ルイ・ジュウヴェに関するノオト
俳優としてのルイ・ジュウヴェは我々の持つ最大の俳優の一人である。
——ジュウル・ロマン
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「コメディアンの省察」といふ演劇論集は、私をある夢想に誘ひ込む。もしジュウヴェの事情と環境とが異ってゐて、しかもその機会がより大きかったならば、彼は俳優としてと同様に文学者として偉大であったらう。さうしたことが充分起り得たに違ひないといふ夢想は、私には奇矯ではなくむしろ自然と感じられる。私がジュウヴェを、偶然が彼を置いた時代より外の時代に於て想像するとしたら、例へばドストエフスキー、ボオドレェル、フロウベェルより二百年以前に生誕したとすれば、彼はその詩人的・寓話的精神を以て、もう一人のinimitable(模倣を許さぬ)ラ・フォンテェヌであったらう。彼はラ・フォンテェヌと同様に「各種の百幕の手広い劇、そしてその舞台は全世界」と自己を定義することも、多数のヴォカブルで、一つの総体としての新しい— —言語に対して未知な——しかも呪詛的に響く語を生かす詩人であることも、共に可能であったと考へられるから。このやうな私の夢想は、ジュウヴェに軽妙な、時に最も辛辣な寓話作者の話術と、ヴォカブルの光輝に極度の敏感さを示す詩人の詩を発見する。そしてこの話術と詩は相即するもので、その均衡は破綻することなく、単に一方のみ強調されることなく、自己表現の為に渾然と融合し統一されるべきものであることをも。
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詩人は自己の表現しようとする主観について、自己にのみ持つことを許容された独自な観念を持つように努力するものだ。それは一つの言語——即ち諸型態の一体系 ——を創造することの前提であって、公式ではない。嘗て誰に依っても表現されなかったところのものを、言語に依って創造するといふ体制に於て、精神は瞬間瞬間に生起する無限に多様な附帯的観念を統整しようとする。その場合、言語の喚想力のみが単独に価値を持つ事実が、詩人をして言語に対する尊厳を保証させるのだ(それは決して文章論的な関係でなく、リトムのアルモニー法則に依る征服の関係である)。この詩人の言語の尊厳の保証は、俳優にとって演技に対する尊厳の保証にも等しいであらう。何故なら詩人にとって言語は素材であるやうに、俳優にとって演技は「自己表現の為」の言語であるから。演技は物真似(ミミイク)或いは黙劇(パントマイム)を除いて、言語を必要とする。それは自己に固有な情念を以て、俳優が観客と自己に緊密な靱帯を設定する為に、役立つ最大の演劇的要素である。従って詩人に於て見られる言語の尊厳の保証は、俳優にとっても要求されなければならない。
ルイ・ジュウヴェは、この言語の尊厳の保証が、舞台に於いてシネ・クヮ・ノンであることを力強くしかも的確に指摘する。「ジャン・ジロォドゥの成功は何に由来するか? 演劇的言辞の魔術的な蠱惑力に。それ以外の理由はない」と。ジロォドゥの成功は、おそらくジュウヴェの演出力と彼を統帥とする一座の演技力に大半を負ふのであるが、彼は謙虚にその省察力を示すだけだ。そして彼の語る演劇的言辞とは、言語の日常性を脱却して作られる& #8212;—摩滅した金属を改鋳するやうに——詩的言語と本質的に差異はないことを、魔術的な蠱惑力といふ規定で術現されてゐる。これは、舞台に於て俳優に依って発声されることを使命とする言語は、律動的原理と力学的原理を同時に持たなければならないことを職業的コメディアンとして知悉していなければ、考察し得ぬ第一原理であらう。観客に訴へる目的で使用される要素として、舞踊・衣裳・書割・次第に巧妙さと複雑さを増す機械装置がある。そして上演される劇そのものの持つ力があり、それに依って直接な且つ磁力的な反応を観客に起させることを目的とする表情・工夫に富める身振りなどの俳優の演技がある。しかしそれらの多様な要素にもまして台詞は最も重要な因子である。それが凡庸な劇作家の手で演劇的生命を損失した台詞であるか、或は俳優が言語に対して詩人のやうでなく、それを演劇的言辞として通用させるのに失敗したとしたらどうであらうか。
コメディアン(この言葉の厳密な意味に於て)に要求される声の表現力——声楽家がするやうな声の訓練・発声法・自己の音域の正確な知悉・台詞廻し(ディクション)・朗誦法(デクラマション)に依って獲得される——に依って、脚本に含まれている発声・抑揚・継続を生かすべき俳優の職能は、ジャック・コポオのヴィュゥ・コロンビェ座に於て強調された。従って彼自身コポオの最も忠実な協力者であったジュウヴェが、俳優として言語の実質を更新しようとしたのは極めて正当であった。「俳優の堂々さ」とコクランの言ふところのものは、言語のうちに封じ込まれた宇宙力を、詩人のやうに顕現し得る能力に他ならない。措弁法と韻律学が新しき威厳を獲得する時、それに生命を付与する為の法則は、常に詩人にとってのみならず俳優にとっても、精神が自己に課すべき抵抗であらう。「舞踏会の手帖」(ジュリアン・デュヴィヴィエ)の第二の挿話に於て、ジュウヴェはコメディ・フランセエズの座付俳優(ソシエテエル)であるマリィベルと共に、ポォル・ヴェルレェヌの《Dans le vieux parc solitaire et glace……》を朗誦した。あの感動的な朗誦に於て、ジュウヴェは脚韻と区切りを尊重するに止らず、その音響・旋律・節奏・陰翳・色彩を、詩人にも比すべき態度で表現したのである。
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「ジャン・ジロォドゥの作品を上演した経験のあるわれわれすべてにとっては、観客がのびのびした、絶えず感動した緊張状態にあるのを初めて見、且つ感じたこと、そしてまた詩人のみが与え得る呪禁の秘法によって、劇場全体が陶然たる沈黙に酔ふのを身に沁みて味わったことは、一つの啓示でもあり思ひがけぬ収穫でもあったのである。」とルイ・ジュウヴェが言ふ時、劇作家と俳優との関係についてのコポオの卓抜な意見を想起しなければならない。
(中略)
ジュウヴェの「コメディアンの眺めたボォマルシェ」「ベックの悲運」「ユウゴォと演劇」などの文章は、寓話的と言ってもよいであらう。寓話作者はつねに正義の人でなければならない。(ここでイタリヤ、エチオピヤ紛争の為、惹起されたアドワ爆撃の惨事に「正義と平和のために」と題する宣言が発せられ、それにクロオデルやモォリアックと共に署名した彼や、フランス共産党の機関誌「ユマニテ」の演劇欄執筆者としての彼を知ることが無益ではないことを語って置かう。)
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ジュウヴェは古典作品としてモリエェルの作品とプロスペル・メリメの「聖体秘蹟の四輪馬車」などを上演目録に数へているに過ぎない。モリエェルについては、そのforce comivue の研究を主要な目的としたのであらう。メリメについては、ヴィュウ・コロンビエ座の成功を踏襲したのであらう。「これらの作家達(モリエェル、シェクスピヤ、ラシーヌなど)は学者の手に依って神格を賦与される以前、同時代の人々に新鮮な驚きと、喜びと、神秘とを与へたに違ひないのだ。作品のかかる久遠な新鮮さをわれわれ演劇人はみづからの中に再生させ、それを観客に伝へなければならぬ。」この言葉こそ「演劇は単に職業たるに止らず、一種の情熱だ」と確信する天才の言葉である。職業的愚劣に関してラインハルトや恐らくサッシャ・ギトリに対する非難は激しくしかし表面は喜劇的に語られている。外国作品を上演しない理由も、彼が、因襲的なものへの愛着に制肘されたり、外国作品といふ一種事大主義的な先入的観念を持たないからである。ガストン・バティやジョルジュ・ピトエフとは此処に決定的な差がある。「恋人達よ、幸福な恋人達よ、旅をしたいと思し召ならほど近いほとりがよろしうござる。」と言ったラ・フォンテェヌに何と酷似しているではないか。私はサント・ブゥヴがこの寓意にラ・フォンテェヌの創作態度を見たやうに、ジュウヴェにもその態度を見る。寓話、それをVisionaireの世界とのみ見るなら大きな誤謬だ。何故ならこの世界は、人間的であり、精神の世界でありその世界に充溢するものは魂の最低音部から発する沈痛な響きであるから。自己を表現しようとする俳優の本来の目的に叶ふ為に、彼のPersonageやその基本的構造の属性は厳密に追求されなければならない。それに依って沈痛な響きを発し、未知の観客に対する彼の個性の影響力が問題となるのだ。最後に冒頭にかかげた作家の言葉で彼を飾らう。「彼ジュウヴェの光彩陸離たる優越は何に基づくのか? それは内面の天稟、精神のそれである。」といふ言葉で。