2004年1月10日から2011年12月10日まで7年間にわたり行われて参りました、「中田耕治・文学講座」全77回の講座テーマリストです。


★ 文学講座の資料のバックナンバー(1部500円)を販売しています! ★

中田先生の現代文学講座の第1回から毎回20ページ近くの資料を作って参りました。「行きたいけど時間がなくて行けなかった」という方や、レジュメだけでもほしいという方、ご希望の方はこちらからお申し込み下さい。1部500円です、(郵送の場合送料を別途ご負担いただきます)。
※講座内容をおこした物ではありませんのでご注意下さい。

連続講座は2011.12.10をもって終了致しました。


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――文学をふたたび舞台に――
中田耕治連続講座「現代文学を語る」
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 現代文学講座は毎回“読み切り”。いつからでもどうぞお気軽にご参加を! 
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 『中田耕治連続講座「現代文学を語る」』は、戦後文学の最前線で活躍されてきた中田耕治氏をお招きして、氏ならではの「毒談と変見」から現代文学を考察していく連続講座です。
 2004年1月10日から始まり現在まで、毎月第二土曜日 貴重なお時間を割いて回ごとに新しい視点で講座を行って頂いています。
内容はいずれも本講座独占”書き下ろし”。そしていつも毎回“読み切り”のテーマです。ですから初めての方が途中からでも、興味深くご参加頂けることと思います。

 作家をめざす人も、翻訳家の道を歩む人も、なんらかのものかきでありつづけようとする人も、みな講座の中からくみ取るものが多いと思います。
そうでなくとも、気になる作家やテーマだからという動機で参加しても楽しめるでしょう。

講座はみなさんに講座を支えて頂き参加者の会費で成り立っています。ぜひ一人でも多くの方に、お気軽にご参加いただけましたら幸いです。

中田耕治先生連続講座「現代文学を語る」実行委員会
連続講座は2011.12.10をもって終了致しました。


 

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◆中田耕治先生文学講座 最終講義(後編)のご案内◆

   2011年12月10日(土)午後2時〜4時半
       於:千葉市生涯学習センター
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◆◆テーマ :「なぜ私はものかきになれなかったか」

いよいよ冬が来ました。しかももうすぐ2011年も終わります。早いですね、何もかもが。
そしていよいよ中田耕治先生の文学講座も最終講義です。
2004年1月から始めて、2010年12月まで7年間75回にわたり、江戸末期から明治・大正・昭和、そして戦後文学まで、中田先生のもとで現代文学への道をたどってきました。

2011年9月10日に最終講義前編を開講しました。テーマは「なぜ私はものかきになったのか」

かつて中田先生が福田恒存から「文学史をどう見るか。きみ、文学史の書き換えをやってみないか」といわれたことから始まって、文学講座をやってみて、いかに「独断と偏向」で進めてきたか。さまざまな文学者を取り上げ、そして意識的に取り上げないできたが、「つまり私の目標は、いつも小林秀雄だった」
作家として近代文学と出会い、翻訳家としてヘミングウエイに出会い、俳句をやり、演劇をやり山に登り、それが自分に何をもたらしたか。
外国の新しい文学を読み続けてきたし、いろんなこころみをやってきたが、根幹の一つは、江戸文化人の精神を受け継いでいるという秘かな自負だ。
きみたちもそうだろうが、歳を経ていくと、意外によりどころは近い過去の文学、明治かそれ以前のものか、を読むと感じるものつかむものがある。そこから得られるものを新しいエネルギーにすればいい。
結論として
I avoid looking forward or backward, and try to keep looking upward
           (Charlotte Bronte)
私としては、looking downward だ。

前回講座の荒っぽい要約で、全然違う!と怒られたら、ごめんなさい。
ともかく最終講義の後編は、このあとを引き継いで、テーマは
「私はなぜものかきになれなかったか」だそうです。
そんなありえないテーマですが、先生はそう言います。意味があるのでしょう。
その意味への興味も含めて、いよいよおよそ150年間にわたる近・現代文学史の最後の講座になります。
ぜひ楽しみにして千葉まで来て下さい。


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◆中田耕治先生文学講座 最終講義(前編)のご案内◆

   2011年9月10日(土)午後2時〜4時半
       於:千葉市生涯学習センター
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◆◆テーマ : 「なぜ私はものかきになったのか」

暑い夏ももうじき終わります。お元気ですか。
いよいよ中田耕治先生現代文学講座の最終講義です。
前後編とわかれて、9月10日に前編、11月26日に後編を開講します。

まず前編は、「なぜ私はものかきになったのか」です。
中田先生は戦後最年少の批評家として登場しました。
15年間も続いた戦争に徹底的に敗北し、その傷跡も生々しく何もかも混沌とした戦後という時代から、一貫して文筆業にかかわってきた中田先生。
しかし、「私はもともと批評家になるつもりだったのが、間違って作家になってしまったのだ」と言います。まして「翻訳家になるつもりなどなかったのに、必要に迫られて英語をやることになってしまったのだ」とも言います。
その結果、多くの優れた作家、翻訳家を育てたのですから、それは私たちには幸運だったといえるのでしょう。
戦後文学には、時代の大転換点にふさわしい、きら星のような群像が存在しました。その偉大な文学者たちの中で、中田先生は生きてきました。だから、いまはもうその作品でしか会えないそれら文学者のリアルな姿や真実を、わたしたちはいきいきした実像として聞くことができる幸せな機会に恵まれたのです。

おそらく、こういう機会はもう、ほぼなくなるでしょう。かつて文壇というものがあった時代、作家たちの存在がもっと大きく社会に影響を与えた時代。その時代の証言としても、中田先生のお話は、大きな価値があります。

同時に、「なぜもの書きになったか」の話は、どのようにして小説の書き方を勉強していったかという、実際的実践的な話でもあります。作家、翻訳家、ものかきをめざしている人、いまその道にはいっている人にも、大きな意味のある講座になるでしょう。

中田先生の現代文学講座は70回以上続きました。今回はその最終の講義です。
先生のおすまいの近く、千葉市で開講することにしましたが、会場はJR千葉駅からも近いので、なんとかみなさまに参加いただけるかなと思っています。

 


 

 

第75回

◆日 時 2010年12月11日(土) 午後2時〜4時30分
◆◆テーマ : 戦後の映画批評について

 


 

第74回

◆日 時 2010年11月13日(土) 午後2時〜4時30分
◆◆テーマ : 吉行淳之介の『暗室』

 


 

第73回

◆日 時 2010年10月9日(土) 午後2時〜4時30分
◆テーマ 島尾敏雄

 


 

第72回

◆日 時 2010年9月11日(土) 午後2時〜4時30分
◆テーマ 遠藤周作の『沈黙』を中心に


 

 

第71回

◆日 時 2010年7月10日(土) 午後2時〜4時30分
◆テーマ 澁澤龍彦とエロティシズム


 

第70回

◆日 時 2010年6月12日(土) 午後2時〜4時30分
◆テーマ 室生犀星について

 

 


 

第69回

◆日 時 2010年5月8日(土) 午後2時〜4時30分
◆テーマ 戦後の林芙美子について

 


 

 

第68回

◆日 時 2010年4月10日(土) 午後2時〜4時30分
◆テーマ 山本周五郎

 

 


 

第67回

◆日 時 2010年3月20日(土) 午後2時〜4時30分
◆テーマ 川端康成の『眠れる美女』とアルベルト・モラヴィアの『倦怠』


 

第66回

◆日 時 2010年2月13日(土) 午後2時〜4時30分
◆テーマ 伊藤整とチャタレイ裁判について


第65回

◆日 時 2010年1月9日(土) 午後2時〜4時30分
◆テーマ 「菊田一夫『君の名は』と内村直也『えり子とともに』」

今回のテーマは「菊田一夫『君の名は』と内村直也『えり子とともに』」です。
 お正月にふさわしく、ポピュラリティーとは何かを考えます。
 とくに『えり子とともに』は、中田先生がゴーストライターをしたラジオドラマで、1948年から51年まで続いたヒットドラマだっただけに、リアルなお話が聞けるものと思います。2010年最初の文学講座、皆様、どうぞふるってご参加下さい。

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 菊田一夫は明治41年(1908年)生まれ。1973年没。
 伝説の大ヒットラジオドラマ『君の名は』で有名だが、その幼年期・少年期は辛酸をなめ、生後数ヶ月のとき台湾で両親に捨てられ、転々と他人の手で養育され、さらに5歳で養子に入った菊田家からも小学校半ばで薬種問屋に売られ、年季奉公をつとめ、大阪・神戸で小僧をしながら夜学に通った。
 上京して印刷所で働きながら、知己を得た詩人サトウ・ハチローのところに寄宿し、さらに浅草国際劇場の文芸部に入り、多くのオペレッタを書いて軽演劇というスタイルを確立した。 
 戦中は古川ロッパ一座「笑ひの王国」のお座付き作家として脚本を書き、戦後の昭和30年には、東宝の文芸部に演劇担当役員になり、プロデューサーとして手腕を発揮した。また、作曲家・古関祐而とコンビを組んで、戦後日本のミュージカルの草分けと言われた。
 『鐘の鳴る丘』『君の名は』などのラジオドラマ、『がめつい奴』『がしんたれ』などの戯曲が代表作。

 内村直也は明治42年(1909年)生まれ。1989年没。
 父は菅原電気社長。兄は劇作菅原卓。慶応大経済学部卒。父の会社に入社しながら岸田国士に師事し、雑誌劇作グループに加わり、昭和10年に発表した処女作『秋水嶺』が築地座で上演され、以後は作家生活とサラリーマン重役の2つを兼ねる。
 『遠い凱歌』や、翻案『夜の訪問者』が代表作。ラジオ作家として『えり子とともに』がヒットし、劇中歌「雪の降るまちを」が戦後を代表する歌の一つとして大ヒットした。
 なお、偶然かもしれないが、内村が師事した岸田国士の娘には、襟子(えりこ)、今日子の2人がいる。
 
また、2人ともその名を冠した賞がある。
 菊田一夫には東宝が創設した「菊田一夫演劇賞」(1975年から現在まで。過去に『屋根の上のヴァイオリン弾き』『放浪記』など。昨年度の大賞は『スカーレット・ピンパーネル』のスタッフ・出演者が受賞)、内村直也には、ユネスコの役員だった彼の遺志を継いで遺族が創設した、日本の演劇を愛する外国人や、外国に日本の優れた演劇を紹介する日本人などを奨励するための「内村直也賞」(1992年から現在まで。昨年度は、永年にわたり、一人で能を海外に広め、日本・アメリカ・カナダ3国共同制作の創作英語能「かもめ」を上演した松井彬さんが受賞)がある。

 


第64回

日 時 2009年12月12日(土) 午後2時〜4時30分
◆テーマ 有吉佐和子と曽野綾子について


第63回

日 時 2009年11月14日(土) 午後2時〜4時30分
◆テーマ 原田康子と円地文子の『女坂』について

 


第62回

◆日 時 2009年10月10日(土) 午後2時〜4時30分
テーマ  夭折した作家たち ―原民喜・加藤道夫・山川方夫―

▼今回はともに夭折した作家3人を取り上げます。3人とも、中田先生と交流・面識がある方であり、いずれも慶応の三田文学の周辺にいた作家たちです。
原民喜・加藤道夫は自殺、山川方夫は交通事故でなくなりました。
たぶん、いまやほとんど知られていなくて読まれてもいないマイナーな作家たちですが、文学史の中では貴重な作家です。
ちなみに、わたくし(安東)は、かつて山川方夫にとりつかれていた時期がありますが、それでも読まなくなってから30年過ぎました。

▼原民喜は広島出身。若い頃はロシア文学、俳句に親しみ、左翼運動などにも参加。救った女に裏切られて自殺をはかるなど、デカガダンスな面もあった。昭和20年疎開した広島で被爆。戦後、その体験を書いた「夏の光」などで高い評価を受ける。
誰もがまもなく襲ってくるものに気づかない時間、恐ろしい時間を静かに物語って「戦後の忘れがたい名作」と言われている。
昭和26年3月13日、吉祥寺・西荻窪間で国鉄線路に飛び込んで自殺しています。享年45歳。

▼加藤道夫は戦前の慶応大学時代に演劇活動を活発に行い、シェイクスピア、ベン=ジョンスン、能、ジロドゥー、折口信夫などから影響を受けた。大学院時代に書いた長編戯曲「なよたけ」が高く評価され、瀕死の従軍体験ののち、戦後は「なよたけ」「挿話(エピソード)」「襤褸と宝石」などの秀作戯曲を発表した。
日本の古典の世界を探索し、ギリシャ古典劇から現代までの西欧演劇を学び、それを舞台に活かそうとした。心理的・社会的リアリズム中心の日本の近代劇にまったく新しい分野を切りひらき、その理想主義的な演劇観は多くの青年に影響を与えたが、昭和28年暮れ、自宅で縊死した。享年35歳。

▼山川方夫は幼稚園以来一貫して慶応で学び、昭和29年第3次三田文学を復刊し、江藤淳、曾野綾子などの新人を起用して黄金時代を築く。自身も小説を書き、3編が芥川賞jの候補となるほど評価された。「ヒッチコックマガジン」でショートショートを書いて「ライフ」やイタリア、ソ連にも紹介された。清冽な円熟味のある作風で、その文体に魅せられた文学少年・少女は多かった。代表作は「海岸公園」など。
昭和40年2月20日、交通事故のため35歳で逝去。

 


 

第61回
◆日 時 2009年9月12日(土)
◆テーマ 室生犀星の『わが愛する詩人の伝記』と『かげろふの日記遺文』

 


 


第60回
日 時 2009年7月11日(土)
◆テーマ 石原慎太郎の『太陽の季節』

 



第59回 
◆日 時 2009年6月13日(土)

◆テーマ 丹羽文雄 ―『海戦』から『嫌がらせの年齢』へ―

 


第58回 
◆日 時 2009年5月9日(土)

◆テーマ 山本周五郎について

 



 

第57回
◆日 時 2009年4月11日(土)

◆テーマ 坂口安吾について



 

 

第56回
◆日 時 2009年3月14日(土)

◆テーマ 花田清輝、佐々木基一をめぐって


 


第55回
2009年2月10日(土)

戦後の演劇や大岡昇平などをめぐって

 



第54回  2009年1月10日(土)

戦後の演劇や大岡昇平などをめぐって

 



第53回  2008年12月13日

戦後の新しい文学〜野間宏・中村真一郎などをめぐって

 

 



第52回  2008年11月8日(土)

 
■■■ 戦後の劇作家たち ■■■ 

▼今回のテーマは「戦後の劇作家」です。

▼ 戦後、既成の劇作家たちがまったく萎縮している中で、演劇界に新しい息吹を吹き込んだのは、木下順二や加藤道夫たちでした。

▼木下順二は、熊本の名家で生まれ、中学・高校時代に熊本で過ごしたことから、作家的な形成にはこの地の影響が大きかった。その一つが民話劇で、戦争末期の重苦しい雰囲気の中で、柳田国男の昔話を読んで「魂のふるさとのなつかしさを本能的に感じ」、戦時の権力による文化の破壊に抗して民衆の中に入っていこうとして、初期の『彦市ばなし』が生まれた。単に昔話の演劇再現にとどまらず、民衆の中にあるテーマをとらえ、そこに現代を生きる自分自身の生き方を投影した戯曲を生み出した。その代表作の一つが『夕鶴』である。
 一方、同じように戦争中からすでに、明治維新の激動の中で苦悩する若者を描いた歴史劇『風浪』を書いていた。戦後も日本の近現代の歩みと、そこに生きる人間の行動との緊張関係を描いた戯曲群を発表。戦後の混乱の中で、社会的な事件を背景に、それらとからみあい苦悩する人間を描き続けた。
 ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀美を素材にした『オットーと呼ばれる日本人』、沖縄の祖国復帰問題をテーマにした『沖縄』、大逆事件後の暗い季節を描いた『冬の時代』などがその戯曲群である。
 ずっと後年、60才半ばになってからも、『子午線の祀り』では群唱という手法で、新しい演劇の可能性を示した。また、“社会派”の劇作家として、リベラルな運動への支援も続けた。

▼加藤道夫は、戦争中にニューギニアでマラリアにより死に瀕したが、その直前に脱稿していた『なよたけ』が、その間に岸田国士、岩田豊雄らに回覧され高く評価された。
 戦後発表された『なよたけ』は平安期に権力者に恋人を奪われた青年が、その苦悩の中から詩人として誕生していく戯曲で、古語を駆使し、合唱を取り入れるなど清新大胆な手法で、多くの演劇青年に影響を与え、戦後戯曲の記念碑的作品となった。
 社会主義リアリズムを基調とした日本の近代演劇にまったく新しい分野を切りひらいた劇作家で、優しい純粋な人柄、理想主義的な演劇観が多くの青年たちに愛されたが、昭和28年暮れ、自宅の書斎で縊死した。35才だった。

▼戦後の混乱期、演劇界も激動する中で、それら新しい息吹を生み出した“青春の劇作家たち”を、中田先生はどう描き、どう評価するのでしょう。
 文学講座には、かつて触れたものにもういちど触れて、新しい視点をもつという経験と、知らなかったことを知る発見の楽しみがあります。もっとたくさんの人に来てほしいと、主催者としてはつねに願っています。ぜひご参加ください。



第51回  2008年10月11日(土)
 
■■■ マチネポエティク――戦後の芸術派登場と戦後詩 ■■■ 

 今回のテーマは「マチネポエティク〜戦後芸術派の登場と戦後詩について」がテーマです。
 日米開戦の翌年、昭和17年秋頃から一高の卒業生である中村真一郎、加藤周一、福永武彦らが作品の朗読会を開きました。その名を「マチネ・ポエティク」といいます。それは主に定型詩の試みでした。
 戦後になって、昭和23年に3人は共著『マチネ・ポエティク詩集』を刊行しました。一高在学中から外国文学、とくにフランス文学に触れていた彼らにとって、戦争とは何だったのか、そして戦後の荒廃・焼け跡から生み出すべきものは何だったのでしょう。
 その後それぞれ戦後文学に大きな足跡を残した3人の文学者の軌跡と合わせて、戦後の焼け跡からの文学の復興がテーマになるのではないかと思います。お楽しみに。

 


 

 

第50回
◆日 時 2008年9月13日(土) 午後2時〜4時30分


■■■ 「坂口安吾と太宰治、そして織田作之助
           ―戦後の“無頼派”の作家たちについて」 ■■■ 

 今回のテーマは“戦後の無頼派作家”です。
 戦後、混乱の時代に、大胆で新鮮な作品を発表し、混迷の時代の“オピニオンリ−ダー”ともなった無頼派の作家たち。その生と死において、壮絶孤高であり続けた作家たちがテーマです。
 しかも太宰治、坂口安吾は、2人とも、何度も“ブーム”が訪れる作家です。
 この2人の作家がなぜ世代を超えて若い人たちに、あるいはもう若くはなくなった人たちに、何度も読み継がれるのでしょう。
 
 太宰治については、中田先生はすでに第49回の講座「戦争が終わった」で、『御伽草子』を取り上げ、戦争にまったく協力せず、戦争中制限されて短編しか書けなかった太宰が、その中でいかに「隠遁の術」を使って書いたか。いかにまともな作家だったか。「にもかかわらず、戦後ままなく死を選んだ落差を考えておくこと。でなければ、日本文学が強いられていた苦難がわからなくる」と語りました。
 その太宰の戦後の“無頼派”の時代を取り上げるだけに、興味がすごく湧きます。昭和23年(1948年)6月13日深更、三鷹の玉川上水に身を投じてから50年。桜桃忌にはいまだに多くの人が訪れています。

 坂口安吾は昭和21年、敗戦の混乱の中で書いた代表作『堕落論』で、「戦争中の無我の美しさは死の美学であり、生きるためには人間は堕落せねばならぬ。堕ち切ることにより真実の救いを発見せよ」とうたい、戦前戦後の価値観を否定し、混沌の中に生きていた当時の若者たちに主体的な生き方を示して大きな影響を与えた。
 その後も、肉体を伴わない思想や観念に対して、「性の思想化」とでもいうべき作品を発表して、その後に続く戦後文学の突破口となり、さらには、天皇制や共産党などのあらゆる権威を否定したタブーへの挑戦、独自の古代史研究など、昭和30年(1955年)に49歳で死ぬまで孤高の文学者であった。
 その死は、当時においてはほとんど反響がなかったが、死後15年たった1970代、若者たちの反抗の時代に華々しく甦り、いまもなお愛読者は多い。

 地方の大地主の家に生まれた坂口安吾や太宰治と違い、織田作之助は、大阪の裏長屋に育ち、極貧の生活の中から、強力な自尊心に支えられて、府立中学、三高に入学、周囲を驚かせた。
 しかし、出生以来の境遇をいっさい明かさず、表面は軽佻浮薄な高校生だった。
のちに「本当は自分自身のことを題材に書いているにもかかわらす、これは虚構の作品だと主張する」傾向は、このころの生き方と共通するのだろうか。
 三高時代には一時左翼運動に傾斜し、やがてその実態を知り思想や観念への不信を強めた。
 昭和15年、代表作『夫婦善哉』を発表。新進作家として評価されるが、一方で「無思想・悪達者」などと批判され、東京文壇に反発。戦後も、作品を「汚い」と評価した志賀直哉に反発し、「二流文学論」を書いた。上京した昭和21年11月に安吾や太宰と知り合い交流し始めるが、評論『可能性の文学』を書いたあと12月5日に大喀血し、翌6日に34歳で死んだ。
 時局から超越した姿勢、思想や観念を背負った人間のもろさへの厳しい批判的意識は高かったが、人気作家となっても旅館を転々とし、ヒロポン(いまの覚醒剤)を打ち続けて小説を書き続けるなど、自暴的な生き方は変わらなかった。


 

第49回

テーマ ■■■「戦争が終わった」■■■

 今回のテーマは「戦争が終わった」です。
 いよいよ中田先生の文学講座も戦後に入ります。
「ある日、戦争が終わった。
 私にとって、「戦後」は、灯火管制が解除されて、本が自由に読めることだった。戦争が終わった日の夜、遮蔽幕をとってパッと明るくなった部屋を見たとき、あまりの明るさに驚いたことをおぼえている。もう、一億玉砕もへったくれもない。この明るさのように、これからは明るい世界がやってくる、という実感があった。」(『おお季節よ城よ』)
 17歳の中田耕治先生の戦後はそのように訪れました。
 しかし同時に、昭和20年の廃墟の中の日本には、虚脱感・敗北感も漂っていました。
「戦争が終わったとき、誰しも限りない解放感を味わったことに間違いないが、一方では、もはや回復しがたいほど打ちのめされているという思いもあった。未来のことはまったく保証されていない。それは私自身のことでもあった。二度の空襲で焼け出された私は何もなかった。失うものさえなかった。」(同)
 そんな中、8月15日の敗戦のあと、文化や文学の世界ではどんなことが起きていたか。
 9月、戦後初めて、東京劇場の市川猿之助一座が『黒塚』『弥次喜多東海道膝栗毛』を興行。
 10月、戦後に企画された映画の第1作『そよ風』封切り。並木路子の歌う主題歌「リンゴの歌」が大流行。松竹歌劇団の戦後第1回公演が浅草大勝館で始まる。「文藝春秋」「文学」「文芸」「赤旗」が復刊。
 11月、出版人の青山虎之助がざら紙で無綴じの総合雑誌『新生』を創刊。即日13万部が売り切れ。
 12月、俳優座・文学座・東芸などの新劇団の合同公演『桜の園』が有楽座で始まる。新日本文学界結成、宮本百合子「歌声よおこれ」発表。
 8月15日以後に発表された作品では、太宰治『お伽草子』、高村光太郎『一億の号泣』、火野葦平『悲しき兵隊』、正宗白鳥『文学人の態度』。
 そして、小林秀雄は「モオツアルト」の執筆や骨董に沈潜していた。
 日本の戦後文化・文学は、そのようにして始まりました。
 17歳の中田先生がその時その時代に感じたもの、そしていまふり返って思うこと。戦後文学の始まりへの評価。さまざまな話が聞けるでしょう。今回もお楽しみに。

 

 

第48回

テーマ ■■■「開戦の前夜〜昭和16年頃の文学状況」■■■ 


▼昭和6年(1936年)の満州事変から始まり、昭和12年(1937年)の満州事変・本格的日中戦争の始まりの中、当時の日本は国際的な孤立状況と国内的な人心引き締め政策の渦中にありました。「国家総動員法」(昭和13年)、「国民精神総動員運動」(昭和14年)と、文字面を見るだけで肩が凝り固まりそうな、つまりは人々の自由な精神、自由にものを言える自由を規制・弾圧する法律や運動が席巻していました。そういう空気が世の中を支配していました。
 そして、1941年(昭和16年)12月8日、日米開戦の運命の日が来ます。
 そんな時代に、いったい「ものを自由に表現すること」をなりわいとする文学者たちは、あるいは文化人たちは、どのように生き、どのように表現しようとしたのでしょうか。
 ある人は、胸に溢れる想いに蓋をして、沈黙を唯一の「自由」として選択したのではないでしょうか。ある人は、何かにことよせて、あたかもまったく関わりないようにしか(と阿呆な当局者には)見えないことを書くことで、自らの心の内を表現し、そのことによって、新しい表現手段を獲得したかもしれません。ある人は、いともたやすく当局に「協力」し、戦地に慰問をしたり、従軍作家になったりしたでしょう。だからといって、彼が心から、そう考えていたかどうかは、まったく別かもしれません。もちろん、熱病のような戦争賛美・侵略に、おのれを同化させた文学者もいるでしょう。あるいは、戦地の最前線で、死と殺人の引き金に手を掛けた体験が、生涯の文学的立ち位置を決定した表現者もいるでしょう。
 つまり、圧政下や極限状況で、表現者は何ができるのか、どんな振る舞いをするものなのか、何を獲得するのかしないのか、それが、いまから60数年前に、日本でも起きていた事態なのです。
 この時代の、文学的メ成果モは次のようなものがあります。
昭和13年 石川淳『マルスの歌』石川達三『生きている兵隊』(ともに発禁処分) 火野葦平『麦と兵隊』 中原中也『在りし日の歌』 
昭和14年 天野禎佑『学生に与ふる書』 谷崎潤一郎『源氏物語』26巻  昭和15年 高見順『如何なる星の下に』 織田作之助『夫婦善哉』
      会津八一『鹿鳴集』 田中英光『オリンポスの果実』
昭和16年 下村湖人『次郎物語』 高村光太郎『智恵子抄』
      山本有三『路傍の石』 堀辰雄『菜穂子』
昭和17年 富田常雄『姿三四郎』 丹羽文雄『海戦』
  
 わたしたちは、戦後63年間、ほとんど精神と表現方法を圧迫されたり、自由にものを書けない状況に出会ったり、思うこととは別のことを書くことを強いられた経験は、ほとんどなかったでしょう。もし万が一あっても、やめてしまえばすんだ時代でした。
 しかし、そうはいかない時代が、息をしている限りその状況から逃れられない時代が、いまからわずか60数年前にありました。その記憶のある近親者たちが、いまゆっくりと人生から退場しつつあります。
 中田耕治先生の場合は、それはちょうど少年時代でした。東京大空襲の凄惨な記憶や体験が、先生の思想の深いところに核としてある。そう思うことがあります。では、文学者たちの困難な状況については、どうなのでしょうか。先生が、ふだんはあまり触れないこの時代の文学者たちの困難について、どのような目をもって見ているのか。それを今回のテーマにとりあげていただきました。興味深く、楽しみなテーマです。

 

 

第47回


■■■ 谷崎潤一郎『文章読本』と戦前の詩人たち ■■■
*谷崎潤一郎『文章読本』は中公文庫から出ています。


▼今回のテーマは「谷崎潤一郎『文章読本』と戦前の詩人たち」です。
▼谷崎の『文章読本』は、昭和9年(1934年)に書かれました。女性拝跪の極致ともいえる『春琴抄』が絶賛された翌年に当たります。
 すでにこの当時、谷崎は古典回帰による日本美の再発見を基調とした随想集『陰翳礼賛』をまとめ、「日本の古来からの調度品をはじめ、女性の衣装や化粧にいたるまで、薄暗い家屋の構造による光線や夜のほのかな灯の下で、その陰翳を基盤にして生まれた文化であり、美である」という考え方を示していましたが、『春琴抄』にも、『文章読本』にも、それが投影されているようです。つまり、「日本の美は陰翳にあること」「エロティシズムについても、仄暗く隠すところに値打ちがあるというような意見」(吉行淳之介の解説)です。
 『文章道本』では、文章の要素には6つあり、それは「用語、調子、文体、体裁、品格、含蓄」で、とくに「この読本は始めから終わりまで、ほとんど含蓄の一事を説いているのだと申してもよいのであります」と書いています。つまり、吉行淳之介の解説にあるように、「含蓄」というのは、「あまりはっきりさせようとせぬこと」「意味のつながりに間隙をおくこと」で、それは「日本美を陰翳に見る」発想と通底しているというわけです。
 それだけでなく、この本には、ものを表現しようとするものにとって、意識にとどめたい文章がいくつもあります。(中公文庫にあります)
▼もうひとつのテーマが「戦前の詩人たち」でありますように、中田先生は、ものを書くもの、表現するものにとっての「言葉」「文章」はどういうものなのか、どんな意味をもつのか、どう扱われたのか、それを今回の講座で展開するのではないかと推察するのですが、いつもの通り、それが当たっているかどうかは、ふたを開かなければわからない楽しみがあります。

 

第46回

■■■高見順「描写の後ろに寝てはゐられない」と永井荷風『墨東奇譚』■■■ 

 今月のテーマは、高見順「描写の後ろに寝てはゐられない」と永井荷風『墨東奇譚』です。
 高見順は昭和初期、大学時代からコロンビアレコードに入社後も、左翼芸術運動に参加し、プロレタリア作家同盟の一員として活動してきました。

 昭和8年、治安維持法で逮捕された高見順は、留置中に妻の裏切りにあい、自身の転向という二重の痛手に一時絶望的なデガダンの生活に溺れかけました。

 しかし、やがて高見順はその打撃をそのままに小説に書いて発表し、さらに「左翼崩れ」の苦悩と退廃を描いた『故旧忘れ得べき』で第1回芥川賞の候補となりました。これが高見順の“再生”でした。

 その後、浪漫的詩精神と民族主義をたたえて戦前の青少年の「右翼的心情」を煽った安田与重郎らの「日本浪漫派」に対して、散文精神による批判的リアリズムを唱え、ファシズムの潮流に抵抗しました。戦時中のもっとも良心的な作家といえるでしょう。そのころの代表作が第3回文学界賞を受賞した『描写のうしろに寝てゐられない』です。

 さらに、戦争文学が氾濫した昭和14年、5年に、あえて暗い時代の浅草の下積みの人々を描いた『如何なる星の下に』を連載し、人々の哀感を描くことで、自分自身の息詰まるような苦しい気持ちも表そうとしました。ファシズムの時代に、表現者として、ぎりぎりの生き方、抵抗をした作家といえるのではないでしょうか。

 また、戦中から昭和40年の死の年まで書き続けた「高見順日記」は、“日記という形式を最大限に生かしたすぐれた文学的記録”といわれています。

 余談ですが、鎌倉・東慶寺にある高見順の墓地は、没後43年の今も訪れる人が絶えない、よく整備された墓地です。ぜひ、苔掃(そうたい)に行ってみてください。

 永井荷風の『墨東奇譚』は、いうまでもなく荷風の代表作で、何度も映画化されましたので、物語はよく知られています。十年ほど前には、名作ともいうべき荷風の日記『断腸亭日乗』を巧みに使った新藤兼人監督の『墨東奇譚』が話題になりました。

 荷風については、すでに一度取り上げましたので、詳しくは触れません。しかし、荷風には、高見順を違ったかたちの、“戦争中の文学者の生き方”にある共通のものを感じます。あらわれ方はまったく異なりますが。

 時代の圧力の中、芸術的耽美の世界に身をやつしながら、同時に荷風は傍観者の目で時勢を凝視し続け、それを日記というかたちで書き続けました。『断腸的日乗』には、そのような姿勢がにじみ出ています。

 戦時期にはあえて作品を発表せず、誇りをもって凝視し、立ち続けた姿勢には、文学者としての矜持を感じます。

 今回はそのように、いつの時代にもきっと問われるに違いない“表現者としての矜持”あるいは文学者としての生き方にポイントがあるのかな、という気がします。

 もっともこれは、またしても起きた中国によるチベットへの弾圧を目の当たりにしたことが、たぶんに影響して紹介ではあります。

 さて、こんな紹介をしてしまいましたが、中田先生が選んだ理由はまた別のところにあるのではないかと、また期待してしまいます。みななさんも楽しみながら、ぜひご参加ください。

 


第45回

■■■ 吉川英治の『宮本武蔵』とシェストフについて ■■■ 

▼今回のテーマは吉川英治の『宮本武蔵』と「シェストフ」です。

▼吉川英治はいうまでもなく、戦前戦後を通じて、いわゆる大衆文学の巨匠です。その戦前における代表作の『宮本武蔵』は、現在連載中のマンガ版宮本武蔵の『バガボンド』においてさえ受け継がれている“求道者”あるいは“放浪の求道者”の物語です。
もうひとつのテーマのレフ・シェストフ(シェフトフとも)は、昭和9年ごろ、日本の文学者たちに大きな影響を与えた実存主義者のはしりで、戦後の埴谷雄高や椎名麟三にも大きな影響を与えた思想家です。
いったいこの2つが、どこでどうつながるのか、まったくわかりません。かろうじて共通項とでもいえるのは、戦前、とくに昭和10年前後の日本を覆った風潮、そして文学者たちの「思想的彷徨」でしょうか。
それも、ではないか、というぐらいの想像でしかありません。まったく、どうなってしまうのでしょう。
それが、中田耕治先生という、稀代の“異色の文学者”ゆえなのでしょうか。こんなこと書いたら、破門かな。
でもともかく、みなさんとともに、中田先生の展開する、想像できない文学論の方向を、少しでもつかんでおくために、例によって事前の学習的予告をしておきます。

▼『宮本武蔵』は、関ヶ原の合戦の敗残兵となった武蔵が、その後、沢庵和尚の導きで、武士として人間としてどう生きていくか、おのれの剣一本にかけながら追求し続け、最後は佐々木小次郎と対決するという、きわめて求道的で、ストーリー性豊かな長編小説です。戦争への道まっしぐらに進みつつあった日本人に、この小説が与えたものは何だったのでしょう。人々は、そこから何を得ようとしたのでしょうか。
昭和10年、朝日新聞に連載開始当時から人気があり、その後何度も映画化されました。その中でも、昭和30年代に1年1本ずつ制作された内田吐夢監督・萬屋錦之助主演の『宮本武蔵』は、吉川の原作の求道主義的な性質を受け継ぎながら、戦後の荒廃の中から、どう立ち直り人間として生きていくかを鮮やかに描いて、出色の名画となりました。

▼さて、この小説が連載されていた頃、昭和13年つまり西暦1938年11月のこと、パリの診療所で一人の亡命哲学者が亡くなりました。ロシア系ユダヤ人の商人の生まれで、革命ロシアから亡命した哲学者レフ・シェストフ(本名レフ・イサコヴィッチ・シュワルツマン)です。
シェストフは若くして“革命的な傾向”があったといいますが、革命前のロシアで、知識人サークルの同人誌に寄稿。『悲劇の哲学』などの作家論で、真理は理性を超えると主張。
といってもよくわからないので、もう少しくだいた言い方をすれば(たいていのくだいた言い方は間違いだといわれるのは覚悟の上で)、トルストイなどの真理・人道主義の考え方ではなく、人間はもっとどうにもならない絶望の中で、生きていかなければならないと主張した。これがのちの実存主義に結びついていくそうです。
つまり、もっとわかりやすくいえば、トルストイよりドストエフスキーを評価したということでしょうか。
日本では、この考え方が、当時の絶望に突き進みつつある世相の中で、文学者たちに衝撃を与えたそうです。

▼さて、これが予習的紹介ですが、実際のところは、中田先生がどう展開するのかまったく予想できません。お楽しみはこれからなのです。

 


第44回 2008年2月9日(土)

■■■ 梶井基次郎の『のんきな患者』と宇野千代の『色ざんげ』について ■■■

▼今回のテーマは梶井基次郎の『のんきな患者』と、宇野千代の『色ざんげ』です。

▼梶井基次郎は、すでに第38回で『檸檬』を取り上げていますが、今回の『のんきな患者』は、31歳という短い生涯の、その最晩年の最後の作品です。

▼この小説のラストは、「しかし、病気というものは決して学校の行軍のように弱いそれに堪えることのできない人間をその行軍から除外してくれるものではなく、最後の死のゴールへ行くまではどんな豪傑でも弱虫でもみんな同列にならばして嫌応なしに引き摺ってゆくーーということであった。」と終わっていますが、20歳のときから終生、生活も文学も色濃く支配した病気を、最後になって受け容れ、「正面から人生を扱う態度が見られる」作品と評価されました。

▼もうひとつのテーマ、宇野千代の『色ざんげ』は、まったく違った色合いの作品といえるでしょう。尾崎士郎、東郷青児、北原武夫などと恋愛、結婚あるいは同棲し、生涯を愛に生き、青春の放浪に生きた女性であり、すぐれた作家でもあった宇野千代の代表作の一つで、宇野千代と会う以前の東郷青児の入り組んだ女性遍歴を題材にした作品です。

▼男が自らの遍歴をふり返って語る告白の形をとっていて、「じつに溌剌とし男くさい主人公の肉感、実体感を伝えて、近代小説に類の少ない厚味のある男の小説」(佐伯彰一)などという評価もあれば、「情熱的で打算のない一本気な女性たちの強さと美しさは、読者を圧倒する」(河盛好蔵)との評価もあるこの小説を、中田先生はどのように扱うのでしょうか。

▼時代は昭和7年から10年、満州事変はすでに起きて、5.15事件、そして満州国建国と、帝国日本がまっしぐらに破滅への道をひた走っているこの時に、作家たちは、どう生きて何を感じていていたのか。直接には時代と切り結んでいたわけではないように見えるこの2人の異色の作家を取り上げながら、それがどのように切り取られていくのか、興味のつきないところです。

 


 


第43回 2008年1月12日(土)


■■■ 小林秀雄の『Xへの手紙』と昭和時代の批評の問題について■■■

 今回のテーマは「小林秀雄の『Xへの手紙』と昭和時代の批評の問題について」です。

 はっきりいって、小林秀雄について詳しく説明することなど、きわめて困難です。かつて小林秀雄が、「改造」懸賞評論の2席を受賞した『様々なる意匠』などをまとめた評論集『文芸評論』で登場したとき、川端康成が言ったそうです。「小林秀雄が文芸評論を書き出してからは、芸術派は誰も小林秀雄の評論を書くことができない。彼は現代文学最初の文芸評論家であるかもしれない」
 そんなわけで、間近に迫った中田先生の小林秀雄論のための、周辺のことがらだけをあげることしかできません。
 「改造」懸賞評論の1席は、芥川の死を論じた、のちに共産党の指導部になる宮本顕治でした。きわめて象徴的なできごとでした。
 もちろん、小林秀雄もまた、昭和初期に発行されたマルクス・エンゲルスの全集を読んでいたし、私小説の伝統を断ち切ったものとして評価もしています。しかし、当時のマルクス主義文学の運動、社会革命運動としてのマルクス主義理解とは違ったものだったでしょう。それはなぜなのか。
 戦争中、中国に何度もわたり、時事的な発言もしたが、それは「生活者の絶対化」という視点だった。やがて次第に発言を控えたが、戦後の昭和21年に「新日本文学」紙上で「戦争責任者」の一人と名指しされ、明治大学教授を辞めている。その直前に、戦争中の古典論を集めた『無常といふ事』を出版しています。
 これらの時代や現象の背後にあるもの、小林秀雄の考えたものとは何だったのか。
 戦後、戦後の日本やジャーナリズムの「雑踏」から忘れられているものを「拾い集め」、追い求めた思想や言葉を集約をした仕事の意義は何だったのか。たぶん『本居宣長』に集約されるそれらの仕事の意味を、どうとらえられるのか。
 こんな風に、いくつかの視点、疑問などを列記するしかできません。現代文学最高の評論家である小林秀雄を、さて中田先生はどう表現するのでしょうか。



 第42回
 2007年12月8日(土)

■■■ 牧野信一の『ゼーロン』と、谷崎潤一郎の『武州公秘話』 ■■■

▼今回のテーマは、牧野信一の『ゼーロン』と、谷崎潤一郎の『武州公秘話』です。
 『ゼーロン』は、大正中期に夢と現実が交差する奔放で大胆な幻想文学を次々に発表して、「ギリシャ牧野」とまでいわれた牧野信一が大正6年に発表した代表作の一つです。ドン・キホーテのロシナンテにも例えられる駄馬ゼーロンを駆って、ブロンズのマキノ氏像を運ぶ騎士の「私」が途中で出会うおかしな人々や事件を戯画的に描いた短編です。

▼また、谷崎潤一郎の『武州公秘話』は、同じく大正6年に発表した作品で、戦国時代に敵将の首に化粧する女たちを見て、あやしい興奮にとりつかれた武蔵守の嫡男が、その怪しげな情慾を満足させるためにたどった奇異な物語を描いたものです。

▼大正時代というのは、明治という近代国家が、2つの戦争を経て成立していく“上昇”の時代と、やがてアジア全体を恐怖と悲惨に溢れさせる愚かな15年もの戦争の時代にはさまれた、そこだけなぜか落ち着いた、どことなくおかしくて怪しげで、まるで森の中にぽっかり浮かんだ陽だまりのような時代という印象があります。

▼大正デモクラシー、白樺派の「新しい村」、トルストイの人道主義への傾斜、一方で、牧野信一の幻想文学、谷崎の耽美的で猟奇的世界。多様な文学の時代とでもいえるのでしょうか。しかし、その後の悲惨な時代をあとから知るものにとって、大正の輝きも明るさも、どれも運命を予感させるように感じるのは、「あと知恵」的な感想でしょうか。

▼しかし、中田先生は今回、それにとどまらない資料を用意しているそうです。当日配布される資料には、佐藤春夫の訳した1700年代の中国の悲惨な戦争の記録『揚州10日記』があるそうです。佐藤春夫がその記録を訳したのは、その後の泥沼のような戦争の始まり、満州事変につながる第1次山東出兵の年・昭和2年です。そのことを佐藤春夫はモチーフにしていたはずと、中田先生は言います。翌年、芥川が自殺しているだけに、よけいその言葉には重みがあります。

▼近現代の文学は、日本の近現代史の苛烈な環境の下に生まれただけに、印象の火の強い作品が多いようです。それらをどうとらえ、どううけとめていくか。実はまだまだ解きほぐせていない課題は多いのでしょうか。そう考えると、中田先生の現代文学講座はやはり面白いと思います。


 

第41回

 ◆日 時 2007年10月13日(土)

■■■ 昭和5年の文学状況〜堀辰雄の『聖家族』と伊藤整 ■■■
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▼今回のテーマは「昭和5年の文学状況〜堀辰雄の『聖家族』と伊藤整」です。

▼昭和5年(1930年)は、ロンドンでの海軍軍縮会議の結果に反発した右翼に、東京駅ホームで当時の浜口雄幸首相が銃撃され重傷を負った年であり、(翌年8月死亡)、「統帥権干犯」などという、軍部にとって都合のいい言葉が使われ出した年です。 
ちなみに「統帥権干犯」というのは、今ではめったに聞かれない言葉ですが、あの昭和の大戦争に突入させた原因の一つとなった言葉です。「陸海軍の統帥権は憲法上、天皇にあるから、議会ですらそれに干渉することは出来ない」という論理。つまり、天皇の名を出せば、軍部のすべての作戦は、どんな危うい作戦でも通ってしまうということを意味します。そしてそれは、翌年の「満州事変」以後、実証されます。
しかし、私たちは歴史の勉強をするわけではありません。文学講座です。ただ、当時がどんな時代だったかということを、背景として知っていた方が良いというだけですが。

▼さて堀辰雄は、この年、『聖家族』を発表。新進作家としての道を歩み出しますが、他方で大喀血して、以後宿痾である肺結核で生涯療養生活を続けることになります。
 『聖家族』は、その3年前に自殺した師・芥川龍之介の死に強く衝撃を受けて書いたものと言われていますし、実際、芥川や自分自身もモデルとした人物が登場します。
堀辰雄は、中野重治らプロレタリア文学派と、小林秀雄ら芸術派という昭和文学を代表する双方の流れとのつながりをもっていました。その影響が、彼の文学をつくった一つの要素と言われています。ただ、堀辰雄は、リルケやジョイスなど海外の作家からも大きな影響を受けています。さまざまなことに影響を受けやすい、あるいはその影響を文学に表現することにたけていた作家だったのでしょうか。
代表作はいまや歌のタイトルとしてしか覚えられていない『風立ちぬ』や『菜穂子』でしょうが、『美しい村』や晩年の『大和路・信濃路』などは、いまの旅ブームのはしりともなった作品で、繊細で透明感のある文体は文学少女・少年を魅了しました。

▼伊藤整は同じ昭和5年頃から、堀辰雄、丹羽文雄らとともに川端康成に推奨され、ジェームズ=ジョイスを中心とする新心理主義文学の唱道者として注目され始めていました。
のちに日本を代表する文学評論家となり、戦後、『チャタレイ夫人の恋人』の翻訳が猥褻文書の容疑で検察庁に押収され、以後、文学の表現をめぐって「チャタレイ裁判」を戦いました。
堀辰雄との共通性は、同じように昭和5年以降、西欧文学の紹介者、あるいは影響を受けての文学表現者であったことでしょうか。

▼そんなわけで、中田耕治先生は、どうこの2人の優れた文学者を評価するのでしょうか。あるいは、時代の中に位置づけるのでしょうか。あるいは……。
ともかく、さまざまなことを想像しつつ、今回も現代文学講座にぜひご参加下さい。

 

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第40回 2007年9月8日(土)

◆テーマ 葉山嘉樹『淫売婦』と新興芸術派の胎動

■■■ 葉山嘉樹『淫売婦』と新興芸術派の胎動 ■■■

▼今回のテーマは「葉山嘉樹『淫売婦』と新興芸術派の胎動」です。

▼葉山嘉樹は、小林多喜二と並んで、大正末期から昭和初期に隆盛を誇った日本プロレタリア文学の代表的な作家です。

▼代表作は、今回取り上げる『淫売婦』と『生みに生くる人々』があります。いずれも、当時全盛のプ
ロレタリア文学の中でも、芸術性の高さや独自の豊かさをもった作品として評価されました。

▼そのときの「時代の趨勢」にのったプロレタリア文学作品群が、「労働者ばかり出てくるあまりおも
しろいものでもない小説」などと言われる中で、葉山嘉樹の作品は、「幻想的でふしぎな美しさ」「そ
れまでの労働文学やプロレタリア文学には見いだすことのできない芸術性」(『淫売婦』)とか、「ロ
マンティックな心情の告白が、作品のすみずみまで溢れるような豊かさ」「明治以来の日本の社会主義文学をつうじて最も芸術的にすぐれた画期作」(『生みに生くる人々』)との評価を受けました。

▼他方、そうしたプロレタリア文学全盛の時代に、そうした風潮に不満をもつ若者たちもいて、彼らの
心情に添う文学をめざしたのが、新興芸術派でした。

▼いまはもうまったく忘れられた名前ですが、龍膽寺雄(りゅうたんじ・ゆう)を代表的存在とし、久野豊彦、浅原六朗、中村正常(中村メイコの父)、吉行エイスケ(吉行淳之介の父)などが新興芸術派といわれています。

▼とくに、龍膽寺雄の作品には、「憂愁を帯びた性的魅力をもった可憐な女性」とか、「運命の勢いに翻弄されながらも、それを吹き飛ばすかのように活発にふるまう女性」が何度も登場します。

▼彼女たちはのことを、モダンガールといいます。つまり、大正末から昭和初期に、銀座などの街を颯爽と歩いていた「モガ・モボ」たちを描いています。

▼この時代は、その後の悲惨な戦争の時代の合間に、不思議な明るさと華麗さをもっていたと、当時の人々は言います。

▼時代や社会に抵抗する運動や文学も、時代を謳歌する文学も、いずれも「豊かな時代」に多く現れるというのは、現代に通じる傾向なのでしょうか。偶然なのでしょうか。

▼いずれにしろ、中田先生が私たちの前にどんな時代を、どんな文学の世界を、どんな意表をつく物語を見せてくれるのか、楽しみです。

 

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第39回  2007年7月14日(土)
  ◆◆◆◆ 村山槐多と昭和初期の詩人たち ◆◆◆◆

今回は「村山槐多と昭和初期の詩人たち」がテーマです。
 村山槐多は、わずか23歳で夭折した詩人・画家です。北原白秋や、高村光太郎、木下杢太郎らとともにパンの会などで個性解放をうたい、前衛的な水彩画や木版画の個展を京都府立一中の校内で開いたり、詩や劇をつくったり、時には美少年を愛したりと、自由奔放な青春を過ごしました。
 のちに日本美術院展に入賞した『カンナと少女』のモデルであるお珠に失恋し、放浪、デガダンス、酩酊のうちに次第に肺を患い、生命を縮めますが、近づく死の影の中で、詩的情感と自然への冷静な観察が一致した絵を描き、美術院賞を得ました。さらに死後、その詩や散文を集めた『槐多の歌へる』が出版されると、有島武郎、高村光太郎、室生犀星らに絶賛されました。
 奔放にして豊穣と評価される槐多の詩のあとに、やがて、荻原恭次郎や高橋新吉といった昭和初期を彩った詩人たちが登場します。そして、プロレタリア詩人たちも時代と共に登場します。
 今回はそれら詩人群像と、昭和の時代についてお話いただくことになると思いますが、すでにほとんど読まれなくなった詩人たちの魂に触れる中から、何が生まれるのでしょうか。
 直前となってしまいましたが、予備知識としてご紹介します。

 

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第38回  2007年6月9日(土) 

■■■ 白井喬二『富士に立つ影』と梶井基次郎『檸檬』について ■■■

 

▼後者の『檸檬』については、かつて文学少年・少女たちにとって、必読の短編でした。いまでも、檸檬という漢字が書けるかどうかは、文学少年なれのはてたちにとって、飲み屋の定番の話題のひとつです。しかし、この短編は、先生によれば「つけ足し」だそうです。本論はあくまで、「白井喬二『富士に立つ影』」です。

▼白井喬二は大正期の伝記文学作家で、『富士に立つ影』は当時は『大菩薩峠』と並ぶ大衆文学の双璧と目されていたそうです。物語は親子三代にわたる「築城問答」をめぐる争いを描いているものですが、この作家のもうひとつの代表作『新撰組』とともに、どこか一つ焦点をずらしているところが、当時うけたのでしょうか。

▼争いごとが、剣でも合戦でもなく、築城師たちの築城をめぐる論争などいうのも変わっていますが、『新撰組』ではかんじんの新撰組のことより、独楽勝負をめぐる争いが主で、新撰組などは、最後にちらと出てくるだけという意表をついた小説で、それがかえって評判になったそうです。

▼梶井基次郎の『檸檬』の方は、読んでいる方は多いでしょうが、「えたいのしれない不吉な魂」という文章に表れているように、あの凝縮されたような美意識を、かつてはみな愛読して、“肺病になることさえ文学的”というふんいきさえあったのです。そういう“時代のふんいき”というものは本当に不思議です。たぶん、私たちの今ある“ふんいき”も、ずっとあとの人びとからそう思われることになるのでしょうか。

▼それはともかく、中田先生は、いったいこのまったく縁のなさそうな2つの小説から、何を引き出そうとするのでしょうか。ここ数回の共通のテーマ「大正文学の情念」も終わり近く、いよいよ昭和前夜にさしかかります。お楽しみはこれからです。

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第37回     
    2007年5月12日(土) 

■■■   「関東大震災と『大菩薩峠』のドラマ化」  ■■■

▼大正12年9月1日、大正の最後を告げるかのような関東大震災が起きます。東京・横浜をはじめ首都圏を中心に、死者・行方不明者10万5千人余、全壊家屋10万余、焼失家屋21万余、被災者190万人という未曾有の惨状でした。

▼当時はまだラジオ放送さえもなく、人びとは新聞や伝聞をたよるしかなく、津波が赤城山まで迫ったとか、とんでもないうわさまで活字になったそうです。当然、流言飛語がとびかい、「朝鮮人が暴動を起こして井戸に毒を投げ入れた」といった噂が出回り、自警団が組織されて、街角で検問し、多くの朝鮮人を殺害するというような、すさまじい事件までが起きました。

▼しかも、軍部や憲兵隊の中には、この機会に社会主義者や自由主義者たちを一掃させようという考えがあり、大杉栄と伊藤野枝を殺害した甘粕事件や、労働運動の指導者たちを殺した亀戸事件などが起きました。

▼文学者たちにとっても大震災の影響は大きかったと思われます。この世の終わりのような惨状の中で、彼らは何を感じ、何を表現しようとしたのか、しなかったのか。

▼多くの劇場もつぶれました。興行ができなくなった震災後の状況の中で、市川左団次が最初に芝居を打とうとしました、その時の演目が『大菩薩峠』でした。ニヒリズムの権化のような机龍之介を主人公にしたこの小説をなぜ震災後初めての芝居に取り上げたのでしょうか。

▼さらに、台本を書いたのは、なんと原作者・中里介山本人だそうです。若い頃から、出身地・羽村で自由民権運動の余波の影響を受け、キリスト教や社会主義的な思想の洗礼をうけた中里介山は、大正2年(1913年)から昭和16年(1941年)まで28年間にわたって書き続けました。

▼なにしろ、この超・長編小説を書き始めた時にはまだ松井須磨子が「カチューシャの歌」を歌っていた頃で、未完に終わった頃には、日本は真珠湾の攻撃から滅亡と敗戦への道をたどりはじめたころです。それだけ長い間書き続けたのに、ついに未完に終わり、なおかつ、明治維新にもたどりつつくことなく終わってしまったことで、「これは反近代の小説だ」とか、「大逆事件で友人・知人を殺され、関東大震災で大杉栄を殺された中里介山が、その記憶をこめて書いた小説」というような評価もあるそうです。

▼最後の頃には、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』のように、果てしなく終わりのない物語になっていたのでしょうが、しかしなんといってもこの小説の魅力は、ダーティーなニヒリスト・机龍之介にあります。眠狂四郎などのその後のニヒリスト・ヒーローの原点となりました。

▼しかし、なぜ中田先生は、今回のテーマを、「関東大震災と『大菩薩峠』のドラマ化」としたのでしょうか。謎が謎を呼んで、今回も楽しみな文学講座になりそうです。

 

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第36回  2007年4月14日(土)

■■■  有島武郎の『或る女』と横光利一の『日輪』  ■■■

▼前回のお知らせでお伝えしたように、今回のテーマは「大正文学の情念」その4、有島武郎の『或る女』と、横光利一の『日輪』です。

▼有島武郎は、誠実な人でした。生涯、人間の二面性(霊と肉)の問題をテーマに抱え、物静かな知的な紳士でありながら、内心にはディオニソス(バッカス)的な情熱をもち続ける。その矛盾と葛藤が、有島の文学の基礎でした。

▼また他方、貧しい労働者への共感と、親譲りの財産への罪悪感から、農場を解放するなど、大正期の「誠実な文学者」として、白樺派の友人・武者小路実篤とともに、自己の思想性の実践を貫こうとした人でした。
 
▼その誠実さはしかし、人間としてはともかく、文学者としての自己を狭めることにもなります。武者小路の、あまりに悲喜劇的な「美しい村」づくり運動が挫折していくように、有島もまた、自己の思想性の実践という立場に規制・圧迫されて創作力が衰え、最後は虚無的な心境のうちに、人妻波多野秋子と共に軽井沢の別荘で命を絶ちます。

▼『或る女』は、有島武郎のそのような誠実なテーマ「霊と肉」の問題をどう昇華させるかを描いた代表作です。自我に目覚めた優れた女性・早月葉子が、しかし明治という時代はいまだその才能を発揮する場所を彼女にあたえず、他方、女性のうちに潜む娼婦性にも衝き動かされて、身を滅ぼしていくというのが、これまで言われていたアウトラインです。

▼さてそれを、中田先生はどのように考え、どう新しい側面を切りひらいていくのでしょう。

▼もう一人、横光利一は、川端康成とともに戦前の新感覚派文学の代表です。もう一つの名称は「反プロレタリア文学の旗手」です。それも小林秀雄登場以前にマルクス主義の批判をした文学者です。そのためか、戦後は「戦争責任」を強く批判され、昭和22年の暮れに50歳で胃潰瘍に斃れた。
 
▼その文章はたとえば、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駆けてゐた。沿線の小駅は石のように黙殺された」(新感覚派の雑誌「文芸時代」の創刊号より)
 あるいは『日輪』の、「森は数枚の柏の葉から月光を払い落として呟いた」
かつての文学少年少女たちなら、思わず口ずさんでしまうような感覚ですね。
 
▼横光は戦後、「ほとんど完膚なきまでに批判された」といわれています。そのゆえか、横光の作品を、私たちはほとんど知りません。辛うじて代表作、『旅愁』を知るぐらいです。しかし、第2次大戦の直前から書かれ、約10年をかけたこの作品で書かれた東洋と西洋、伝統と科学といったテーマは、60年の歳月をこえて、もっと矮小な形で出現しているように感じることもあります。

▼『日輪』は、邪馬台国の女王・卑弥呼を日輪に見立てて、その美の前に次々と倒れる王子たちという小説です。完成までに2、3年かけて完璧な文体をつくろうとした労作といわれています。

 


 

 

第35回 2007年3月17日(土)

■■■ 菊池寛の『真珠夫人』と島崎藤村の『新生』について ■■■

▼「大正文学の情念」をテーマにした今回は、菊池寛の『真珠夫人』と、島崎藤村の『新生』です。

▼菊池寛は、いうまでもなく文藝春秋社の創立者で、大正から昭和にかけての文壇の大御所。芥川賞・直木賞・菊池寛賞の創設者でもあります。今回、あらためて菊池寛の足跡をたどってみると、作家としても、社会活動家としても、まことに興味のつきない人です。

▼学生時代から、友人の罪をかぶって退学になったり、戯曲家をめざしていくつもの戯曲を書きながら認められず、のちに小説を書いて文壇で地位を確立したあとで、かつて書いた戯曲『父帰る』などが圧倒的評判を得て、あらためて全戯曲が再評価されたなど、エピソードが尽きません。しかも、作家たちの生活上の安定のために文芸家協会をつくったり、著作権擁護の運動を進めるなど、社会的視野も、熱い魂もある作家でした。

▼戦争中の著作のため、戦後、公職追放を受けて、その解除をみないまま死亡したといいますから、そのようなリベラルな面も持っていた菊池寛にとっては、痛恨の思いの最晩年だったかもしれません。

▼かつて名作といわれて読んだ覚えのある『父帰る』『恩讐の彼方に』『忠直卿行状記』などを思い起こすと、主題が明確で、人間心理が鋭く、構成が理詰めなところに特徴があるという評価もわかります。しかし、今回のテーマの『真珠夫人』は、菊池寛が書いた「最初の通俗小説」といわれていて、意に反して成金の後妻になった美貌の男爵令嬢の復讐と愛と死の物語です。数年前のテレビドラマも話題になりました。いったい中田先生は、この小説のどこから、“大正文学の情念”を引き出していくのでしょう。

▼もう一編は、島崎藤村の『新生』です。
明治39年発表の『破戒』で「日本の自然主義文学運動の起点」と評価された藤村は、大正2年、フランスに旅立ちます。それは、実姪こま子との危険な恋愛関係からの逃避だったといわれています。第1次世界大戦で帰国を余儀なくされ、ふたたびその関係は復活し、のちにその関係を懺悔したすさまじいい記録として、『新生』を発表しました。

▼もちろんそれは、大きな波紋や非難を浴びますが、タイトルにある通り、罪の浄化と新生を願って書かれたものだといいます。

▼さて、この特異な作品2冊を通じて、中田先生はどのように“大正文学の情念”を描き出すのか、楽しみです。


 

第34回 2007年2月17日(土)

■■■ 「大正文学の情念」その2 〜吉屋信子と島田清次郎〜 ■■■

▼今回のテーマは1月に続いて「大正文学の情念」その2です。
前回は俳人の井月・碧悟洞・井泉水ら、俳句の革新と闘ったものたちの話でした。今回は、吉屋信子と島田清次郎がテーマです。
▼吉屋信子は大正期に「少女画報」に『花物語』を連載。これが若い女性読者たちに人気をよび、まず少女小説の作家として出発した。
のちにキリスト教の感化や体験から書いた『地の果てまで』などで作家的地位を確立した。さらに昭和期には妹たちへの姉の献身や純潔をテーマにした『空の彼方へ』や、不倫の中での男のエゴイズムと女性の苦悩を描いた代表作『夫の貞操』などで多くの読者を獲得した。戦後は、『鬼火』や『徳川の夫人たち』が代表作となる。
キリスト教の影響もあってか、常識的モラルから逸脱しない作家だったが、少女小説の書き手から出発し、その後、適切な文明批評の目や男性の不貞に対する強い反抗意識などを貫き、多くの女性読者たちから支持される女流文学の第一人者となった。
▼島田清次郎は、これとはまったく異なる存在で、若干二十歳にして天才作家としてもてはやされたが、傲慢尊大な性格と奇矯な行動で次第に人気を失い、わずか5年で絶頂期から没落。早発性痴呆症で精神病院に入院して、31歳で夭折した。
彼を文壇の流行児にした代表作が『地上』である。貧しい環境に育った天才的少年が、学校や社会に反抗し、世間を征服する野望に燃えて遍歴を続けるという内容で、主人公の英雄化、偶像化が大正期の若い読者たちの心を強くとらえた。
▼これが今回の2人の作家のプロフィールです。まったく異なった性格、まったく異なった作風の2人ですが、中田先生がテーマとする「大正文学の情念」の追求という点では、興味をそそられる作家たちです。


第33回  2007年1月13日(土)

■■■  井月、井泉水、碧梧桐   ■■■

▼2007年最初の文学講座のテーマは、「井月、井泉水、碧梧桐」です。つまり、俳句の革新を主導した3人がテーマです。

俳句はいまでは詠む人が少なくなっていて、みなさんの中でも、「一句ひねってみるか」、という人はほとんどいません。この日本独特の短詩形文学を中田先生はどう語るのでしょうか。

ちなみに、井上井月(せいげつ)は幕末から明治に生きた俳人で、他の2人よりは活躍の時代は古いのですが、前半生は尊敬する芭蕉にならい全国を旅して俳人200人とまじわい、後半生は信州・伊那などを流浪し、ほろ酔い酒をこよなく愛し、最後は明治20年に野たれ死にしたそうです。

のちにその井月と同じ放浪の俳人・種田山頭火は、墓前で井月に捧げる句を詠んでいます。

その山頭火を門人としている荻原井泉水(せいせんすい)は、自由なリズムの俳句を提唱。その井泉水もまきこんんで、新俳句運動の機関誌「層雲」を中心に俳句の革新を進めていったのが河東碧梧桐(かわひがし・へきごどう)でした。

碧梧桐は、高浜虚子などのいわば保守的な「伝統的空想趣味」と対峙して、現実的な実写的な俳句をめざしました。のちに季題すら不要とする碧梧桐と井泉水はたもとをわかちますが、明治期から大正にかけて俳句をもっと自由なものにしようとした彼らの活動は、この時代の文学運動として大きな意義があったといわれています。
彼らの俳句の中からいくつかを紹介しま

彼らの俳句の中からいくつかを紹介します。

井月  秋立てや声に力を入れる蝉
     きき分る酒も花まつたよりかな
井泉水 力一ぱいに泣く児と鳴く鳥との朝
     仏を信ず麦の穂の青きしんじつ
碧梧桐 麦白き道すがらなり観音寺
     曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ


 

第32回 2006年12月9日(土)

■■■  女人芸術・大正の女性のエロス   ■■■


今回のテーマは、なんと「女人芸術と女性のエロス」です。おもに長谷川時雨の周辺に触れます。
長谷川時雨は明治から大正・昭和にかけて活躍した女流劇作家・小説家で、坪内逍遙に見いだされて以後、多くの脚本を書き、それらが次々と菊五郎ら一流の役者によって上演され女流脚本家の地位を築きました。
また『近代美女伝』や『日本美女伝』などの伝記物や、『操』などの史劇を書き、一方で平塚らいてふの青鞜社の社員にもなるなど、この時代以降登場した新しい女性たちへ、終生変わらぬ深い関心を持ち続けた女性です。
また、雑誌『女人芸術』の創始者として林芙美子、円地文子らを世に出しています。
作家としてはいまはほとんど忘れられてしまっている存在ですが、女流文学、あるいは女流文壇を考えるときには、忘れてはならない女性です。その長谷川時雨を、中田先生はどう取り上げるのでしょうか。今回も興味深い話を聞くことが出来ると思います。


 

第31回 2006年11月11日(土)

■■■ 佐藤春夫『田園の憂鬱』と室生犀星の初期詩集について ■■■


現代文学講座も31回目となりました。時代はいよいよ大正期。今回のテーマは佐藤春夫『田園の憂鬱』と、室生犀星の初期詩集です。
 この2人の詩人は、出生も、詩風もまったく異なった詩人ですが、それぞれ新しい時代・大正に衝撃的に登場し、多くの詩人たちが感嘆し、交流を広げていったという点では共通項があるのかもしれません。
 佐藤春夫は、明治43年の大逆事件に連座して死刑となった同郷人・大石誠之助を悼んだ初期の詩があります。当時としてもっとも痛烈な時代批判、体制批判をする反抗精神の強い詩人でした。
 また、谷崎潤一郎とその妻・千代夫人との奇妙な三角関係が破れたあと、千代への慕情をうたった「あはれ 秋風よ・・」の「秋刀魚の歌」も印象的です。
 今回の『田園の憂鬱』は、大正初期に移り住んだ横浜市・緑区周辺を舞台に、いわゆる隠遁文学を近代小説の手法で表現するとともに、自然を初めて感覚化・心理化した作品として、出世作であり代表作といわれています。
 しかし、それを中田先生がどう考察し評価していくのか、実はまだ見当さえつきません。
 室生犀星はやはり初期の詩「ふるさとは遠くにありて・・」に代表されるように、「抒情詩人」としての評価があります。しかし、犀星の初期の詩集は、まったく新しい表現と真摯な抒情詩として、大正初期の若い詩人たちに衝撃を与え、萩原朔太郎は犀星と交わることによって近代詩として高い評価を得た『月に吠える』などの独自な詩境をきづいたと言われています。事実、その後2人は終生の友となります。
 この二人の詩人を生み出した大正という時代はどんな時代の空気≠セったのか。名家に生まれた佐藤春夫と、「女中の子」といわれた室生犀星の、それぞれの“境遇”との闘いは、詩人の魂にどう影響を与えたのか。そんなことをつい考えてしまいがちです。
 中田先生はいったい、どのような佐藤春夫、室生犀星を見せてくれるのでしょうか。今回もとても楽しみです。


第30回 2006年10月14日(土)

■■■   中勘助と初期の芥川龍之介をめぐって  ■■■

今回のテーマは「中勘助と初期の芥川龍之介」です。
中勘助については、前回に夏目漱石の「こころ」や田村俊子とともにテーマの一つでしたが、時間が足りなくて今回もう一度触れるそうです。

また、芥川龍之介の初期の作品を扱うということは、いよいよ現代文学講座が大正期に入ったことを意味します。つまり、講座の30回目にして、ようやく明治をこえるわけです。
前回の講座で、中田先生は言いました。「明治に育った人たちの、ある時代に共通した追憶。その時代に対する全幅の信頼が去ったあと、胸の中に刻みつけられて動かなかったノスタルジー、それを『こころ』の“先生”に見いだす」と。
そして、「『こころ』は明治時代の終わり、田村俊子は大正のはじめ、その時代のあわいをはっきり意識させる作家」と。
時代と作家あるいは作品の特質をどうとらえるか。中田先生の一言ひとことに、私たちは触発され続けています。
大正に入り、芥川という稀代の書き手を、先生はどのようにとらえるのか、今回も楽しみな講座になるでしょう。


 

第29回  2006年9月9日(土)

■■■   夏目漱石『こころ』をめぐって  ■■■

 今回のテーマは夏目漱石の『こころ』です。『坊ちゃん』とともに漱石の作品の中ではもっともよく読まれているこの小説を、中田先生は「難しい」と言います。だから、田村俊子の『木乃伊の口紅』と、中勘助の『銀の匙』も取り上げたいそうです。

 かつて友を裏切ってその妻を奪った罪の意識から逃れられない“先生”について描いた漱石の『こころ』が難しくて、一緒に取り上げるのが、田村俊子と中勘助というのは、どういうことでしょうか。

 樋口一葉についで優れた「女流小説家」田村俊子は、本能のままに生き、自我に目覚めた女性を描いた作品が多く、自身も鋭い感覚と放埒な生き方をした作家です。妻ある男との恋愛もあれば、本の印税を一瞬にして競馬ですってしまったり、婦人解放運動にも積極的にかかわるなど、作家としての資質だけでなく、生き方もまた人を魅きつける女性です。
中勘助は、それと比べればまったく異質です。脱俗孤高の生き方を貫き、常に文壇の外に身を置いて独自の文学を築いた作家です。漱石の激賞を受けて東京朝日新聞に連載した『銀の匙』は、27歳の男が生きる苦悩を知り始めた少年時代の深い切ない想いについて綴った小説で、今も高い評価を受けています。

 この3つの作品と作家の生き方の中に、中田先生のいう“難しい”『こころ』についての秘密があるような気がしますが、余計なことを書くとまたまったく別の話になってしまいますので、やめます。ともかく想像を超える文学の世界をまた見られそうということだけは確かです。
 夏休みをはさんで久しぶりの文学講座です。多くの方の参加を期待しています。

 


 

第28回  2006年7月8日(土)

■■■   明治の終焉と明治の女たち  ■■■


今回のテーマは「明治の終焉と明治の女たち」です。

 「現代文学を語る」の講座で、私たちは28回かけて明治の文学とその時代を、中田先生を羅針盤としながら“踏査”してきました。その最終章が女性たちというのは、まことに中田先生らしく意外性に富んだテーマだと思います。

 しかも、明治の女性たちといっても、誰でもすぐ思いつく新しい時代の「青鞜の女たち」が中心ではなく、たとえば芸者、女中、下女、人妻、女学生など、ほとんどテーマとしては取り上げられなかった女性たちが、文学の中でどんな風に登場していたのか、それが中心的なテーマになります。つまりそれは、圧倒的に女性の多い講座の受講生にとっては、「明治の時代の私たち」ということにもなるのでしょうか。


第27回  2006年6月10日(土 )

■■■■■   木下杢太郎と坪内逍遥をめぐって   ■■■■■

今回は木下杢太郎と坪内逍遙がテーマです。
 共通点は戯曲家であることですが、たぶんこの新旧の劇作家を比較することから、明治末から大正にかけての時代の精神や作家の内面が浮かび上がってくることになるのかな、と想像しています。でも、それはあてにはなりません。またその時になって、流れがどこかに変わっていくのは、いつものことですから。
 逍遙については中田先生の講座で何度も出てきましたが、木下杢太郎は初登場です。杢太郎は才能豊かな作家です。劇作家であり、小説家、美術家、キリシタン研究家、医学者というさまざまな面で業績をあげています。
 医科大学時代に吉井勇や北原白秋らと平戸・長崎・島原などのキリシタン遺跡を探訪し、その時彼らが感じた異国情緒と美意識が、明治末年の耽美主義的な詩を誕生させ「パンの会」を生み出したことは有名です。
 やがてそこから離れ、「スバル」に戯曲『和泉屋染物店』を発表、これが初期の代表作になっています。
 この作品では、家を出て社会主義者になり、ある重大事件で警察に追われている息子が、人目を避けて姿を現す。古いしきたりと道徳観に生きる家族と新しい思想に目覚めた息子の相克は、明治末年の人びとの心をとらえたといいます。背後には、大逆事件があります。当時としては斬新なテーマだったと思います。
 大正5年から約9年間にわたり中国に大陸に滞在して古典や仏教美術を研究、さらにその後パリに3年間滞在し、ヨーロッパの日本キリシタン記録を調査。若桑みどりさんが一昨年大佛次郎賞をとった『クワトロ・ラガッティ』と同じテーマの、天正少年使節団を研究しています。
 「生涯、浪漫主義だった」といわれているこの作家が、実際はどのような内面をもっていたのか、明治末期から大正という時代に、どのような存在だったのか。逍遙との比較は。
 というようなことになるかどうかはわかりませんが、私たちの知らない、想像できなかった世界が開かれることは間違いないでしょう。
 なお、岩波文庫から復刊された『南蛮寺門前 和泉屋染物店』が入手できます。

 


第26回  2006年5月13日(土)

■■■■■     志賀直哉をめぐって      ■■■■■

今回は志賀直哉がテーマです。

 「小説の神様」と言われ、その一方で「社会性をもたない作家」ともいわれた志賀直哉を、中田先生はどのように評価するのでしょうか。
 作家・志賀直哉には生涯を4つにわけることができるというのが文壇的通説ですが、今回はそのうちの第1期「戦う人の時期」、既成の一切の価値観からの解放、キリスト教からの離脱、父親の権威に反抗した自我中心という時代に書き上げられた自伝的作品『大津順吉』を主に取り上げます。

 『大津順吉』は、女中と結婚しようとして父親と激しく対立した事件、その愛の破局を描いた作品で、それはその後志賀直哉の精神的変遷による第2期「和解する人」の時期に、長年の父との和解を描いた作品『和解』につながっていきます。

 さらに、評論家・中村光夫が「志賀の文学的青春の内面に鋭く迫った」と評価されている『志賀直哉論』も素材にして、中田先生がまったく別の視点から批判を展開する、ということになっています。

 けれど、いつものように予定調和の展開はない中田先生のことですから、どのような内容になっていくかは、まったくわかりません。文学や作家や作品やその時代背景を切りひらくうちに、まったく新しい視点が生まれてくる瞬間があります。志賀直哉に興味がある人もない人も、その瞬間を味わうために、ぜひご参加ください。


 

第25回 2006年4月8日(土) 

■■■■■     『坊ちゃん』をめぐって      ■■■■■

今回のテーマは『坊ちゃん』です。

 夏目漱石のあまりにも有名な小説で、明治期に書かれた小説では、いまもなお最も多く読まれている青春小説です。

 明治39年、雑誌「ホトトギス」に掲載されたこの小説は、たとえば「平凡な日本人の善悪両面を描いた」という評価が通説として長く続いていました。もっとも多くの読者を獲得しながら、文学的にはきわめて低い評価しか与えられないということは、文学の世界ではよくあることです。これまで中田先生の講座の中にも登場した過去の“流行作家”もそうですし、現在の直木賞の選考などにおいてもよくある皮肉な現象です。

 しかし、平凡な青春小説という『坊ちゃん』の評価に異をとなえたのは、関川夏央原作のマンガだったというのも、いかにも現代的事件という気がします。

 ともあれ私たちは、ちょうど100年前に生まれたこの『坊っちゃん』に再度向き合うことになります。どのように『坊っちゃん』と漱石とその時代を再現するのか、私たちには予想もできない洞察を示される中田先生の今回の講義はいつにもまして楽しみです。

 


 

第24回 2006年3月11日(土)

■■■■■     島村抱月をめぐって      ■■■■■

今回取り上げるのは島村抱月です。

 抱月について、今も語り伝えられるのは、いわゆる「スペイン風邪」で急逝した抱月のあとを追って、ともに芸術座を支えた女優・松井須磨子があとを追って自殺したという衝撃的なできごとです。しかし、抱月の文学的業績はそんなものより遙かに豊かです。自然主義文学最盛期に遭遇した鋭敏な文芸批評家の悲劇という側面も含めて。

 私たちには想像できませんが、時代の潮流が音を立てて流れている中で、そこから自立して「批評の近代化」をめざすという行為は、たぶん文学的な自殺に近いものがあったのでしょう。それほど自然主義文学の影響は、当時大きかったのです。中田先生が、自然主義文学にきわめて批判的姿勢でいることと併せて考えても、そう感じます。

 英国やドイツで学んだ抱月は、のちに明治末期から大正初期の演劇熱の中、文芸協会の演劇研究所の指導にあたり、そこで第1期生・松井須磨子と出会います。それは演劇史上に名高いイプセンの「人形の家」を生みます。

 やがて母校・早稲田を辞め、恩師・坪内逍遙を裏切り、妻を捨てて須磨子らと芸術座を結成。イプセン、トルストイ、ツルゲーネフ、メーテルリンク、オスカー・ワイルド、シェイクスピアなどの脚本を上演して全国を歩き、上演種目33、朝鮮・満州を含め上演場所195、上演日数は880日にのぼり、わが国演劇史上に大きな足跡を残しました。かの「カチューシャ可愛いや別れのつらさ・・」の歌で有名な「復活」上演の話題は、今も語り継がれています。

 これは著名な文学者・抱月のアウトラインに過ぎません。さてそれを、中田先生はどう切りひらき、どのように評価するのか、今回の講座も期待がいっぱいです。


 

第23回 2006年2月18日(土)

■■■■■      押川春浪をめぐって      ■■■■■

 今回のテーマは「冒険小説家・押川春浪(おしかわ・しゅんろう)」です。

 明治期、とくに日露戦争の気運の中、南海の無人島を舞台にした冒険小説を書き、当時の少年たちを熱狂させた作家です。といって、軍国主義的な傾向は少なく、ヨーロッパ資本主義に侵略されたアジアの後進国の決起をうながすような作品が多く、当時の青少年の意識の中に、弱小国の連帯が必要という国際感覚を植えつけたという点において、評価される作家だったといえます。

 作家活動のほかにも、野球やテニスのスポーツを支援。野球の興隆に対してその弊害をあおりたてて野球撲滅論を連載した朝日新聞に反撃。世論がそれを支持して朝日新聞の部数が激減したため、朝日は全国中等野球大会を結成してその失敗を隠蔽、それが今日の甲子園高校野球の隆盛につながったという、皮肉な事件も生み出してもいます。

 ほかにも、私娼窟の摘発などにも活躍して、早稲田の学生たちとともに、早稲田鶴巻町一帯の粛正を実現しました。
このように、今はほとんど誰も読まなくなった作家ではありますが、存在としてきわめてユニークで、中田先生がどのように押川春浪を再生させるのか、楽しみです。

 


 

第22回 2006年1月14日(土)

■■■■■   短歌の青春  ■■■■■ 

一人は窪田空穂(くぼた・うつぼ)。

 長野県出身で篤農家の父の影響を受け、個人性を認めない農村の伝統に反発。脱出をこころみるが挫折。文学への憧れと現実生活の背反に苦渋し、失意のコースをたどったことが、文学への出発となった。

 昭和42年に90歳で死ぬまで、数多くの歌集を発行。内省的で心情の機微に触れた歌、妻の死を悲しむ挽歌集、人生を肯定し心境の成熟を見せた歌、戦争に突入する時代への批評的な歌、戦病死した弟を歌った痛切な長歌など、最後まで旺盛な創作意欲をみせた歌人である。早大教授でもあった。短歌にあまり縁がない人でも、名前は知っている高名な歌人である。
「しろじろと咲き照るさくら涯てしなく音の絶えたる幻の園」

 もうひとりは、岡麓(おか・ふもと)。私たちはほとんど知らないが、東京出身で、空穂と同じ明治10年生まれ。正岡子規のもと根岸短歌会で「馬酔木」を創刊、編集同人となる。
一時短歌を作らない時期もあったが、後年、斉藤茂吉らの「アララギ」に寄稿、さらに同人幹部として「アララギ」の興隆に尽くした。
著作・作品多く、歌は都会人の心性や批判性をもつとともに、悟りの味わいのある歌も多かった。
「春の夜の月の光のもどかしきわが身ながらも時にまかせむ」

歌に興味のない方も、先生がなぜ「短歌の青春」をテーマにしたのか、なぜこのような歌人を取り上げたのか、どのように展開していくのか、楽しみにして来て下さい。


第21回 2005年12月10日(土) 

■■■■■   一握の砂  ■■■■■ 

今回のテーマは石川啄木の歌集『一握の砂』です。

 この歌集は、その80%以上の作品が、明治43年の大逆事件の前後に詠まれ
たもので、時代閉塞の状況に対する批判と、生活の中で摩滅していく自己への哀
惜がモチーフとなっているところに特色があるといわれています。その後、大正
時代へと続く歌人たちに大きな影響を与えた歌集として有名です。
 今回、先生がこの歌集と啄木をどのように読み、どう位置づけるのか楽しみで
す。比較的みなさんが知っている歌ばかりですから、最近文学講座に来ていな
かった人でも、楽しんで聞くことができると思います。
 多くの皆さんの参加をお待ちしています。


 

第20回  2005年10月8日(土)

■■■■■   正宗白鳥をめぐって  ■■■■■ 


今回のテーマは正宗白鳥です。

正宗白鳥といっても、今はほとんどの人はどんな人か知りません。
しかし、自然主義文学の小説家としての白鳥については、あまり高い評価はありませんが、批評家としての白鳥についての評価はまったく別です。おそらく、読売新聞時代からの辛辣な劇評、関東大震災以後の作家論、随筆などに白鳥の神髄があるのでしょう。小林秀雄は、その最晩年のテーマを正宗白鳥にしたほどです。残念ながら未完に終わったのですが、強い興味をそそる話です。

私たちにとっては未知の世界を、またも中田先生に開いていただく文学講座の面白さを、ぜひ味わいに来てください。


 

第19回  2005年9月17日(土) 

━━━━━━━ 「虞美人草」とその周辺 ━━━━━━━  

今回のテーマは夏目漱石の「虞美人草」とその周辺について。

 明治40年、漱石は東京大学文学部教授の職を断り、朝日新聞社に入社した。
当時の新聞記者の評価は今日とは大きく異なり、世間では「水商売同様」にいやしまれていたから、大学教授という権威を振り捨てて新聞社に入るというのは、きわめて異例の決断であった。

 しかし漱石はこの決断にむしろ爽快感を抱いていたともいわれている。漱石の市民的感覚を彷彿とさせる逸話である。
 入社後、第1回の連載小説が『虞美人草』である。明治40年6月から4ヶ月にわたって連載されたこの小説は、当初から大人気で、「虞美人草指輪」とか「虞美人草浴衣」などの便乗商法が横行したという。いつの時代も人が考えることは同じようなものなのですね。

 しかし、作品の評価は今も芳しいものではない。意気込みは文章上の固さを生み、「古風な美文意識と勧善懲悪的な物語意識に終始している」といったものがその代表的な評価である。

 さて、中田先生がその『虞美人草』をわざわざ取り上げるというからには、それらの評価について、あえて違ったとらえ方を大胆に提示するのか、あるいは、全く別の視点が登場するのか。私たちの「常識」を今回もまた覆すのか、楽しみであります。

 


第18回 2005年7月9日(土)

━━━━━━━ 「日露戦争と文学者たち」 ━━━━━━━  

 今回は「日露戦争と文学者たち」がテーマです。

 明治以後、大陸に拡張政策を続ける日本は、南下するロシアと、韓国・満州地域における権益をめぐって対立。明治37年(1904年)2月、ついに日露戦争が始まった。

 この戦争は、大陸侵略をねらう明治政府にとっては不可避の戦争であり、近代日本の命運を決する最初の戦争でもあった。
 国内にも主戦論が広がったが、内村鑑三、幸徳秋水らは激しく非戦論を展開。また、与謝野晶子が戦場の弟に「君死にたまふことなかれ」と歌って非難されたりした。

 昭和20年(1945年)の壊滅的敗戦にむけてまっしぐらに軍国主義国家へと暴走していく日本の、出発点ともなる日露戦争とその勝利。しかしその実態は、ほとんど疲弊消耗して戦争を継続することがむつかしくなったことから講和を働きかけざるを得なかった、いわば辛勝でしかなかった。

 その戦争に、日清戦争の約7倍近く多い8万7984人という膨大な戦死者を出し、当時の金額にして17億3000万円の戦費を消費した結果、日本は何を得て何を失ったのだろうか。

 またそれは国民に何をもたらしたのか。文学者たちにはどんな影響を与えたのか。このような背景をおさえつつ、中田先生がどのようにこのテーマに切り込むのか、楽しみです。

 毎回興味深く、ほかでは聞けない文学論です。より多くの方の参加をお待ちしています。ぜひ参加してください。


第17回 2005年6月18日(土)

━━━━━━━━━ 谷崎潤一郎をめぐって━━━━━━━━
 
 今回は、前回触れられなかった谷崎潤一郎について展開します。

 『刺青』から『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』『瘋癲老人日記』まで、魔性の女への拝跪、マゾヒズム的な恋愛歓喜、もう2度と生まれない日本の美しい伝統と文化への郷愁、死後の悦楽願望。谷崎の世界はひと言で言い表すことができない特異・希有な文学世界です。

 何度も発禁処分を受け、軍部の圧力で発刊停止になり、それでも書き続ける執念。いったい谷崎を支えたものは何だったのか。中田先生は谷崎の何に魅かれ、何を評価するのか。あるいは評価しないのか。非常に興味のあるところです。

 今回はもしできれば、志賀直哉にも触れたいそうです。「文学の神様」志賀直哉の作家としての活動は、昭和3年を境にした前半生と後半生にわけられると言われています。充実した前半生の作品群、そして「実生活をしゃぶり尽くした人間の静謐と手近に表現の材料を失った小説家の苦痛が横ってゐる」(小林秀雄)後半生。「志賀直哉のことを考えると何も書けない」と三島由紀夫に言わせた、無駄を一切はぶいた純粋な結晶体のような文章。私生活上からも社会を一切はぶこうとした作家を、どうとらえるのか。

 今回も興味深い作家たちで、否応もなく日本人である私たちの存在を考えさせられる内容になるのではないかと思っています。



第16回 2005年5月14日(土)

━━━━━ 大逆事件と北原白秋・谷崎潤一郎をめぐって━━━━   

 今回のテーマは大逆事件と北原白秋、谷崎潤一郎です。

時期は明治43年。この年6月から、幸徳秋水をはじめ、菅野スガら全国各地で社会主義者・無政府主義者がいっせいに逮捕され、その数は数百人に及んだ。幸徳秋水らは明治天皇爆殺を企てたとして大逆事件で起訴され、翌年1月、短期間の非公開暗黒裁判で24人が死刑判決、2人が有期刑の判決を受けた。死刑のうち2人は翌日無期に減刑されたが、1月24日には幸徳ら11人が、翌12日には菅野スガが処刑された。事件へほとんどでっち上げで、社会主義思想そのものを弾圧することが目的だった。大逆事件は当時の文学者にも大きな影響を与え、徳富蘆花は一高で事件を批判、幸徳らを殉教者とよび、森鴎外や永井荷風は作品で風刺した。

 しかし、大逆事件以後の時代は、石川啄木が「時代閉塞の現状」と名づけたように、文学者にとっては圧迫となってのしかかっていった。
北原白秋は、明治42年に異国情緒あふれた新鮮な官能詩の多い詩集『邪宗門』を出版。また、当時文壇を支配していた自然主義文学に対抗する耽美派文学者の集まり「パンの会」を起こしていた。

 のちに「パンの会」に入る谷崎潤一郎は、明治43年11月、処女作といわれる「刺青」を発表。魔性の女を賛美する谷崎の生涯のモチーフとなる作品で、永井荷風から賞賛された。

 さて、そうした時代、事件の背景の中から、白秋、谷崎がどう浮かび上がってくるのか。それは中田先生のその日の予期せぬ展開が読めないのでわかりません。けれど、これだけの予備知識があれば、先生の自在奔放なお話を、楽しみつつ聞けるのではないでしょうか。


第15回  2005年4月9日(土)

━━━━━石川啄木・北原白秋:ヨネ・ノグチをめぐって━━━━   

 今回のテーマは石川啄木、北原白秋、ヨネ・ノグチです。

 時期は明治42年。この年、啄木は朝日新聞社の校正係に就職。本郷弓町の喜之床の2階(愛知県・明治村に保存)に住み、のちに「一握の砂」に結晶する短歌をうたい続けていた。 白秋は、鴎外を顧問とする「スバル」を創刊し、処女詩集「邪宗門」で詩人としての新しい風を生み出しつつあった。 ヨネ・ノグチ(本名・野口米次郎)。この忘れられた詩人は、若くして渡米。米英で詩人として評価され帰国。慶応大学の教授となり、日英米3国の詩人たちの交流をはかっていた。

 新しい感覚で時代をつかもうとする彼ら詩人たちの眼は、大逆事件前夜の明治42年という時代を、どのようにとらえていたのか。
 非常に興味深いテーマを、中田先生はどのようにとらえ、自在奔放に展開していくのでしょうか。

 


 

第14回  2005年3月12日(土)

━━━━━━━━━━ 永井荷風をめぐって ━━━━━━━━━   

 今回のテーマは永井荷風です。戦前戦後の時代の流れの中で、孤高の精神を保ち続けた稀有な作家の作品『あめりか物語』と、大逆事件を題材にした『花火』を取り上げる予定です。できれば、事前に読んでおいて下さい。

 


 

第13回 2005年2月19日(土)

━━━━━━━ 正岡子規をめぐって ━━━━━━━   

今回のテーマは《明治の短歌、俳句の革新者》正岡子規です。

夏目漱石の親友であり、ベースボールを「野球」と訳した人であり、後半生を脊髄カリエスのため病床で過ごしたことなど、エピソードの多い文学者です。先生のお話では、俳句を中心とした内容になるとのことですが、果たして予告通りになるかどうかは、今回もわかりません。
つまり、それだけ何が出てくるか楽しみな講座だということです。

 


 

 

第12回  2005年1月15日(土)

━━━━━━━ 自然主義文学をめぐって ━━━━━━━   

新年あけましておめでとうございます。
中田先生の文学講座も第2期に入りました。

今回からいよいよ日本の文学史上に大きな意味をもった「自然主義」がテーマです。
自然主義文学は何を生み、何を変えたのか。どんな問題をかかえていたのか。今回も中田先生は独特の視点からそれを展開することでしょう。楽しみです。

 


 

第11回 2004年12月18日(土)

 今回のテーマは幸田露伴です。

露伴は尾崎紅葉と並び、当時の文壇の中心的存在でした。「露伴は明治の精神を美的に昇華した」という評価もありますが、中田先生は果たしてそのように評価しているでしょうか。興味のあるところです。

 


 

第10回  2004年11月20日(土)

━━━━━━ 尾崎紅葉・幸田露伴をめぐって ━━━━━   

今回は漱石から少し前に戻って、明治の文豪で、当時は現在からは想像できないほどの大きな影響力をもっていた尾崎紅葉・幸田露伴をめぐってがテーマとなります。

文学の影響力は、その時代や、その時代の若い世代にとってどんな意味があったのでしょうか。いまよりもっと大きかったに違いないそうした点について、中田先生の縦横なお話の中からつかみ取ることができれば、と考えています。

 


 

第9回  2004年10月2日(土)

━━━━━━━ 漱石をめぐって ━━━━━━━   

今回も、前回に引き続き“漱石をめぐって”がテーマです。

漱石の女性観なども話題になると思います。多くの皆さんのご参加を期待しています。

 


 

第8回 2004年9月11日(土) 

 ━━━━━━━ 漱石をめぐって ━━━━━━━   

1ヶ月の夏休みも終わり、いよいよ秋の文学講座が始まります。

今回からしばらくは“漱石をめぐって”となります。
漱石そのものも大きなテーマですが、漱石以前と以後も興味深い流れです。
今回もまた、多くの皆さんのご参加を期待しています。

 


 

第7回  2004年7月10日(土)

■―■―■―■    森鴎外と反戦      ■―■―■―■  

今回のテーマは「森鴎外と反戦」です。

日清・日露戦争が明治の文化人に与えた影響は、想像以上でした。森鴎外はそのとき、何を感じ、どう考えたのでしょうか。
そして、他の文学者もまた――。

 


 

第6回 2004年6月12日(土)

■■■          内村鑑三と高山樗牛          ■■■ 
      文学者はいかに若い世代へ影響を与えたか        
 
「中田耕治現代文学を語る」の講座も、第6回目。今回とりあげるのは「内村鑑三と高山樗牛」です。

 内村鑑三は、明治24年、天皇の署名した教育勅語に敬礼しなかった、いわゆる「不敬事件」で、当時の政府やジャーナリズムや世論から一斉にバッシングされたにもかかわらず、毅然として自らのキリスト教思想をつらぬき、作家としてもそれを表現しています。志賀直哉をはじめ、文学や政治を志す当時の若者で、内村鑑三の影響を受けなかった人はいないほどです。

 典型的な国家主義者の高山樗牛は、その内村を激しく非難し、「国法の保護を与える必要はない」とまで言い切りました。
 このあたりは、かの「イラク人質事件」のときの政府・マスメディアと、世論の動向を連想させます。
 つまり今回は、明治中期から後期にかけて、近代の文学がいかに当時の世論に、あるいは若い世代に影響を与えたか、それがテーマ(のはず)
です。

 しかし、当然のことながら、いつものように、どこにどう脱線・変化するともしれません。私たちの知らない世界へ踏み込みつつ、明治から現代までにつらなる日本の文学史を厳しく新しい視座から見すえ、そこから新たな可能性を見いだそうというこの中田先生の講座の視点は変わりません。

 


 

第5回 2004年5月8日(土) 

■■■■■   薄氷女史と泉鏡花    ■■■■■

 わたしたちは、ようやく樋口一葉までたどりつきました。明治の時代のなかで今日もなお評価の高い数少ない文学者。わたしたちは一葉
のことをそう受けとめてきました。

 しかし、中田耕治先生の文学のとらえ方は、決してそうではありません。忘れ去られてしまった作家、知られざる作家のなかに今もなおいき
いきとしたものがある。その再発見のなかに文学の再発見がある。わたしたちはそう感じつつ、中田耕治先生の次の展開を期待しています。

 第5回のテーマは「一葉よりすばらしい作家だった」と一部で言われる薄氷女史、そして、あの泉鏡花です。

 

 


 

第4回 2004年4月10日(土)

■■■■■   一葉と硯友社の人びと   ■■■■■

 「中田耕治現代文学を語る」の講座は第4回目を迎えます。
近代から現代にかけての日本文学を、まったく独自の視点からとらえる講座も、いよいよ今回から樋口一葉がテーマとなります。

 樋口一葉とその時代、さらに彼女が全盛期を迎える前に、尾崎紅葉らによってつくられ一世を風靡した文学グループ・硯友社とそれをめぐる人びとなど、明治中期の文学について語っていただく予定です。

 もちろんこれまでのように、まったく「予習」が通じない展開の面白さを味わっていただくことになるでしょう。

 それでも、明治から現代までにつらなる日本の文学史を厳しく新しい視座から見すえ、実はそこから新たな可能性を見いだそうという視点は変わりません。

 


 

第3回 2004年3月13日(土)

  ■■■■■   逍遥から一葉へ   ■■■■■

「中田耕治現代文学を語る」の講座も、第3回目。いよいよ佳境
に入ります。

今回のテーマは「逍遥から一葉へ」。

安政6年に生まれて昭和10年まで生きた“近代文学の祖”・坪内逍遥から、文学者としては明治28年から29年までのわずか2年足らずの間にその才能をすべて投じた樋口一葉までがテーマです。

しかし、当然のことながら、いわゆる一般的な文学史になるわけではありません。どこにどう脱線・変化するともしれません。
それでも、明治から現代までにつらなる日本の文学史を厳しく新しい視座から見すえ、実はそこから新たな可能性を見いだそうという視点は変わりません。

 


 

第2回 2004年2月14日(土)

■■■       「浮城物語」をめぐって         ■■■
■■■     ― 矢野龍渓から樋口一葉まで ―   ■■■

 ついに、中田耕治先生の現代文学講座が始まりました。
1月10日の第1回講座に参加した方は、おそらく、近代文学のおもしろさ、これから何が起きるのか、どんな展開になっていく
のか、わくわくしたのではないかと思います。

 参加できなかった方も、ぜひ第2回以降の講座に参加して下さい。文学のまったく新しい世界が広がるのを感じるはずです。
 第1回は、近代文学が生まれる時代と背景を、斬新な切り口で明らかにしました。第2回は、いよいよ具体的な作家論に入り
ます。

 さて、最初に取り上げるのは誰でしょう。
あまり、いや、ほとんど知られていませんが、日本の侵略戦争の準備を予言した作家、矢野龍渓の「浮城物語」を取り上げるそう
です。遊女や色街の物語の中から日本の近代がどう変化していくのか予見した作家です。そして、最後に樋口一葉にたどりつく
予定です。

「わたしは樋口一葉をとても尊敬している。と同時に、樋口一葉がいたせいで、日本の女性文学はうまく発展しなかった、という
パラドクスについて考えたい」

 なんという大胆な切り口でしょう。

 


 

第1回 2004年1月10日(土)

----中田耕治氏の「毒談と変見」を聞きながら現代文学を考察していく月に1度の連続講座
   第1回目のスタートです--- 

 本を読まない学生、マンガとゲームばかりのこどもたち。いまさら嘆こうとは思いませんが、古本屋の店頭にかつて私たちの心をふるわせた名作が100円で並べられている姿を見ると、心が痛みます。

 あの作品たちは、私たちにとってかけがえのない書物でした。つまり日本人の文化の遺産です。このまま朽ち果てて、誰も知らない作家になってしまっていいものでしょうか。

 それが動機でした。かつて一世を風靡したり、ベストセラーに名を連ね、いまはまったく忘れ去られた文学者たち作家たち。その時代だけでなく、いまも人の心に迫る作品、いまも現代をえぐる力をもった作品を、もう一度舞台にあげて、照明をあて、再発見したい。

 そのための連続講座を開講します。講師は、戦後、弱冠10代でデビューし、小説読みの名手といわれた中田耕治氏です。氏はこれ
までに『ルクレツィア・ボルジア』『メディチ家の人びと』『ブランヴィリエ侯爵夫人』や『ルイ・ジュヴェとその時代』などの名著を世におくり、さらに近く『五木寛之論』も出版されます。

 また、これまで明治大学、女子美術大学で氏に教えられた人たちの中から、数多くの作家、翻訳家が生まれています。

 戦後文学の最前線で活躍されてきた中田耕治氏ならではの「毒談と変見」を聞きながら現代文学を考察していく、月に1度の連続講座に、あなたもぜひご参加ください。


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中田耕治先生連続講座「現代文学を語る」実行委員会
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