マリリン・モンロー・オークション
私は「マリリン・モンロー展」なるものを企画したことがある。
ある年の十一月、千葉で「国民文化祭 ちば」が開催される予定になっていた。(この文化の「国体」は、第一回が東京都、つづいて熊本、兵庫、埼玉、愛媛の順で開催され、この年は千葉で行われたのだった。その後もひきつづき各県もちまわりで、毎年おこなわれている。)
千葉県下でも、さまざまなイベントが計画されていたが、その一環として、「国際映像祭」が千葉市で開催され、映画監督のリュック・ベンソン、作家の遠藤周作さんの講演などが予定されていた。(これは実現しなかった)。
「国際映像祭」のイベントの一つとして、私の「マリリン・モンロー展」が企画に入ったのだった。
ただし、千葉県の「国民文化祭」なのに、なぜマリリン・モンローなのか、といった反対があったらしい。
私としては、マリリンに関するさまざまな資料、写真などの展示のほかに、日本の芸術家によるマリリン・モンローを主題とする制作を展示する。友人の画家、スズキ シン一をはじめ、安芸 良、小林 正治、人形作家の浜 いさを、イラストの兎森かのん、といった芸術家たちの協力を得て、当時としては絢爛たる「マリリン」がずらりと並んだ。
スズキシン一は、生涯、マリリン・モンローしか描かなかった特異な画家だった。この画家は、当時、百万体のマリリン・モンローを描きつづけていた。「国民文化祭」の観客も、彼が描きつづけているマリリンの鮮烈なエロスと、ひたすらマリリンに固執する特異な芸術家の制作にショックを受けたようだった。
当時、私が教えていた女子美大の女子学生たちの協力で、彼女たちの「マリリン」がいっせいに登場した。なかなか壮観だった。おなじマリリンでも、八十年代までのマリリンとはずいぶん発想が違う。プラスチックで等身大のマリリンのヌードを作った女の子もいるし、日本画で江戸の娘風俗のマリリンを描いた女の子もいる。具象派あり、ポップアートあり、大きなプラスチックにマリリンの写真数十枚を封じ込めたり、数十頁のマンガで「マリリンの生涯」を描いたり、無数のゴマ粒でマリリンを描いたり。グロテスクなマリリン、可愛いマリリン、とにかくマリリンだらけだった。
こうして「マリリン展」に参加してくれた女の子たちがそれぞれマリリンに関心を寄せていると知ってうれしかった。
とにかく、みんなが意欲的な作品を寄せてくれたのだった。
「マリリン・モンロー展」のために、絵を描いてくれた女子学生のひとりが「マリリンって可愛いから好き」といった。なかには「先生はいいわねえ。生きているときのマリリンさんを見て育ってきたんでしょ」というお嬢さんもいた。
直接マリリンに会ったこともない。それにファンでさえもなかった。ただ、私はマリリンを軽蔑の眼で見なかっただけなのだ。
なにしろろくに予算もなかったため、はじめに予想した成果は得られなかったが、私としては地元で「マリリン・モンロー展」を実現できただけでもうれしいことだった。
なぜマリリン・モンローなのか。
どんな人物の評価であれ、いつも一定不変の性質をもつことはない。マリリンにしても例外ではなかった。いうまでもなく、かつてマリリンは、セックス・シンボルと呼ばれた女優だった。マリリン・モンロー自身もそういうイメージに傷ついた。
ウーマン・チャイルド、つぎつぎに男から男を遍歴した性的にだらしない女、いわば娼婦としてのイメージがつきまとっていた。マリリンは軽蔑されてきた。だが、そうした軽蔑には、いつもひそかな羨望がまつわりついていた。
しかし、もはやこういうイメージは払拭されている。マリリンの死後、彼女に対する評価はドラマティックに変化する。
やがて、マリリンは、こうした負のイメージから脱却して、「優しい女」になったし、ときには「闘う女」、ウーマン・リブの先駆者とさえ見られるようになった。
私にとってそんなマリリンはどうでもいい。マリリンは、高慢な心のいやしさ、他人を差別するような人間のみにくさに傷つき、終生それを嫌いつづけた女なのである。
スターとしてのマリリンはもはや歴史のなかに組み込まれている。しかし、歴史というものは不思議なもので、マリリンのような有名な女優でも、スターリンのような独裁者でも、共産主義のような思想、人民、教義、なんであれ、時代の推移につれて、かならず評価も変化する。歴史は、そのときそのときには曖昧に見えながら、いつしかはっきりした裁断をくだすものなのだ。
今回、このHPをはじめるにあたって、これまで集めてきたマリリンに関する資料、マリリン・グッズの一部をオークションに出すことにした。
大部分はそれほどめずらしいものではないかも知れないが、資料にはもはや入手もむずかしいものもある。
マリリンに関心をもってくださる方々の手にわたればこれに過ぎるよろこびはない。