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ルイ・ジュヴェ アーカイブ

2007年07月24日

ルイ・ジュウヴェに関するノオト

俳優としてのルイ・ジュウヴェは我々の持つ最大の俳優の一人である。
                         ——ジュウル・ロマン
 
                    ☆

「コメディアンの省察」といふ演劇論集は、私をある夢想に誘ひ込む。もしジュウヴェの事情と環境とが異ってゐて、しかもその機会がより大きかったならば、彼は俳優としてと同様に文学者として偉大であったらう。さうしたことが充分起り得たに違ひないといふ夢想は、私には奇矯ではなくむしろ自然と感じられる。私がジュウヴェを、偶然が彼を置いた時代より外の時代に於て想像するとしたら、例へばドストエフスキー、ボオドレェル、フロウベェルより二百年以前に生誕したとすれば、彼はその詩人的・寓話的精神を以て、もう一人のinimitable(模倣を許さぬ)ラ・フォンテェヌであったらう。彼はラ・フォンテェヌと同様に「各種の百幕の手広い劇、そしてその舞台は全世界」と自己を定義することも、多数のヴォカブルで、一つの総体としての新しい— —言語に対して未知な——しかも呪詛的に響く語を生かす詩人であることも、共に可能であったと考へられるから。このやうな私の夢想は、ジュウヴェに軽妙な、時に最も辛辣な寓話作者の話術と、ヴォカブルの光輝に極度の敏感さを示す詩人の詩を発見する。そしてこの話術と詩は相即するもので、その均衡は破綻することなく、単に一方のみ強調されることなく、自己表現の為に渾然と融合し統一されるべきものであることをも。

                     ☆

 詩人は自己の表現しようとする主観について、自己にのみ持つことを許容された独自な観念を持つように努力するものだ。それは一つの言語——即ち諸型態の一体系 ——を創造することの前提であって、公式ではない。嘗て誰に依っても表現されなかったところのものを、言語に依って創造するといふ体制に於て、精神は瞬間瞬間に生起する無限に多様な附帯的観念を統整しようとする。その場合、言語の喚想力のみが単独に価値を持つ事実が、詩人をして言語に対する尊厳を保証させるのだ(それは決して文章論的な関係でなく、リトムのアルモニー法則に依る征服の関係である)。この詩人の言語の尊厳の保証は、俳優にとって演技に対する尊厳の保証にも等しいであらう。何故なら詩人にとって言語は素材であるやうに、俳優にとって演技は「自己表現の為」の言語であるから。演技は物真似(ミミイク)或いは黙劇(パントマイム)を除いて、言語を必要とする。それは自己に固有な情念を以て、俳優が観客と自己に緊密な靱帯を設定する為に、役立つ最大の演劇的要素である。従って詩人に於て見られる言語の尊厳の保証は、俳優にとっても要求されなければならない。
 ルイ・ジュウヴェは、この言語の尊厳の保証が、舞台に於いてシネ・クヮ・ノンであることを力強くしかも的確に指摘する。「ジャン・ジロォドゥの成功は何に由来するか? 演劇的言辞の魔術的な蠱惑力に。それ以外の理由はない」と。ジロォドゥの成功は、おそらくジュウヴェの演出力と彼を統帥とする一座の演技力に大半を負ふのであるが、彼は謙虚にその省察力を示すだけだ。そして彼の語る演劇的言辞とは、言語の日常性を脱却して作られる& #8212;—摩滅した金属を改鋳するやうに——詩的言語と本質的に差異はないことを、魔術的な蠱惑力といふ規定で術現されてゐる。これは、舞台に於て俳優に依って発声されることを使命とする言語は、律動的原理と力学的原理を同時に持たなければならないことを職業的コメディアンとして知悉していなければ、考察し得ぬ第一原理であらう。観客に訴へる目的で使用される要素として、舞踊・衣裳・書割・次第に巧妙さと複雑さを増す機械装置がある。そして上演される劇そのものの持つ力があり、それに依って直接な且つ磁力的な反応を観客に起させることを目的とする表情・工夫に富める身振りなどの俳優の演技がある。しかしそれらの多様な要素にもまして台詞は最も重要な因子である。それが凡庸な劇作家の手で演劇的生命を損失した台詞であるか、或は俳優が言語に対して詩人のやうでなく、それを演劇的言辞として通用させるのに失敗したとしたらどうであらうか。
 コメディアン(この言葉の厳密な意味に於て)に要求される声の表現力——声楽家がするやうな声の訓練・発声法・自己の音域の正確な知悉・台詞廻し(ディクション)・朗誦法(デクラマション)に依って獲得される——に依って、脚本に含まれている発声・抑揚・継続を生かすべき俳優の職能は、ジャック・コポオのヴィュゥ・コロンビェ座に於て強調された。従って彼自身コポオの最も忠実な協力者であったジュウヴェが、俳優として言語の実質を更新しようとしたのは極めて正当であった。「俳優の堂々さ」とコクランの言ふところのものは、言語のうちに封じ込まれた宇宙力を、詩人のやうに顕現し得る能力に他ならない。措弁法と韻律学が新しき威厳を獲得する時、それに生命を付与する為の法則は、常に詩人にとってのみならず俳優にとっても、精神が自己に課すべき抵抗であらう。「舞踏会の手帖」(ジュリアン・デュヴィヴィエ)の第二の挿話に於て、ジュウヴェはコメディ・フランセエズの座付俳優(ソシエテエル)であるマリィベルと共に、ポォル・ヴェルレェヌの《Dans le vieux parc solitaire et glace……》を朗誦した。あの感動的な朗誦に於て、ジュウヴェは脚韻と区切りを尊重するに止らず、その音響・旋律・節奏・陰翳・色彩を、詩人にも比すべき態度で表現したのである。
 
                     ☆

「ジャン・ジロォドゥの作品を上演した経験のあるわれわれすべてにとっては、観客がのびのびした、絶えず感動した緊張状態にあるのを初めて見、且つ感じたこと、そしてまた詩人のみが与え得る呪禁の秘法によって、劇場全体が陶然たる沈黙に酔ふのを身に沁みて味わったことは、一つの啓示でもあり思ひがけぬ収穫でもあったのである。」とルイ・ジュウヴェが言ふ時、劇作家と俳優との関係についてのコポオの卓抜な意見を想起しなければならない。

(中略)

 ジュウヴェの「コメディアンの眺めたボォマルシェ」「ベックの悲運」「ユウゴォと演劇」などの文章は、寓話的と言ってもよいであらう。寓話作者はつねに正義の人でなければならない。(ここでイタリヤ、エチオピヤ紛争の為、惹起されたアドワ爆撃の惨事に「正義と平和のために」と題する宣言が発せられ、それにクロオデルやモォリアックと共に署名した彼や、フランス共産党の機関誌「ユマニテ」の演劇欄執筆者としての彼を知ることが無益ではないことを語って置かう。)

                     ☆
  
ジュウヴェは古典作品としてモリエェルの作品とプロスペル・メリメの「聖体秘蹟の四輪馬車」などを上演目録に数へているに過ぎない。モリエェルについては、そのforce comivue の研究を主要な目的としたのであらう。メリメについては、ヴィュウ・コロンビエ座の成功を踏襲したのであらう。「これらの作家達(モリエェル、シェクスピヤ、ラシーヌなど)は学者の手に依って神格を賦与される以前、同時代の人々に新鮮な驚きと、喜びと、神秘とを与へたに違ひないのだ。作品のかかる久遠な新鮮さをわれわれ演劇人はみづからの中に再生させ、それを観客に伝へなければならぬ。」この言葉こそ「演劇は単に職業たるに止らず、一種の情熱だ」と確信する天才の言葉である。職業的愚劣に関してラインハルトや恐らくサッシャ・ギトリに対する非難は激しくしかし表面は喜劇的に語られている。外国作品を上演しない理由も、彼が、因襲的なものへの愛着に制肘されたり、外国作品といふ一種事大主義的な先入的観念を持たないからである。ガストン・バティやジョルジュ・ピトエフとは此処に決定的な差がある。「恋人達よ、幸福な恋人達よ、旅をしたいと思し召ならほど近いほとりがよろしうござる。」と言ったラ・フォンテェヌに何と酷似しているではないか。私はサント・ブゥヴがこの寓意にラ・フォンテェヌの創作態度を見たやうに、ジュウヴェにもその態度を見る。寓話、それをVisionaireの世界とのみ見るなら大きな誤謬だ。何故ならこの世界は、人間的であり、精神の世界でありその世界に充溢するものは魂の最低音部から発する沈痛な響きであるから。自己を表現しようとする俳優の本来の目的に叶ふ為に、彼のPersonageやその基本的構造の属性は厳密に追求されなければならない。それに依って沈痛な響きを発し、未知の観客に対する彼の個性の影響力が問題となるのだ。最後に冒頭にかかげた作家の言葉で彼を飾らう。「彼ジュウヴェの光彩陸離たる優越は何に基づくのか? それは内面の天稟、精神のそれである。」といふ言葉で。

ルイ・ジュヴェ(「夏が好き」より)

 もう十年も前になる。久しぶりに大きな評伝に着手しようと思った。
 その年のクリスマス・イヴ、私にとって眼のくらむような感動があった。このとき、はじめて書きはじめる決心がついたのだった。
 私が描いたのは、いまではもはや忘れられた舞台芸術家の生涯だった。ルイ・ジュヴェという。もう誰も知らない俳優だった。ルイ・ジュヴェは、クリスマス・イヴに生まれているが、そんなことまでが私にはうれしい暗合のように思えた。
 それから数年、ひたすらこの俳優の生涯を追いつづけた。

 評伝を書くためにはまず彼の生きた時代をしらなければならない。まず、徹底した資料の読み込みからはじまる。あらためて世紀末から二十世紀前半にかけての戯曲を読み返した。これも、ほとんどがすでに忘却の淵に沈んだ台本ばかり。さらには、ジロドゥーやアヌイなどを中心に読み返したのだが、若い頃にはまるで気がつかなかったいろいろな発見があって楽しかった。
 完成までに、それからもいくたびか夏が過ぎた……。

 いまの私は、ルイ・ジュヴェが亡くなった年齢をとうに越えている。しかし、この芸術家に対する敬愛はいささかも薄れてはいない。私が十年の歳月をかけて書いた俳優、ルイ・ジュヴェの人生も、思えば悽愴、苛烈なものだった。
 ルイ・ジュヴェは、真夏の八月に亡くなっている。

『ルイ・ジュヴェ』という仕事(メチエ)

 評伝というかたちで『ルイ・ジュヴェとその時代』を書いた動機や理由について、べつに説明する必要はない。もともとジュヴェの肖像を描くつもりはなかった。
 ただし、俳優=演出家が日本ではどんなに間違った見方をされてきたか、それだけは訂正してやろう。そう思ったのだった。
 ジャン・ジュネの「女中たち」の上演を見たサルトルが、ジュネにむかって、ひどい芝居だったと語ったという。日本ではサルトルの放言が、まるで神託のようにつたえられた。本庄桂輔は、「ジュヴェはこの劇の上演によって、戦後の新しい波に触れたわけであるが、彼がジロドゥーの世界をひらいたように、戦後の新しい演劇を理解できたかどうかは疑問である」という。また、安堂真也によれば、戦後のジュヴェの仕事を要約して、「ジロドゥーとコポオとピトエフに先立たれ、方向を失ったジュヴェはモリエールに戻って独自の『ドン・ジュアン』と『タルチュフ』を上演、神への瞑想を主題とするに至る。ジュネやサルトルの演出が失敗に終ったのも、グレアム・グリーンの上演を考えたのも先輩のコポオの晩年に再び近づいたためかもしれない」という。
 私の胸には、遠い日本でこうした見方にさらされているジュヴェに対する憐憫と、このまま誤解されて終ってしまうかも知れない芸術家を本来の位置に戻したいという思いがあった。私が書きたかったのは、ジュヴェのように、仕事が成功すればするほど、(つまり、自分の仕事に対する認識が深くなっていけばいくほど)自分の芸術に対する認識が深くなってゆくことを認識する芸術家は少ない、ということだった。
 ジュヴェはモリエールとおなじように舞台の成功をめざして、そのためにおびただしい犠牲を払いつづけ、しかも堅忍不抜と見える姿勢を崩さなかった。芸術家は失敗をおそれてはならない。ときには、むしろ昂然たる気概をもって失敗こそをめざすべきなのだ。そういうことを教えてくれたのは、ほかならぬジュヴェだった。
 私がジュヴェから学んだことは、じつに大きい。彼の舞台はいつも時代の感性を刺激して、お客さんに、果てしなくおのれのありようをみずからに問いたださせるような舞台だった。彼の芝居を見る前と見てしまったあとの客の内面に、言葉にならないような思いが日に日に大きくなっていくような舞台を作る。ジュヴェはそういう舞台を作ろうとしてきた。それこそがほんとうの芸術の創造ということなのだ。そういうジュヴェに惹かれつづけ、彼の仕事をくわしく知りたいと思いつづけ、いつかそういうジュヴェについて語りたいと思ったのも当然だろう。
 ジュヴェは方向を見失ったのではない。たえず新しい方向を模索しつづけた。私はそういうジュヴェにいつも感動してきたのだった。


          −−早稲田演劇博物館 「劇場に生きる——舞台人ルイ・ジュヴェ」パンフレット(2003年)

補遺

『地獄の機械』はデザイナーのクリスチャン・ベラールと演出家ルイ・ジュヴェとのコラボレーションで、1934年にコメディ・デ・シャン=ゼリゼ劇場で上演された。ルイ・ジュヴェ、ジャン・ピエール・オーモンは、台本作家を勤めるコクトーといっしょに、ソフォクレス原作『オイディプス』の完全上演をした。彼の的確な言葉遣い、簡潔な転換、役柄同士が揺れながら進む対立関係などで、古典の焼き直しは大成功をおさめた。多少分かりにくかったにもかかわらず、この作品は大衆に気に入られ現代劇の名作に数えられることになった。

「ジャン・コクトー展」(サヴァリン・ワンダーマン・コレクション)2005-2006 カタログ p.19
「至高の芸術家」トニー・クラーク (訳者名 記載なし)

2007年08月09日

『タルチュッフ』

 モリエールの『タルチュッフ』は、ルイ・ジュヴェの生涯をつらぬく劇的主題だった。私は評伝『ルイ・ジュヴェ』でも『タルチュッフ』をくり返しとりあげている。
 1950年の『タルチュッフ』には、それまでと違った異様な執念のようなものが渦巻きはじめる、と書いた。こんな一行にも私のジュヴェに対する共感があった。

 私たちのモリエール理解に大きな転換をもたらしたポーランドの演劇学者、ヤン・コットの『われらの同時代人モリエール』の主題は――あくまで私の推測だが、コットがルイ・ジュヴェの舞台を見たために、コット自身がジュヴェのテーマを発展させたもの、と見ている。コットは、ジュヴェによってモリエールを「発見」したのだ。
 ただし、ポーランド語ができない私は、コットの資料にあたることができなかったため、読む人が読めばわかる程度に書いただけだった。

 『タルチュッフ』は、モリエールの全作品のなかでもいちばんおもしろい。当然ながら、私は何度となく読み返した。その上演史にも眼をくばった。

 主人公、「タルチュッフ」はだれでも知っている。ジュヴェ以前にも、たくさんの名優が「タルチュッフ」を演じてきた。リュシアン・ギトリ、コクラン、コポー、デュランというふうに。
 その伝統のなかで、ジュヴェの「タルチュッフ」は画期的だったと思われる。

 最近、また『タルチュッフ』を読み返した。
 ふと、へんなことを考えた。モリエールが上演した当時の観客は、主人公の「タルチュッフ」にまず何を見たのか。

 しばらく考えて、あっと驚いた。
 ひょっとすると、そうだったのではないか。いや、間違っているかも知れないなあ。
 しかし、モリエールのことだからそのくらいの「いたずら」はやるだろう。

 しばらくこんな自問自答をくり返していたが、だいたい間違いないと推測した。むろん、小場瀬 卓三先生や、鈴木 力衛のような研究家は、こんなことを書いてはいない。世界のどこかに、私とおなじことを書いている学者はいるかも知れないが、不勉強な私はとてもそこまで手がまわらない。

 『仮名手本忠臣蔵』という外題に、作者(ひいては、民衆)のひそかな心情が隠されていたように、「タルチュッフ」という外題を見ただけで、当時の宮廷人(ひいては庶民)は、ただちにこの新作が喜劇だということに気がついたに違いない。

 「タルチュッフ」は、じつはじゃがいもである。まず間違いないと思う。
 フランス語でじゃがいもはポム・ド・テールだが、イタリア語でじゃがいもはタルトゥッフォロという。
 もし、私の説がただしければ、わが国の狂言の外題から内容が想定できるように、当時の民衆は、イタリアふうのコメディア・デッラルテふうの喜劇を思いうかべたはずである。おそらく、外題を見ただけでおもわずニヤニヤしたのではないだろうか。

 われながらくだらない「発見」だが、『検察官』のゴーゴリの「いたずら」や、チェホフの『かもめ』のチェホフの「いたずら」を知っているだけに、モリエールの「いたずら」も、「いたずら」好きな私をうれしがらせる。

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