書きとめたが、あとは「ソヴィエト紀行」を新聞に四回書いただけだった。
 
 先日、書斎をかたづけていると、「ソヴィエト紀行」のメモが出てきた。どうやら発表するつもりだったらしい。

◆2005/08/14(Sun) 86 [No.100]

 映画の試写室はおもしろい場所だった。
 淀川さんは暗いなかで小さなノートに鉛筆を走らせつづける。飯島さんがすわる席はきまっている。双葉さんがきているかどうか、離れていてもすぐにわかる。つまらない試写だと、植草さんのからだがだんだん傾いて最後には寝そべってしまう。
 試写室でよく見かけたのは田中 小実昌、渡辺 淳。お互いに顔を見あわせてニッコリするだけ。やあ、きていますね。そういう微笑だった。映画の話もしたことがない。いまはもうふたりとも亡くなっている。
 自分でも信じられないのだが、私は週刊誌で5年、新聞で10年、週に二、三本、映画批評を書いてきたのだった。

◆2005/08/13(Sat) 85 [No.099]


 明治文学を読みつづけている。幕末から明治の人々がおもしろがっていた遊芸にまで関心がひろがってきた。
「あんなんこんなん女がだいじのはくらくりうだいこさんちゃははんえいえぞえんめいびんくるり……」これから、えんえんとつづく。一度読んでもわからない。
 二、三回、読んで、なんとか見当がつく。安南の女やこういう女が、大事にしているのは伯楽流で、たいこもち、散茶女郎は繁栄して、蝦夷地は(オロシャ相手の交渉で)なんとか無事におさまって、(世界情勢が気になって)ぐるりと頭をまわしてみると……。
 福森 久助の作詞。三代、中村歌右衛門が舞台で踊った。

◆2005/08/12(Fri) 84 [No.098]


 へそ。不思議な組織。妊娠、出産に大きな働きをしながら、その後は、あってもなくてもいいようなもの。日本人は、わりあい、へそのい関心をもっている。
 へそに言及した外国の文学作品はあるのだろうか。まったく見つからなかった。17世紀のトマス・ブラウンが、アダムとイヴのへそを論じている。これには、さすがに驚いた。あまり役に立ちそうもなかったが。
 いつか、おへそのアンソロジーを作ってみようか。

◆2005/08/11(Thu) 83 [No.097]


 ねっちり。これも廃語だろう。
「ねちねち」は、性質や話しぶりがはっきりせず、しつこいさま、と「広辞苑」に出ているが、「ねっちり」は出ていない。どうやら、とっくに廃語になっているらしい。
 ねちねち厭味をいう。これは誰でもわかる。しかし、ねっちりと厭味をいうのは少し意味が違う。先代の中村 鴈次郎が、小津 安二郎の映画でこの違いを見せていた。
 私がうっかりこんなことばを使ったら、校正者がたちまち訂正してくださる。さしづめ「きっちり」とか「しっかり」とか。校正者の舌打ちが聞こえそうな気がする。
 ザマァねえや。

◆2005/08/10(Wed) 82 [No.096]


「電車男」は、ネットの掲示板への書き込みがそのまま純愛ドラマになっている。こういう作品が出てきた現象はおもしろい。もはや、純文学の変質といった次元で論じても仕方のない現象だから、文壇批評家は誰も問題にしないだろう。
 すでに映画化され、コミック化されている。もっともっと売れたほうがいい。
 この作品に関心をもった多数の読者のなかには、自分がネット上のアノニムな存在であることにあきたらなくなる人も出てくるのではないか。私はそのことにひそかな期待をもっている。むろん、ごく少数に限られるだろうけれど。

◆2005/08/09(Tue) 81 [No.095]


 仙台市土樋に住んでいた。愛宕橋のたもとで、門のすぐ横に柳川庄八ゆかりの池があった。柳川庄八は伊達家の浪人で、主家のかたき、重臣の茂庭周防守を青葉城下に襲ってみごとに討ち果たし、その首をかかえてひた走り、愛宕橋までたどりついてこの池で生首を洗ったという。戦前は講談のヒーローのひとりだった。
 まわりを大谷石で囲っただけの二畳ほどの小さな池だが、草木が生い茂っていて昼でも薄暗い。小学生の私は柳川庄八の敵討ちについては何も知らなかったが、ここまで走りつづけてきた浪人の姿が心に残った。
 はるか後年、時代小説を書いたが、私の主人公はいつも走っているのだった。

◆2005/08/08(Mon) 80 [No.094]


 稽古に時間をかけるのが普通だった。
 内村(直也)さんに聞いた話だが、初期のラジオドラマの稽古は一カ月もかけたという。私の初期のラジオドラマでも、稽古が週三回、その日の夕方に本番。ゲキバンはナマ演奏。大先輩の青山 杉作は、まるで指揮者がタクトをふるようなジェストで演出するのだった。エボナイト録音の時代である。時代ものんびりしていたが、わずかな失敗も許されなかっただけに出演者も真剣だったような気がする。
 やがてテープ録音になって、顔あわせ、本読み、台本の読みあわせが一度、すぐに録音というペースになった。テープはいくらでもカットできるので、トチっても安心だった。
 コンピュータ制御の演出なんて考えられなかった昔の話。

◆2005/08/07(Sun) 79 [No.093]


 江戸に近いせいで、上総のわらべ唄もよく似ている。たとえば――
 カラス、カラス、勘三郎。どこサ行った。カンゴ山にムギまきに。何升まいてきた。一升五合まいてきた。あとあじ(何を)した。父母(ちちかか)がみんな食ってしまった。
 別のフレーズもある。
 カラス、カラス、勘三郎。父は熊野へ鐘たたき。一日たたいてコメ三合。
 夕暮れ、ねぐらにいそぐ烏にむかって、
 カラス、カラス、あとになると、ヨゴくるど。
 このヨゴは怪鳥。江戸末期の社会不安が響いているような気がする。

◆2005/08/06(Sat) 78 [No.092]


 上田秋成を読む。無学な私にはとてもむずかしい。
『世間妾形気』に、大坂の堂島の米市について述べて、六十余州の大小名の身代をうけてみて「日本国が一所へよるとは、よい事をする時のやうな詞」とあって驚いた。
 気宇壮大というか、すごい比喩だなあ。
 むずかしいけれど、私の好きな作家のひとり。

◆2005/08/05(Fri) 77 [No.091]


『ルイ・ジュヴェ』という評伝を書いた。なぜ、この評伝を書いたのか。
 たまたまジュヴェの出た映画の記事(『ぴあ』)に「怪優ルイ・ジュヴェ」と紹介されていたので、あきれた。これではジュヴェも浮かばれないだろう。
 こういう理解とはまったく違った次元のジュヴェを書きたかった。そして書きはじめた。

       →ルイ・ジュヴェ
 

◆2005/08/04(Thu) 76 [No.090]

 
 夢について書きたい。それが私の夢なのだ。



◆2005/08/03(Wed) 75 [No.089]


 梅 艶芳。アニタ・ムイ。香港の歌手。昨年、亡くなっている。
 返還前の香港ポップス全盛期を代表するシンガーだった。映画スターとしても知られている。一時、黒社会との交際がつたえられて人気が落ちた。
 昨年、最後のコンサートに姿を見せたが、容色も声も衰えていた。
 それまであまり好きではなかったが、毅然として最後のコンサートにのぞんだアーティストの姿に私は感動した。そのときから、梅 艶芳は難忘之人になった。

◆2005/08/02(Tue) 74 [No.088]


 舟橋 聖一の邸宅に伺ったことがある。もう時効だから書いてもいいと思うのだが、まだ学生だった私が平野 謙を文学部の講師に呼んでほしい、と頼みに行ったのだった。これが実現して、その後、平野 謙が本多 秋五を迎え、本多 秋五が杉森 久英を招いて文学部の教授陣が充実した。
 ずっと後年、大木 直太郎先生から、杉森君がやめるので、きみ、講師になってくれないか、といわれた。こうして半生を神田界隈ですごしてしまった。

◆2005/08/01(Mon) 73 [No.087]


 ぬるぬるのムギトロがすき。
「東海道中膝栗毛」で弥次さん喜多さんが、丸子の宿でトロロ汁を注文する。乳呑子を背負った女房がスリコギで芋をする。のろま。亭主が女房の頭をコツン。たちまち夫婦喧嘩になる。ところが、亭主がトロロ汁に足をすべらせ、女房もひっくり返る。仲裁に入った近所のかみさんも、ぬるぬるすべってころんで――――

◆2005/07/31(Sun) 72 [No.086]


 鼓の音が冴えている。狂歌を思い出した。

    表かわ裏かわ中の一(ひと)構え 鼓のような先斗町かな

 おもて側は、鴨川。うら側は、高瀬川。その中に先斗町(ぽんとちょう)。ポントはPointだという。おおかたどこかの大学の遊蕩生が思いついたジョークだろう。
 この狂歌、よく読むとけっこうおもしろい。

◆2005/07/30(Sat) 71 [No.085]


 杉浦 明平は、ルネサンス、そして渡辺 崋山の研究者だった。
 若い頃、佐々木 基一から杉浦 明平の仕事を教えてもらった。そのときから杉浦 明平の仕事に敬意をもちつづけてきた。渡辺 崋山についても、杉浦 明平ほど深い理解をもっていた人はいないだろう。私が崋山に関心をもつようになったのも明平さんのおかげである。文学的に影響をうけたわけではない。そのくせ、いつも遠くから仰ぎ見るような存在だった。

◆2005/07/29(Fri) 70 [No.084]


 クリストファー・イシャーウッドのGoodbye to Berlinを、ジョン・ヴァン・ドルーテンが戯曲にした。ドルーテンのI Am Cameraが映画化されて「キャバレー」になった。ライザ・ミネリが主演している。
 この映画がもとで、ミュージカルができた。
 イシャーウッドのすばらしい小説も、ドルーテンのみごとな脚色も、いまではもう誰も知らない。

◆2005/07/28(Thu) 69 [No.083]


 宇免という名で、ウメと読む。役場の戸籍係が旧弊な人だったのか、それとも平ガナがきらいだったのか。ウメの母がタケ。名前が気に入らなかったので、自分でアイに変えてしまった。お愛さん。働き者で、眼のきつい、気丈な女だった。私の祖母である。
 その母が、婦ん。おブンさん。嘉永生まれ。人がよかった。その母は……。
 江戸末期から明治にかけて、庶民の女の名前は平凡で、おかしくて、かなしい。

◆2005/07/27(Wed) 68 [No.082]


 イプセンの「野鴨」の劇評。
「ああ! この芝居を見た人たち(観客)、翻訳したランダンローブとエフライムたち、作家(イプセン)、着想させたシェイクスピア、神も、悪魔も、誰ひとり、「野鴨」とは何か、ドラマのなかで何が行われているのか、何を意味しているのか、何を語っているのか、誰ひとり、まったく絶対に理解していないだろう。」
 19世紀でもっとも権威のあった劇評家、フランシスク・サルセー。
 わけのわからない芝居を見せられたときの劇評家の表情がよくわかる。私は、サルセーを軽蔑してはいない。ただ、サルセーのような劇評が堂々とまかり通っていた時代を軽蔑している。

◆2005/07/26(Tue) 67 [No.081]


 リンゴをひろって、そっとバッグにしのばせた。旅を終えて、帰国してすぐにそのリンゴの種を鉢に埋めた。毎日、芽が出るのを待ち続けたが、いくら待っても芽は出なかった。ヤスナヤポリヤナの果樹園に落ちていた小さなリンゴ。
 トルストイは家出をする直前まで、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んでいたらしい。粗末な机の上に、本のページが開かれたままになっていた。……
 ドストエフスキーの書斎の壁に、ラファエロの聖母がかけられていた。毎日、この聖母に祈りを捧げた。トルストイの寝室には、別のラファエロの聖母像がかけられていた。トルストイは、毎日、この聖母に憎悪の眼をむけていた。

◆2005/07/25(Mon) 66 [No.080]


 いくら愛していても、イヌはイヌ、人間は人間の領域をまもるべきだという。人間がイヌから野生の自由を喪失させて、ペットにしていいものか。
 これは、ほんとうにイヌ好きの人の内面にきざす倫理的な問いのひとつ。
 こういうことを考えない人は幸福なのだ。
 D・H・ロレンスは考えている。

◆2005/07/24(Sun) 65 [No.079]


 ミレイユ・バラン。
 わが国では「望郷」以外、ほとんど知られていない。
「望郷」のラスト、ミレイユはマルセーユにむけて出航する汽船の甲板からアルジェを眺めている。恋人のペペ・ル・モコの叫びに汽笛の音がかさなって、思わず耳をおおってしまう一瞬のミレイユ。彼女の姿は私の心から永遠に消え去ることはない。

◆2005/07/23(Sat) 64 [No.078]


 ヒロイン。「彼女」を知ったときから、自分がもはや以前の自分とはまるでちがった状態に生きている、と思わなかったか。
 小説や映画のヒロインたちひとりひとりは、けっしてきみの期待を裏切らない。ところが、きみはすぐに「彼女」を忘れてしまう。
 たいていの読者、観客は不実なのだ。

◆2005/07/22(Fri) 63 [No.077]


『2046』は日本ではあまり評判にならなかったが、「第24回/香港電影金像奨」で、梁 朝偉(トニー・レオン)が最優秀主演男優賞を、章 子怡(チャン・ツィイー)が最優秀主演女優賞をうけた。ほかに最優秀撮影賞、衣裳デザイン賞、音楽賞もさらっている。('05.4.)
 張 曼玉はほんのおつきあい。鞏 俐はしどころがない。カリーナ・ラウは平凡。王 菲はミス・キャスト。それだけに章 子怡の演技には瞠目すべきものがある。いつか、この映画の批評を書いてみたい。
 王 家衛は私の好きな監督のひとり。もっとも、徐 克のほうがもっと好きだが。

◆2005/07/21(Thu) 62 [No.076]


「チリの大地震」は短編小説の傑作のひとつ。
 ドイツの作家にはあまり関心がなかったのだが、この短編を読んだおかげで、自分でも意外にドイツの文学を熱心に読んできたと思う。
 尊敬している作家は、ホフマンスタール、ツヴァイク。批評家では、オイゲン・ヴィンクラー。ヴィンクラーの著作がまったく翻訳されていない。残念な気がする。

◆2005/07/20(Wed) 60 [No.075]


 しめじご飯をたべる。
 子どもの頃、母が作ってくれた炊き込みご飯や、まぜご飯を思い出す。
 エダマメやクリ、ときにはギンナン、ムカゴなど。クリは、鬼カワ、渋カワをむいて、網の上で、じっくり焼いたものだった。焼いている途中で、つい、口にほうり込む。よく叱られた。それでもおいしかった。
 帆立、アサリの炊き込みご飯はたべたことがない。今でも、あまり好きではない。

◆2005/07/19(Tue) 60 [No.074]


「キリマンジャロの雪」が、私のはじめての翻訳だった。
 民間放送がはじまる前に、内村 直也さんが若い俳優の養成を考えて、「芸術協会」をはじめた。私はこのとき朗読のテキストを探して、ヘミングウェイに出会った。
 この訳を俳優の三島 雅夫が読んで、アーサー・ミラーの「みんなわが子」の訳を依頼してきた。私の訳は戯曲の訳として、まるで使いものにならなかった。演出家の菅原 卓につよく叱責された。このときの経験が今の私を作ったと思っている。


◆2005/07/18(Mon) 59 [No.073]


 イタリア料理について。じつは何も知らない。
 東京でも、パスタ、ニョッキ、リゾット、いろいろ食べてみたが、ほんとうにおいしいものにぶつからなかった。私はまるっきりグルメではない。
 ローマから北にチヴィタ・ベッキアをへて、モンタルト・ディ・カストロに近い海辺の安食堂でカニとトマトのパスタを食べたが、これはおいしかったなあ。
 私の味覚はイタリアの庶民の味覚なのかもしれない。

◆2005/07/17(Sun) 58 [No.072]


 私は、どれほど多くのヒロインたちにめぐりあってきたことか。「ナスターシャ」や「ソーニャ」たち、「エマ」や「ジャンヌ」たちにめぐりあうことがなかったら、私の人生はどう変わっていたか。
 私が好きになったヒロインたちは――現実の恋愛とはなんのかかわりもないもので、いわば夢の造形のようなものだった。映画のヒロインたちにたいする関心は、「ヒロイン」と「ヒロイン」を演じた女優たちにたいする、さまざまにニュアンスの違う想念と彩られていたけれど。

◆2005/07/16(Sat) 57 [No.071]


 喇叭。

 キグチ コヘイ ハ シンデモ ラッパ ヲ ハナシマセンデシタ

 生涯、この一節は私の心から消えない。


◆2005/07/15(Fri) 56 [No.070]


 やれつけ。もう誰も知らないだろう。
 中村 三郎の「日本売春史」、明治18年(1885年)の記述にでている。
 戦時中に徴用工員を相手にする「矢場女」を見たし、戦後すぐ(1945年)に浅草、田原町の闇市に、葦簀(よしず)張りで「やれつけ」が出たことを私は知っている。
「戦後」のすさまじい頽廃や混乱が想像できるだろうか。

◆2005/07/14(Thu) 55 [No.069]


 マリリンについてはさまざまな機会に書いてきたが、大衆の偶像としてのマリリンにはまったく興味がない。こんなことを書くと読者はおどろくだろうけれど。
 私にとって「マリリン」とは、二十世紀に生まれたひとりの女優は、どう生きることができたのか、という設問につきる。
 映画女優として好きなマリリンは「人生模様」、「夜のもだえ」、「アスファルト・ジャングル」のマリリン。イノセントなフレグランスを感じさせるから。

◆2005/07/13(Wed) 54 [No.068]


 松浦 静山が林 述斉と会った。閑談数刻におよんだ。
 述斉が静山に川柳を披露した。
 
   目はメガネ 歯はイレバにて こと足れど

 思わず笑ってしまった。

◆2005/07/12(Tue) 53 [No.067]


 埴谷 雄高がはじめて花田 清輝にあてて書いたハガキ。花田 清輝から借りた本にはさまっていた。文面のなかに「あなたは戦後文学の狂い咲きです」とあった。
 その後のふたりは「戦後文学」を代表する思想家になった。
 若い頃の私はふたりがはじめて会ったときも近くにいたのだが、そのときのことをなつかしく思い出す。
 このハガキはふたりの全集にも入っていない。

◆2005/07/11(Mon) 52 [No.066]


 仲がわるいとつたえられている芸術家の不和、嫉視、確執にまったく興味がない。
 マリア・カラスとレナータ・テバルディほどの芸術家の反目や確執ならサマになるが、たいしたこともない連中がいがみあいをしたってはじまらない。
 私には見飽きた喜劇なのだ。
 台湾第一の美女、蕭 薔と、これも台湾最高のモデル、林 志玲はとても仲がわるかった。ところが、最近、ふたりがすっかりうちとけて言葉をかわし、親しく握手しているというニューズ('05年6月)を見た。
 こういうほうがいい。

◆2005/07/10(Sun) 51 [No.065]


 ダニエル・ダリューは戦前のフランスを代表する美女。『不良青年』は彼女のもっとも初期の映画で、内容はつまらないラヴロマンス。
 当時、ダニエルはまだ十七、八歳。アパッシュふうの男もののスーツに、男もののフェルトのハットを斜めにかぶっていた。ディートリヒの男装も見たことがなかった時期で、妖しい魅力に思わず息をのんだ。
 シガレットを口にくわえて、こちらを見るまなざし。思わず心がふるえた。

◆2005/07/09(Sat) 50 [No.064]

「細雪」は、太平洋戦争のまっただなかで書かれた長編小説だった。
 ただひたすら戦意昂揚を叫んでいた軍部が、「細雪」のような作品の発表を許すはずもなかった。谷崎潤一郎が小説の発表を禁止された、というニューズは、少年の私にも、暗い時代の重苦しさを感じさせた。
「細雪」に描かれていた時代は、私たちがつい昨日過ごしてきた日々だった。
 谷崎潤一郎が小説の発表を禁止された日から、私は谷崎の「刺青」や「麒麟」からはじめて、手に入るかぎりの作品を読みはじめた……。

◆2005/07/08(Fri) 49 [No.063]


 ガルボがはじめて主演した映画は、G・W・パプストの『喜びなき街』だった。第一次大戦の「戦後」の暗い世相を描いた映画だった。(私は、おなじように、敗戦直後の東京で見た。戦後すぐで、日本映画の製作はまだ順調ではなかった。映画館も上映できる映画が払底して、ブローカーがどこかの倉庫にあった古い活動写真のフィルムをひっぱり出してきたらしい。)
 この映画では、敗戦後のドイツのすさまじい荒廃、頽廃のなかを、孤独な美少女があてもどもなく彷徨する。ラスト・シーンで、ごった返す雑踏(無声映画だから、その喧噪は聞こえないが)のなかに、まったく無名のマルレーネ・ディートリヒの姿があった。一瞬、ガルボとすれ違うシーン。これを「発見」したとき思わず眼を疑ったことを思い出す。
 このことは誰も指摘していない。私は「幻影」を見たのだろうか。

◆2005/07/07(Thu) 48 [No.062]


 愛すること。
 いつか私は書いたのだった。ひとはときとして愛するひとのなかに永遠をもとめる、と(「フリッツィ・シェッフ」)。
 愛はある情緒(エモーシォン・パルティキュリエール)のなかに永遠をかいま見ることにほかならない。たまゆらの、いのちのきわみ。だから、恋人たちが、自分たちの愛こそいつまでもつづくと、心のどこかで信じたとしても無理からぬことだろう。
 たとえ一瞬であっても。
 たとえ、私たちが、ロミオやジュリエットではないし、パオロやフランチェスカではないにしても。

◆2005/07/03(Sun) 47 [No.061]


 運が悪い。そう思ったときは、心のなかでつぶやく。
 希望。希望こそ、心のなぐさめ。
 モリエール、『人間嫌い』、第一幕第二場、オロントがアルセストに読んで聞かせるへたな詩の一節。
 何の役にも立たないし、なんのなぐさめにもならないが……。

◆2005/07/02(Sat) 46 [No.060]


 私はほとんど考えない。
 自分が何なのか。何であったか。何であり得るのか、などと。

 私は何者かであろうとしたことがない。何者でもないのだから。


◆2005/07/01(Fri) 45 [No.059]


 ロダンは晩年、水彩でおびただしいヌードを描いた。これが凄い。女たちのあられもない肢体をまっすぐに見据えて、あやまたず女の本質をとらえている。
 しかも、どんなにエロティックに描いても、ロダンの誠実さによって、けっしていやらしくない。
 ロダンの彫刻とは違った魅力がある。

◆2005/06/30(Thu) 44 [No.058]

 「レンガ」という喫茶店。「戦後」、有楽町、駅から歩いて三十秒ほどの距離。
 名前は――明治5年、銀座に日本最初の煉瓦建築ができたことに因んだものか。
 私がここを根城にしてから――まだ無名の頃の、常盤新平や、学生だった北方謙三たちも顔を見せるようになった。
 コーヒー一杯でねばって、原書を一冊読みあげたこともある。

◆2005/06/29(Wed) 43 [No.057]


 ルイ・ジュヴェから、いろいろなことを学んだと思う。
 はじめから、何もかもじつに困難なのだ、と考える。舞台に立つ。困難だからこそ、一瞬一瞬、自分にとって、未経験で、予想もつかない「動き」を――観客の眼には、いともやすやすとやってみせること。

                   →ルイ・ジュヴェ


◆2005/06/28(Tue) 42 [No.056]

 林青霞が好きだった。かつての香港電影を代表するスター、ブリジット・リン。
 宝塚の男役スターのような美貌。なよなよした女はやらない。
 はじめて見たのは「白髪魔女傳」だが、白髪で羅刹のような魔女。「重慶森林」では、ハードボイルドな悪女。「北京オペラブルース」では、軍閥の将軍の令嬢で、革命派の闘士。
 しびれた。

◆2005/06/27(Mon) 41 [No.055]


 落語に出てくる幇間(たいこもち)は、たいてい客にいじめられる。
 たいこもちの心得に、
 一に大尽大切に。二に賑わいに取はやし。三に酒盛、四に始末。
 これが十カ条並んでいる。
 五ツ目は――知ってはいたのだが、もう忘れた。

◆2005/06/26(Sun) 40 [No.054]


 吉沢正英と会う。いつも新宿駅のプラットフォームで。階段の下と、きめていた。
 ふたりで空を見る。お互いに黙って。
 行先は秩父にするか、奥多摩にするか、丹沢か。会ってからきめるのだった。
 数年、いつもいっしょに山に登った。
「日経」文化部の記者だった彼が亡くなって以来、一度も山に登っていない。

               →後姿の「あいつ」

◆2005/06/25(Sat) 39 [No.053]


 夢野久作の日記。二十代の若者が、俳句を作ったり、英文で書いている。なぜか、狂気の翳りがさしていたりする。
 私は、最近になっていろいろな夢を見るようになった。もっとも、最近の自分の日常生活を考えると、いやな夢でも見ているような気がする。
 年をとったせいだろうか。

◆2005/06/24(Fri) 38 [No.052]


 山に登っていた。といっても、月に、二、三度だからたいした経験ではない。
 有名な山には登らない。誰も知らないような山、あまり登山者の行かない山ばかり選んでいた。夏のアルプス銀座といったコースが嫌いだった。
 誰もたいして価値を認めない経験。しかし、楽しかった。だから、私にとってかけがえのない経験になった。

◆2005/06/23(Thu) 37 [No.051]


 モンテーニュを読む。
 若い頃はこの人に関心がなかったが、今頃になって、少しだけわかるような気がする。
 なぜ、モンテーニュに関心がなかったか。簡単に答えられる。無知だったから。
 では、今になって、なぜモンテーニュに心を動かされるのか。モンテーニュが少しでも理解できる可能性は以前から存在していたのか。萌芽としても……。

◆2005/06/22(Wed) 36 [No.050]


 メリーヌ首相は、議会でいった。
「ドレフュス事件なるものは存在しない」と。1897年である。
 当時、ピカール大佐は投獄され、ドレフュス再審を望む人びとは窮地に立たされた。
 今の日本にも、メリーヌは生きている。私は新聞やテレビを見ながら、ああ、きみはメリーヌ君じゃないか、と声をかけてやる。

◆2005/06/21(Tue) 35 [No.049]


 夢中になっていた時期がある。
 映画監督や女優の場合は、作家や詩人と違って、どこの部分に才能の成熟が見られる、といった指摘はできないが――おなじ監督や、女優の出た映画を追いかけていると、円熟が感じられたり、才能の衰えが感じられてくる。
「初恋」から「冬のソナタ」をへて、「誰にでも秘密がある」のチェ・ジウは――


◆2005/06/20(Mon) 34 [No.048]


 ミモザ。南フランス。マルセイユからサント・ヴィクトワール山にむかう途中、黄色い花の林がどこまでもつづく。見たことのない風景だった。
 マルセイユでは、ロマの浮浪児がミモザの一房を通行人に売りつけようとしていた。私はミモザを買った。だまされていると承知して。
 いま、私の庭に、ミモザが二本植えてある。

◆2005/06/19(Sun) 33 [No.047]


 マリリン・モンローは、二十世紀の、もっともグラマラスな女優という。ファンにとって、マリリンが「映画」だった。
 私のマリリンは、いつも不安そうで、明るくて、舌ったるいセリフをいいながら――悲しそうで、それでも、わるびれずに生きてきた「女」だった。
 マリリンをグラマラスな女と見たことは一度もない。
            
        →マリリン・モンロー

◆2005/06/18(Sat) 32 [No.046]

 
 本所、小梅に住んでいた。
 その界隈は、どこか江戸の情調が残っていた。すぐ近くに、幼い頃の堀辰雄が住んでいた家があったり、三囲神社、言問橋が眼と鼻のさき。
 隣りに朝鮮人の家族が住んでいて、いつも美少女の姉妹を見ていた。太平洋戦争がはじまってその姉妹の一家は引き揚げて行った。
 美少女たちのおもかげだけが残った。
               
              →「若き日の回想」


◆2005/05/19(Thu) 31 [No.045]

 
 ヘミングウェイに敬意をもっていた。たいていの作家に驚かなくなったのは、ヘミングウェイを知ったからだった。
 ヘミングウェイに対する敬意は変わらない。しかし、今ではヘミングウェイにさえ驚かなくなっている。
 世をうきものと思い入りたりければ。

◆2005/05/19(Thu) 30 [No.044]

 故郷は遠きにありて思ふもの。
 犀星はいう。私は、こういう犀星が羨ましくなる。私は、故郷がない、というか、遠くにありて思ったことがない。
 故郷喪失の思いはあるのだが。

◆2005/05/19(Thu) 29 [No.043]

 
 日の門から風が吹く
 さびしい心の人に風が吹く
 さびしい人の心が枯れる

 イエーツの「心のゆくところ」の新妻が聞く妖精のうた。松村みね子訳。
 私は、松村みね子訳に敬意をもってきたひとり。

◆2005/05/19(Thu) 28 [No.042]

 胚を子宮に移植する。生殖を目的としたクローニングについて、私は単純に考えてきた(私は平凡な作家なのである)。
 不妊に悩むカップルが、自分の子を得るためなら、こうしたことも許されるべきだ、と。
 しかし、ヒトゲノム解読という科学的な達成の果てに、人間性の否定、ひいては倫理の決定的な崩壊が待ちうけている、とすれば……。

◆2005/05/19(Thu) 27 [No.041]

 のだやま。死語。
 花柳界のことばらしいが、語源は知らない。しかし、少年時代に聞いた。
「あいにく、のだやまでね」
 さあ、わからない。あとでわかったのだが――すかんぴん、という意味だった。
 もっとも、今では、すかんぴんも死語になっている。明治、大正の小説に出てくる。
 素寒貧。もとは中国語なのだろう。

◆2005/05/19(Thu) 26 [No.040]

 ねずみ鳴き、といってももう誰も知らない。だいいち、動物のネズミも見なくなった。
 好きな男を吸い寄せるという意味で、若い娘や芸者がネズミの鳴き声に似た音を出す。
 むろん、誰でもすぐできる。唇をかるくあわせて歯をむすんで息を吸い込む。チュッと音がする。舌打ちとは違う。
 ヴェトナム戦争のサイゴンを歩いていたとき、娼婦を売りつけようとした子どもが、ねずみ鳴きをしたのでおどろいた。

◆2005/05/19(Thu) 25 [No.039]

 ぬれば。歌舞伎用語だが、文学作品でも男女のいろごとの場面をさすようになった。
 昔の作家はきびしい検閲のせいで、ぬればを描くことができなかった。だから、よく読むと、いろいろと工夫している。
 今は何でも自由に書けるけれど、ぬればを描くのは、ほんとうはむずかしい。
 そういえば、ぬれ幕ということばも、もう死語になっている。

◆2005/05/19(Thu) 24 [No.038]

「忍者アメリカを行く」。
 ああいう小説はアイディアだけが勝負で、「忍者」と「アメリカ」、まるで異質のものを強引につないでしまう。
 アメリカに旅行しなかったら、ああいう小説は書けなかったかも知れない。いろいろな小説や映画をパロディーした。いろいろな小説を読み、いろいろな映画を見ていなかったら、書けなかったかも知れない。

◆2005/05/19(Thu) 23 [No.037]

 中村真一郎は、戦後『死の影の下に』(1948年)で登場した。その出版記念会があって、無名の私も出席したが、先輩批評家の中村光夫が、席上、辛辣ないいかたで挨拶した。
「中村(真一郎)君は、この作品を発表せず筺底にとどめておくべきだった」と。
 私はこれを聞いたときから、中村光夫をひそかに軽蔑するようになった。

◆2005/05/19(Thu) 22 [No.036]

 どれほど多くのヒロインたちにめぐりあってきたことか。
「ナターシャ」や「ソーニャ」、「エマ」や「ジャンヌ」たち。彼女たちとめぐりあうことがなかったら私の人生はどうなっていたか。彼女たちひとりひとりは、私の想像のなかで現実の女たちよりも、もっとさまざまな肢体を見せてくれた「恋人たち」だった。

◆2005/05/19(Thu) 21 [No.035]

 テネシー・ウィリアムズの芝居を訳したことがある。それも一幕ものばかり。多幕ものを訳す機会はなかった。
 訳しながら演出してみたいと思った。実際に演出したが、気に入ったものは、いろいろな劇団で何度も演出した。そのたびに「発見」があった。
 いまはもう、芝居を訳す機会もなくなっている。残念だが。

◆2005/05/19(Thu) 20 [No.034]

 つまらない本を読んで、ああ、つまらなかった、と思う。これが私の趣味である。
 すばらしい本を読んで、すばらしいと思うのは誰だっておなじことだ。なんというつまらない読書だろう。

◆2005/05/19(Thu) 19 [No.033]

 駐日大使だったクローデルは、関東大震災を体験している。逗子にいたお嬢さんを救い出すために六郷川まで行ったが、罹災者の流れ、劫火に見舞われる。その間に大使館は焼亡した。
 だが、大使館員たちは大使の身のまわりのものを必死にもち出した。大礼服と勲章も。
 だが、誰ひとり彼の原稿を助け出さなかった。
 これが「繻子と靴」の第三幕だった。

◆2005/05/19(Thu) 18 [No.032]

「たけくらべ」のなかに、吉原の年中行事をあげて――
「秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶこと、この通りのみにて七十五輌と数へしも……」
 とある。車は、むろん腕車(人力車)だが、仁和賀は、八月十五日にて届けて、九月一日に開演した。千秋楽まで、晴天三十日間。
 残念ながら、私は見たこともない。今なら車が十分間にどれくらい通るだろうか。

◆2005/05/19(Thu) 17 [No.031]

 空が不意に暗くなり、いつの間にか黒い雲がひろがり重なって、あたりを覆いつくしていた。風までがにわかにざわめきだして、あたりは不意に夜になった。凍りつくような寒さ。
 木々のしげみは暗い影になった。
「早く下りよう」
 私は前を歩いているパートナーに声をかけた。彼女はふり返りもせずに歩いていた。

◆2005/05/19(Thu) 16 [No.030]

 仙台市内の中ほどを、帯のように白く光って広瀬川が流れている。私はこの川が好きだった。
 遠く山肌を削り、土砂をはこび、いくたびか流れを変え、かつての青葉城下を流れて、やがて海にそそぐ。
 少年の私は、川の砂州に立って、ぼんやりと水面を見ている。あたりの木や草が、せせらぎとなってささやきかけてくる。

◆2005/05/19(Thu) 15 [No.029]

 スリフト・ストア・アート。
 古道具屋の片隅にころがっているへたくそな絵。こういう絵を買うのが趣味で、コレクターもいるとか。ただし、一点25ドル以下にかぎる。いい趣味だなあ。
 へたくそなアートほど保存すべきだと考えるから。私のところにもへたくそな絵がいっぱい。自分で描いているのだから間違いない。

◆2005/05/19(Thu) 14 [No.028]

 ジェルジンスキーの銅像を再建しようという決議が、今年のモスクワ市議会に提出された。
 スターリン支配の恐怖政治をささえた秘密警察の創設者だが、1991年8月、この銅像は撤去された。銅像は巨大なクレーンで宙吊りにされ、うつ伏せになって地面に落ちた。市民たちが歓声をあげて足蹴にしていた。
 恐怖の支配体制によってしか、自由も独立も保証されない国にきみたちは戻れるだろうか。

          →レニングラード行き夜行列車

◆2005/05/19(Thu) 13 [No.027]

 
 サイゴン。マジェスティックからレ・ロイにかけての夜には女たちの嬌声。
 前線から戻ってくるジープ。眼ばかりぎらぎらさせて、血に餓えた狼たち。
 相手をするのは、どぎつい娼婦ばかりではない。上品で、優しくて、あくどさがなく、つつましいヴェトナム娘たち。戦争の影に、それぞれが必死に生きるために、GIたちに身を委ねる女たち……。

◆2005/05/18(Wed) 12 [No.026]

 公教育の荒廃は、子どもたちの学力低下をもたらした。「ゆとり教育」を唱えた連中の責任は重い。ところで私は思い出す。
「もっとも美しく、もっとも自由であるべき生涯の一時期を、徹底的におもしろくないものにした、あの単調で、無慈悲で、活気のない学校生活で、ただの一度たりとも愉快だったとか、幸福だったことは思い出せない」という作家。
 ステファン・ツヴァイクを。
                   →ツヴァイク

◆2005/05/18(Wed) 11 [No.025]

 結婚したことを一日でも後悔しなかったカップルがいるだろうか。
 結婚をめぐっての悲劇は多い。むしろ、喜劇と思ったほうがいい。笑えるだけ楽しい。

◆2005/05/18(Wed) 10 [No.024]

 苦言にもいろいろある。
 ミッシェル・レリスはいう。「ほんとうの意味で、真摯で赤裸々な日記は、語るべきできごとについて取捨選択のあとをとどめてはならない」と。
 よくいうよ。語ることrelaterは、偏送?するfrelaterと知っていながら、こういうのだから。冗談、キツいなあ。

◆2005/05/18(Wed)  [No.023]

 恐龍は考えたかも知れない。
 おれたちは荒野を走りまわっているが、どこに行っても、ありとあらゆる恐龍たちの利害がもつれあっている。トリケラトプスは、プシッタコザウルスと睨みあっているし、ステゴザウルスはディノザウルスと死闘をつづけている。お互いの複雑な関係、情況のはげしい推移、そして、種の死滅という因子は……。

◆2005/05/18(Wed)  [No.022]

 今日という日は、昨日という日をほとんど想像もできないものにしてしまう。
 どうかすると、まるっきり滑稽なものにしてしまうこともある。
 ヴァレリーのことば。
 夜になったら、笑うことにしよう。

◆2005/05/17(Tue)  [No.021]

 牛鍋(ぎゅうなべ)について調べたことがある。
 明治30年頃の東京には、西洋料理の店、つまりレストランは40程度。一般大衆とは無縁だった。浅草には日本料理の店が集まって、牛鍋屋は東京全市の11パーセント。
 ハイカラさんも浅草に通った。
 下町そだちの私は明治のなごりをしのばせる牛鍋を食べていた。その時がなつかしい。

        →牛鍋ものがたり

◆2005/05/17(Tue)  [No.020]

 彼女。
 おもちゃ屋さんにつれて行かれて、どれでもいいお人形をあげるといわれたとき、可愛らしい唇をかるく開いて、眼はかがやき、ドレニシヨウカナ、と心をきめかねて、お人形さんの前に立ちつくす女の子。
 マリリン・モンロー。
                    →マリリン・モンロー

◆2005/05/17(Tue)  [No.019]

 女について。たいていの男はのぼせあがる。
「私たちの女性にたいするギャラントリは、ほかのいかなる国の何ものにも較べることができない」
 とモーパッサンはいった。
 よくもぬかしやがったな。

◆2005/05/17(Tue)  [No.018]

 江戸の女……。
 音もなく襖が開くと、敷居ぎわに中腰にかがんで、眼もあやな女があらわれる。
 思わずゴクリと生唾をのむ客の前に、すっと両膝をついて、三ツ指。ぬめぬめと濡れたようなつぶし島田の頭をさげて……。
 子どもの頃、私の住んでいた本所、小梅町に、そんな「江戸の女」がまだ生きていた。

◆2005/05/17(Tue)  [No.017]

 うわさ。
 私は他人の噂をしない。わるい噂を聞いても、自分のところでとどめておく。めずらしい噂はしっかり記憶しておくが、小説に書くこともない。
 わるい噂は、いくらでも尾ひれがついてひろがってゆく。おもしろい。だが、おもしろいから書かない。おもしろくないからだ。

◆2005/05/17(Tue)  [No.016]

 イザベル・アジャーニの「カミーユ」や「アデルの恋の物語」。はげしい狂気に憑かれた愛の傷み。
 私は「巴里祭」のアナベラが好きだが、ヒロインとしては「地の果てを行く」の「アイシャ」をあげよう。異国の女のはげしい愛の姿を見せてくれたから。

◆2005/05/17(Tue)  [No.015]

 愛されて、ただひたすらに燃えつきる。愛することは、暗い夜をわずかに照らすともしびのあえかな光。だが、その光もいつかはかなく消えてしまう。
 いつか消えてしまう予感。だが、わずかな風のそよぎにも、ともしびのゆらぎはつづく。それが、愛。


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