ルネサンスの結婚はどういうものだったか。
ルネサンスの結婚は、だいたい政略結婚がふつううだった。花婿が未成年だったり(ボルジア家のホーフレと、ナポリの王女、サンチャ・ダラゴーナの場合)、花嫁が極端に若かったり(武将プロスペロ・コロンナとヴィットーリア・ゴンザーガの場合)、現代の結婚とはずいぶん違っている。
若い娘たちは、いつも母親か、それに準ずる保護者の眼の届くところにいなければならなかった。十七歳以上に達した処女は、いかなる男とも口をきいてはならない。
この時代きっての教養人だったバルダッサーレ・カスティリョーネは、若い娘はすべからく何も考えない無知のままでいなければならないとした。なぜなら、若い娘の純潔こそ大事で、何も考えなければ純潔でいられるからという。ひどい話である。
時代は遅れるが、モリエールの「女房学校」の「アルノルフ」はいう。
「私の理想の女は薄ノロの女ですよ。音韻とは何なのか知らないような女。音韻さがし(スコルピオ)で遊ぶとき<こんどは何にしますか>と訊かれて<クリーム・パインよ>と答えてくれていい。つまり、まったく無知な女。ありていにいってしまえば、神さまにお祈りができて、私を愛してくれて、針仕事ができたら、それでたくさんじゃありませんか」と。
ルネサンスの女性観もこれに近い。
ただし、階級差はある。
若い娘の誘拐が頻発して、とくにジェノアで多かった。掠奪結婚の名残りともいえるが、同時に、こうした娘たちの無知につけ込んで牛馬のように売りとばす、ひどい場合は強姦したあと娼婦に仕立てあげる、といった事件も多かった。
都市部でも娘たちにとって危険は多かったが、これが田舎になると危険はさらに大きかった。娘たちはさまざまな誘惑、とくに性的な凌辱をともなう危険にさらされていた。
農村で歌われた民謡は、しばしば春歌であって、性行動の自由、あるいは途方もない淫佚(いんいつ)ぶりが、ときにはおおらかに、ときには露骨に表現されていることからも想像できよう。貧しい娘たちの生活、性行動は、中世初期の娘たちとそれほど変わらなかった。相続する土地もなかったし、政治的、経済的な基盤も影響もないため、しばしば結婚する必要もなかった。まして政略結婚などまるで無関係だった。
貧しい娘たちは結婚前にいくら男に身をまかせようと非難されなかったから、誘いかける男がいれば平気で身を委ねた。むろん、結婚すればたいていの女は貞節を守った。結婚できればいいほうで、娘たちの多くは修道院にやられたり、フランス語でいう「快楽の娘たち」(フィーユ・ド・ジョア)になった。
ジェノアの娘たちは失恋すると、神信心や貞節に戻るのでほかのイタリア都市の女たちよりもずっと躾がいいという。つまり恋をしているあいだは、神も信じないし、貞節でもないという意味が隠されている。
現代の私たちは、結婚は男性、女性ともに精神的に惹かれあい、ただしい和合がなければならないと信じている。ところが、ルネサンスの結婚にはそうした結婚はほとんど見られない。それでいて、男も女もじつにいきいきと生きている。ひょっとすると私たちの考えている結婚という制度や、婚姻形態は、ほんとうは病み弱まった、想像力のない、衰弱しきったものではないか、という思いがけない考えも出てくる。
半分は冗談だが。