名家、メディチ家も、中世にはフィレンツェの北、ムジェッロの谷に住む農民だった。 そのなかに、草根木皮の薬を作って、民間療法をはじめた者がいたらしい。医者=メディコからメディチという名ができた。(ただし、歴史学者のなかには、これに反対の意見をもつ人もいる。)現在でも、フランス語、英語のMedicinは、メディコに関係がある。
メディチ家の紋章には八つの丸い玉がついているが、これはピロ−レという錠剤をかたどっている。メディチ家の守護聖人は、民衆に医療をほどこした聖タミア−ノだった。
フィレンツェに出たメディチ家は、武器を作ったり、金貸しをやって富を築いていった。中世末期には、ポポロ・グラッソ(肥った市民)とよばれる大商人たちの仲間入りをしていた。政治には、かかわらないようにしていたが、もともと古い家柄ではないので、ポポロ・ミヌ−ト(賤民)とよばれる下層の人々の支持を受けた。
メディチ家がフィレンツェで頭角をあらわしたのは、ジョヴァンニ・デ・メディチが、親戚の経営した小さな銀行を引き受けて、1393年に独立してから。このかんに、イギリス国王に軍資金を融資した大銀行が軒並み倒産したのに、メディチ銀行は小さいために地道に経営をつづけ、ついにはロ− マ教皇の銀行家にまでのしあがって行く。
メディチ家が損をしたのは一度だけ。教皇ジュ−リオ23世をハイデルベルグの牢獄から出すために3万8千デュカ−トという巨額な貸付けをしたが、これが焦げついた。
ジョヴァンニの子、コジモ・デ・メディチが政権をにぎると、ヨ−ロッパ最高の大貴族になった。その権勢は、各国の皇帝、国王をはるかにしのいでいた。父のジョヴァンニが残した遺産は18万フロリンだったが、コジモは慈善事業や、公共事業だけで、40万フロリンを使った。
コジモがロレンツォ・デ・メディチに残した遺産は、現在の貨幣価値に換算して、ロックフェラ−財閥の約七倍といわれている。
メディチ家は、その後、300年にわたってフィレンツェを支配する。