牛鍋ものがたり
日本人の発明した三大料理は、牛鍋、スキヤキ、カレーライス。お疑いのむきもあろうけれど、私は勝手にそう信じている。
幕末の動乱がつづいていた江戸で、はじめて牛肉店をはじめたのは、芝高輪の中村屋嘉兵衛。高輪イギリス館の波止場側に店を開いた。英国大使館に牛肉をおさめたという。
当時、日本人は牛肉、ブタ肉などはたべなかった。
大政奉還で明治のみよ御世になる。明治元年、この中村屋嘉兵衛から権利を譲りうけた堀越藤吉という人物が、東京と改名したばかりの江戸市中で、はじめて牛鍋店を開いた。翌年(明治2年)には、芝露月町に中川屋、神楽坂に鳥金、蠣殻町に中初、小伝馬町に伊勢重といった牛鍋屋がぞくぞくとあらわれている。
服部撫松の「東京新繁盛記」(明治7〜14年)によると、牛鍋屋は「すでにウナギ屋を圧倒し、イノシシを飲み込み、どの街にも牛肉店の看板のないところはない」といったありさま。
こうした店には等級があって――屋根に店のロゴマークやデザインをつけて「牛鍋」と大書した旗をあげているのが上等な店。店の角に、おなじように「牛鍋」と書いたあんどん行灯やちょうちん提灯を出しているのが中等の店。障子戸に看板のデザイン、大きく牛鍋と書いてあるのが下等の店。牛という字は朱で書いてある。つまり、新鮮なお肉という意味。
鍋は二種類。長ネギをサクサクに切って肉といっしょに煮るのがなみなべ並鍋。三銭五厘。鍋に脂をひいて煮るものは焼き鍋といって五厘。
露店でも大鍋に牛肉のゴッタ煮を売っているが、これは煮込みといって、貧乏書生向けだった。「不精親父がみずッ洟をすすりながら九つ喰っている」と、服部さんは書いている。明治4年。まだ江戸時代のおたから貨幣が通用していた。煮込み一串で三厘という。文久銭が一厘半だったから、二枚で串が一本ということになる。
ついでにいうと、ブタ肉を食べるようになったのはこれより先で、江戸は上野の広小路に店ができた。ブタ鍋が天保銭一枚。つまりは百文。けっこういい値段だった。
さて、江戸から明治と時代は移る。ザン切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする、という時代に、戯作者、仮名垣魯文は流行の牛鍋屋を舞台にした滑稽小説「牛店雑談安愚楽鍋」を書く。「牛はこうみ高味でごすネ。此肉がひらけちゃァ、ぼたんや紅葉は、くへやせん」という。牡丹はイノシシ、もみじは鹿肉。ついでに、サクラは馬の肉。カンのいい人なら、こうした隠語が何にもとづいているかピンとくるはず。
牛肉はまさに文明開化の味だった。「あかさたな」のモデルになった牛鍋店は、ガラス障子に、赤、青、黄などの色ガラスが市松模様に嵌め込まれていた。
牛鍋は鉄鍋にチョイとタレを入れて、肉を一枚ずつジュッと焼く。いってみれば、ステーキのレアかミディアムの焼きかた。おネギを入れるのは箸休め。
明治30年頃の東京には、西洋料理の店、つまりレストランは40程度。それも、半数の20軒は、お江戸は日本橋、京橋、神田にあった。当時の東京のメイン・ストリートに西洋レストランが集中していたわけである。
その頃、一大アミューズメント・センターだった浅草には、日本料理の店が集まっていた。なにしろ、東京全市の15パーセントの日本料理の店が集まっていた。そして、牛鍋屋は、これまた東京全市の11パーセントの牛鍋屋が、浅草にあった。牛鍋屋はハイカラさんの行く場所だった。料理文化の研究家、小菅佳子さんは――当時の西洋料理が一般大衆とは無縁のものだったことを示している、という。
夏目漱石は、この時代を「の則るべき過去は何もない。明治の四十年は先例のない四十年である」といった。大森鉄平も、この四十年は先例のない四十年であると思っていたに違いない。
小幡欣治の「あかさたな」は、浅草に本店のある牛肉のチェーン店を経営する大森鉄平を中心に展開する愛人たちの喜劇で、初演は昭和42年2月の芸術座。
鉄平は、正妻きよのセリフにあるように――うちの旦那は世間の殿方と違って相当な変わり者だけれど、ただ、芸者衆と遊んだり、人にかくれてこそこそ浮気をしたりという、そういう女道楽のない人だから私は辛抱ができたんですよ」という。なにしろ、一番の支店の女将があさという名前で、番号順に、あかさたな、はまやらわ、いきしちに、とそれぞれアイウエオ順に愛人がいて、牛鍋屋のチェーン店のほか火葬場から桂庵までやらせるという破天荒な人物。初演でも、劇場は笑いが渦巻いていた。
芝居の時代背景は、明治37年から大正10年にかけて。つまりは日露戦争から大正デモクラシーの時代。
日本もまさに世界史的な激動の時代に入っている。第一次大戦が終わり、国際連盟が発足したが、ヨーロッパの人々は文明が没落するという予感におののいている。日本では関東大震災の直前の時期である。
「あかさたな」第四幕は、大正10年という設定になっている。
文学の世界でいえば、谷崎潤一郎、芥川龍之介の時代である。作品としては、室生犀星の「抒情小曲集」(大正7年)、広津和郎の「神経病時代」(大正6年)、宇野浩二の「苦の世界」(大正8年)、有島武郎の「惜しみなく愛は奪う」(大正9年)などがすぐに思い浮かぶ。
この頃、ふつうの家庭でも和洋折衷のお料理がひろがっている。
朝は、たいていお味噌汁に焼き海苔、お漬けもの、ときには焼き魚。お味噌汁も、ふつうは「おみおつけ」といったもので、キャベツ、じゃがいも、ワカメ。大根の千切り。
昼、夜はご馳走で、フライ、バタ焼き、ハンバーグ、カレーライス、オムレツなど。大正庶民の食事には、江戸時代からの味にくわえて西洋料理がまざってきたが、その比率は7:3の割合だったという。
この時代になると、フライパンの普及もあって、お料理も、煮たり、いためたり、揚げたり、といろいろ変化してくる。ブタ肉とジャガイモの煮もの、お肉をベースにした炒めご飯、サンマのバタ焼きといったものが、どこのご家庭でも食べられるようになった。
そこで、いちばんポピュラーになったのが牛鍋と、スキヤキ。牛肉が食卓を賑わすことになる。
大正10年当時、牛肉のスキヤキは、タマネギを輪切りにして、バタ、あるいはヘットで炒め、火が通ったら取り出して、その鍋に牛肉を一枚ずつ並べて、さっと焼く。それにタマネギと盛りあわせて、ソースか醤油であつあつのお肉を食べる。現在の私たちが食べているスキヤキとは、ずいぶん違った調理法だった。
関東大震災のあと、現在のようなスキヤキがひろまってきたのではないかと思うのだが、ただし、これまた私の当てズッポウ。
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