中世のイタリアでは、戦争が絶えなかった。
たくさんの都市国家にわかれて、宗教上の対立や、経済的な理由で、まるで微粒子がぶつかりあうように、小ぜりあいや、全面戦争をくり返していた。一つの砦、一本の橋をめぐって、ときには女が犯されたことが原因で、戦争が起きた。
戦争で死ぬやつは運(フォルチュナ)に見放されただけ。抜け目のないやつ、利口なやつは富む、という考えがひろまった。そこで戦争で稼ごうというやからが登場する。戦争をうけおう職業ができた。
荒くれた気風が一般的だったから、腕の立つ男のまわりに戦国浪人が集まってグループを作る。頭領株の男は、自分と部下たちまる抱えで、一定の期間、一定の軍資金で、雇主に貸し出す。これが傭兵のはじまりだった。
雇料をコンドッタという。傭兵隊長はコンドッティエリ。戦国浪人というと、わたしたちは、塙(ばん)団右衛門とか、後藤 又兵衛、宮本 武蔵といった豪傑を連想しがちだが、イタリアの傭兵はもっと営利本位の戦闘集団だった。
自分の感情や、友情なんか、はじめから度外視している。正義感もないし、祖国への忠誠心もいっさい抜き。あくまで自分たちに金を払ってくれる人のために働く。もっと多く払ってくれる相手がいればいつでも乗り換える。隊長は、商品とおなじように、雇主、買い手ののぞむ数量と品種の兵士を提供する。
たとえば、ガスコ−ニュ人は勇敢、スイス人は雇主に忠実、イギリス人は知謀にすぐれ、スペイン人は豪快といった評判が立ち、それで値段もきめられる。
傭兵隊長の戦術(アルテ・デ、グェ−ラ)は、じつは、節約、能率、収益、最大の之順を意味した。戦争になれば、略奪、強姦、殺戮は日常茶飯事で、すぐれた傭兵隊長を雇ったほうが勝つ。傭兵の質のよしあしによって、1527年のロ−マの劫略のような悲惨な結果が起きる。
ルネッサンス・イタリアの君主たちは、大多数が傭兵隊長あがりといってよい。マラテスタ家、バリオ−ニ家、ベンティヴォ−リョ家、スフォルツァ家、あのエステ家も、傭兵隊長から僣主になったのである。
「歴史読本」臨時増刊 (2000.1月)