メイン

マリリン・モンロー アーカイブ

2007年07月24日

マリリン・モンロー・オークション

私は「マリリン・モンロー展」なるものを企画したことがある。
 ある年の十一月、千葉で「国民文化祭 ちば」が開催される予定になっていた。(この文化の「国体」は、第一回が東京都、つづいて熊本、兵庫、埼玉、愛媛の順で開催され、この年は千葉で行われたのだった。その後もひきつづき各県もちまわりで、毎年おこなわれている。)
 千葉県下でも、さまざまなイベントが計画されていたが、その一環として、「国際映像祭」が千葉市で開催され、映画監督のリュック・ベンソン、作家の遠藤周作さんの講演などが予定されていた。(これは実現しなかった)。
「国際映像祭」のイベントの一つとして、私の「マリリン・モンロー展」が企画に入ったのだった。
 ただし、千葉県の「国民文化祭」なのに、なぜマリリン・モンローなのか、といった反対があったらしい。

 私としては、マリリンに関するさまざまな資料、写真などの展示のほかに、日本の芸術家によるマリリン・モンローを主題とする制作を展示する。友人の画家、スズキ シン一をはじめ、安芸 良、小林 正治、人形作家の浜 いさを、イラストの兎森かのん、といった芸術家たちの協力を得て、当時としては絢爛たる「マリリン」がずらりと並んだ。
 スズキシン一は、生涯、マリリン・モンローしか描かなかった特異な画家だった。この画家は、当時、百万体のマリリン・モンローを描きつづけていた。「国民文化祭」の観客も、彼が描きつづけているマリリンの鮮烈なエロスと、ひたすらマリリンに固執する特異な芸術家の制作にショックを受けたようだった。
 当時、私が教えていた女子美大の女子学生たちの協力で、彼女たちの「マリリン」がいっせいに登場した。なかなか壮観だった。おなじマリリンでも、八十年代までのマリリンとはずいぶん発想が違う。プラスチックで等身大のマリリンのヌードを作った女の子もいるし、日本画で江戸の娘風俗のマリリンを描いた女の子もいる。具象派あり、ポップアートあり、大きなプラスチックにマリリンの写真数十枚を封じ込めたり、数十頁のマンガで「マリリンの生涯」を描いたり、無数のゴマ粒でマリリンを描いたり。グロテスクなマリリン、可愛いマリリン、とにかくマリリンだらけだった。
 こうして「マリリン展」に参加してくれた女の子たちがそれぞれマリリンに関心を寄せていると知ってうれしかった。
 とにかく、みんなが意欲的な作品を寄せてくれたのだった。
「マリリン・モンロー展」のために、絵を描いてくれた女子学生のひとりが「マリリンって可愛いから好き」といった。なかには「先生はいいわねえ。生きているときのマリリンさんを見て育ってきたんでしょ」というお嬢さんもいた。
 直接マリリンに会ったこともない。それにファンでさえもなかった。ただ、私はマリリンを軽蔑の眼で見なかっただけなのだ。
 なにしろろくに予算もなかったため、はじめに予想した成果は得られなかったが、私としては地元で「マリリン・モンロー展」を実現できただけでもうれしいことだった。

 なぜマリリン・モンローなのか。
 どんな人物の評価であれ、いつも一定不変の性質をもつことはない。マリリンにしても例外ではなかった。いうまでもなく、かつてマリリンは、セックス・シンボルと呼ばれた女優だった。マリリン・モンロー自身もそういうイメージに傷ついた。
 ウーマン・チャイルド、つぎつぎに男から男を遍歴した性的にだらしない女、いわば娼婦としてのイメージがつきまとっていた。マリリンは軽蔑されてきた。だが、そうした軽蔑には、いつもひそかな羨望がまつわりついていた。
 しかし、もはやこういうイメージは払拭されている。マリリンの死後、彼女に対する評価はドラマティックに変化する。
 やがて、マリリンは、こうした負のイメージから脱却して、「優しい女」になったし、ときには「闘う女」、ウーマン・リブの先駆者とさえ見られるようになった。
 私にとってそんなマリリンはどうでもいい。マリリンは、高慢な心のいやしさ、他人を差別するような人間のみにくさに傷つき、終生それを嫌いつづけた女なのである。

 スターとしてのマリリンはもはや歴史のなかに組み込まれている。しかし、歴史というものは不思議なもので、マリリンのような有名な女優でも、スターリンのような独裁者でも、共産主義のような思想、人民、教義、なんであれ、時代の推移につれて、かならず評価も変化する。歴史は、そのときそのときには曖昧に見えながら、いつしかはっきりした裁断をくだすものなのだ。

 今回、このHPをはじめるにあたって、これまで集めてきたマリリンに関する資料、マリリン・グッズの一部をオークションに出すことにした。
 大部分はそれほどめずらしいものではないかも知れないが、資料にはもはや入手もむずかしいものもある。
 マリリンに関心をもってくださる方々の手にわたればこれに過ぎるよろこびはない。

マリリンの魅力

 マリリンはいつまでもすばらしい魅力を見せている。
 ただし、その魅力はセックス・アピールに集中しているわけではない。そう単純にはいい切れない。なぜだろうか。
 めいめい、ご自分の恋愛を考えてごらんなさい。きみたちは、恋人を好きになったとき、相手の不明瞭な部分に惹かれたり、または明瞭な部分に惹かれたりする。それが恋愛というものではありませんか。

 1889年、トマス・エジソンが動く絵(ムーヴィング・ピクチュア)の開発に成功して、はじめて活動写真、つまり映画(ムービー)が登場して以来、無数のスターがスクリーンを彩ってきた。
 映画の影響力は絶大なものだった。それだけに、どういう国でも、社会的な防衛本能から映画の影響をおそれる人たちがいた。シカゴでは1907年、ニューヨークでは1909年に映画の検閲が始まっている。当時のニューヨークの検閲機関は、「長過ぎるラブ・シーン……ピッタリからだを密着させてのダンス」に眉をひそめた。
「肉体の誇示、犯罪の描写、いやらしい、または暗示的な行為、不当な暴力、劣情を抑制するのではなく喚起するような行為は、道徳の二重基準(ダブル・スタンダード)、欲望充足のための安易な手段を恒久化する傾きがある」として検閲を強化した。
 1913年には、53本の映画が上映禁止、401本の作品がその一部を削除されている。今の私たちが見れば別にどうといった映画ではない。ただ、映画はいつの時代でもこうした社会的な禁遏(きんあつ)と隣りあわせに作られてきたのだった。
 映画の影響力の一つはスターという存在によるものだった。スターは作られる。ハリウッドの歴史は、それぞれの時代に君臨したスターの歴史になった。ハリウッドの歴史は、セクシュアルなスターの歴史だった。
 メアリ・ピックフォード、リリアン・ギッシュなどの清純派のスターから、ルイーズ・ブルックスのような「宿命の女」(ファム・ファタル)、クララ・ボウのようなセクシーな女優たち。今ではもう誰の記憶にも残っていないたくさんの美女たち。
 クララ・ボウは「イット女優」と呼ばれた。「イット」は誰でも知っている代名詞だが、二十年代には性的魅力、セックス・アピールという意味で使われた。この「イット」は、あたらしい女性たちの性的な解放と自立の象徴でもあったが、あくまで女の性(セクシュアリティー)女らしさ(フェミニニティー)を強烈に押し出して、男の関心を惹きつけるための武器でもあった。だが、現在、誰がクララ・ボウをセクシーな女優として記憶しているだろうか。
 女優が衣裳を脱ぎすてて美しい裸身をさらけ出す一方、できるだけ美しく着飾らせることも必要になる。セシル・B・デミルは、いつも映画のなかで、女優たちにつぎからつぎに美しい衣裳を着させた。そして、女優が豊満な腿や胸もとを見せる入浴シーンを「発明」した。
 セダ・バラは「悪女」としてスクリーンで美しい脚線美を見せつけ、ベッドに腰を下ろして、いとも優美な指先でストッキングを巻きおろして見せたり、ヒップ・フラスク、あるいはヘビー・ペッティングを見せた。
 マリリンは、こうした女優たちのすべてを体現していた。かつてマリリンがどんなにつよい非難にさらされたか、今になっては想像もつかないけれど、マリリンをおとしめることで優越感にひたった人たちが、たくさんいたことも事実なのである。
 だが、マリリンを非難したことばはすべて消え去ってしまった。いまの私たちは、マリリンがすべてをあたえてくれたと思っている。そういう思いが、マリリンをああも比類ない女優にしたのではなかったか。
 マリリンは少女時代にいろいろと不幸な経験をしている。女としての不幸も。なにしろ大不況、社会改革、そして戦争の時代だった。このことも注意していいだろう。貧困から這いずりあがってスターになった彼女は、アメリカの「機会と成功」の夢を実現したひとりだった。
 みなさん、めいめい自分の青春を思い出してごらんなさい。青春とは、なぜかいろいろと間違いをおかして生きることではないか。しかし、すぐに間違いをおかすことさえできない生きかたに変わってしまうものだ。マリリンは自分の人生でずいぶん間違いをおかして生きなければならなかった女優だった。ところが、今もって女としてわるびれずに青春を生きているといっていい。生前の彼女を非難した人々のことばなど、まるでうけつけない姿で。だからこそ、マリリンは時代を超えて私たちの「現在」にすばらしい魅力をつたえている。
 このマリリンは、じつはみなさんの「現在」なのではないだろうか。

マリリン


 1989年、トマス・エジソンが動く絵(ムーヴィング・ピクチュア)の開発に成功して、はじめて活動写真、つまり映画(ムービー)が登場して以来、無数のスターがスクリーンを彩ってきた。
 映画の影響力は絶大なものだった。それだけに、どこの国でも、社会的な防衛本能から映画の影響をおそれる人たちがいた。
 シカゴでは1907年、ニューヨークでは1909年に映画の検閲が始まっている。当時のニューヨークの検閲機関は、「長すぎるラブ・シーン……ピッタリからだを密着させてのダンス」に眉をひそめた。
「肉体の誇示、犯罪の描写、いやらしい、または暗示的な行為、不当な暴力、劣情を抑制するのではなく喚起するような行為は、道徳の二重標準(タブル・スタンダード)、欲望充足のための安易な手段を恒久化する傾きがある」という理由で検閲を強化している。
 1913年には、53本の映画が上映禁止、401本の作品がその一部を削除されている。私の見たことのない映画ばかりだが、おそらく今の私たちが見れば別にどうといった映画ではないだろう。ただ、私は考える。映画はいつの時代でもこうした社会的な禁遏(きんあつ)と隣りあわせに作られてきたということを。

 映画の影響力の一つはスターという存在によるものだった。スターは作られる。ハリウッドの歴史はそれぞれの時代に君臨したスターの歴史になった。
 同時に、ハリウッドの歴史は、セクシュアルなスターの歴史だった。
 メアリ・ピックフォード、リリアン・ギッシュなどの清純派のスターから、ルイーズ・ブルックスのような「宿命の女」(ファム・ファタル)、クララ・ボウのようなセクシーな女優たち。今ではもう誰の記憶にも残っていないたくさんの美女たち。
 クララ・ボウは「イット女優」と呼ばれた。「イット」は誰でも知っている代名詞だが、二十年代には性的魅力、セックス・アピールという意味で使われた。この「イット」は、あたらしい女性たちの性的な解放と自立の象徴でもあったが、あくまで女の性(セクシュアリティー)、女らしさ(フェミニニティー)を強烈に押し出して、男の関心を惹きつけるための武器でもあった。
 女優が衣裳を脱ぎすてて美しい裸身をさらけ出す一方、できるだけ美しく着飾らせることも必要になる。セシル・B・デミルは、いつも映画のなかで、女優たちにつぎからつぎに美しい衣裳を着させた。彼は女優が豊満な腿や胸もとをちらりとみせる入浴シーンを「発明」した。
「悪女」セダ・バラはスクリーンで美しい脚線美を見せつけ、ベッドに腰をおろして、いとも優美な指先でストッキングを巻きおろしたり、ヒップ・フラスク、あるいはヘビー・ペッティングを見せた。
 マリリンは、こうした女優たちのすべてを体現していた。かつてマリリンがどんなにつよい非難にさらされたか、今となっては想像もつかないほどだが、マリリンをおとしめることで女性の「女らしさ」(セキシネス)を侮辱し、さらに、いじめ、差別、いわれのない優越感にひたった人たちがたくさんいたことも事実なのである。

 マリリンはいまでもすばらしい魅力を見せている。
 日本では未公開だったが、バーバラ・スタンウィック、ロバート・ライアンが主演した「熱い夜の疼き」(フリッツ・ラング監督)のマリリンは、明るい夏の太陽の日ざしを受けて、わかわかしい水着で海辺を走っていた。ほのかに汗ばんだピンク色の素肌が匂いたつような、なめらかで、かたくひきしまった白い肢体は彫刻のような陰影を帯びていた。
 オムニバス「人生模様」で、チャールズ・ロートンのホームレスに声をかけるしがない街娼をやっていた。小さなシークェンスだったが、このマリリンはドキッとするほど美しかった。安香水や、ファンデーション、口紅といった匂いではなく、娼婦の、むせ返るような体臭と、同時に、マフで包んだ手から腕にかけて羞恥をただよわせ、清純な可憐さが輝いていた。
「荒馬と女」のマリリンはいたましいほどやつれていた。肌が異様に荒れて、マリリン自身の内面の荒廃さえ想像させた。ラストシーンに近く、荒れた砂漠のなかで、残酷な男たちにむかって泣き叫ぶ姿は、ぎらぎらする太陽のはげしい直射のように私の眼に灼きついた。
 マリリンは少女時代にいろいろと不幸な経験をしている。女としての不幸も。なにしろ大不況、社会改革、そして戦争の時代だった。このことも注意していいだろう。貧困から這いずりあがってスターになった彼女は、アメリカの「機会と成功」の夢を実現したひとりだった。こうして、マリリンは二十世紀の神話、伝説になった。
 ただし、私はそんなふうに見たことは一度もない。そして、彼女の魅力はセックス・アピールに集中していたわけではない。
 いまさらマリリンについて何を語る必要もないが、私にとって映画のなかのマリリンは、女としてわるびれずに青春を生き、やがてはいやはての人生を生きている。彼女を非難した人々のことばなど、まるでうけつけない姿で。
きみたちも、めいめい自分の青春を思い出してみるといい。青春はなぜか間違いをおかして生きることだが、たちまちのうちに、間違いをおかすことさえできない生きかたに変わってしまうものだ。
めいめい自分の恋愛を考えてみればいい。恋人を好きになったとき、相手の不明瞭な部分に惹かれたり、または明瞭な部分に惹かれたりする。それが恋愛というものだろう。
だからこそ、マリリンは時代を超えて、私たちの「現在」にすばらしい魅力をつたえている。
 このマリリンは、まさにきみたちの「現在」ではないだろうか。
 

2007年12月16日

「マリリン&ジョン」

 
 ヴァネッサ・パラデイが登場したのは、1988年だった。ファースト・アルバム、「M&J」を出したとき、15歳。
 ヴァネッサを聞いたのは、フレンチ・ポップスに関心があったからではない。表題作の「M&J」がマリリン&ジョンの頭文字と知って、興味をもったからだった。

   マリリンは口紅をつけながら
   ジョンのことを考える
   ジョンのことだけを
   微笑んで ふと ため息ついて
   口にする――歌

   悲しみもなく 楽しみもない
   二つ三つの――インタヴューのあいだ
   スウィングが 心に揺れて
   バスタブで・・おバカさんね
   マリリンは彼の名を歌っている
   ひとりでに心にうかぶ曲にして
   星(スター)とライオンの物語   
      (仮訳)

 実際にマリリンの映画を見たことのない世代の女の子が、マリリンを歌っても不思議ではない。マリリンのセクシュアリティーは、フランスでも、女性のリビドーと社会が共有する倫理のあいだに、大きな緊張関係をうみ出していた。60年代のブリジット・バルドー、70年代のソフィー・マルソー、80年代のジェーン・バーキンを思い出して見ればいい。
 ヴァネッサは彼女たちにつづく世代だった。
 当時、アメリカでは、ティファニー、デビー・ギブスンが登場していた。オーストラリアのカイリー・ミノーグ、台湾のターシー・スーといったティーネイジのシンガーが、ぞくぞくと登場してきた。
 私は、香港のシャーリー・ウォンを聞いて以来、アジア・ポップスにのめり込んでいた時期だった。シャーリー・ウォンは、数年後にフェイ・ウォン(王 菲)になる。

 1枚のアルバム。それも未決定の未来にようやく歩み出した15歳の少女の、ファースト・アルバム。その最初の曲が「M&J」だったことに、現在の私は感慨をもつ。
 たいしたことではないが。

  *「マリリン&ジョン」 (ポリドール/88年、93年)

About マリリン・モンロー

ブログ「評伝」のカテゴリ「マリリン・モンロー」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

次のカテゴリはルイ・ジュヴェです。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。