2007年12月16日

「マリリン&ジョン」

 
 ヴァネッサ・パラデイが登場したのは、1988年だった。ファースト・アルバム、「M&J」を出したとき、15歳。
 ヴァネッサを聞いたのは、フレンチ・ポップスに関心があったからではない。表題作の「M&J」がマリリン&ジョンの頭文字と知って、興味をもったからだった。

   マリリンは口紅をつけながら
   ジョンのことを考える
   ジョンのことだけを
   微笑んで ふと ため息ついて
   口にする――歌

   悲しみもなく 楽しみもない
   二つ三つの――インタヴューのあいだ
   スウィングが 心に揺れて
   バスタブで・・おバカさんね
   マリリンは彼の名を歌っている
   ひとりでに心にうかぶ曲にして
   星(スター)とライオンの物語   
      (仮訳)

 実際にマリリンの映画を見たことのない世代の女の子が、マリリンを歌っても不思議ではない。マリリンのセクシュアリティーは、フランスでも、女性のリビドーと社会が共有する倫理のあいだに、大きな緊張関係をうみ出していた。60年代のブリジット・バルドー、70年代のソフィー・マルソー、80年代のジェーン・バーキンを思い出して見ればいい。
 ヴァネッサは彼女たちにつづく世代だった。
 当時、アメリカでは、ティファニー、デビー・ギブスンが登場していた。オーストラリアのカイリー・ミノーグ、台湾のターシー・スーといったティーネイジのシンガーが、ぞくぞくと登場してきた。
 私は、香港のシャーリー・ウォンを聞いて以来、アジア・ポップスにのめり込んでいた時期だった。シャーリー・ウォンは、数年後にフェイ・ウォン(王 菲)になる。

 1枚のアルバム。それも未決定の未来にようやく歩み出した15歳の少女の、ファースト・アルバム。その最初の曲が「M&J」だったことに、現在の私は感慨をもつ。
 たいしたことではないが。

  *「マリリン&ジョン」 (ポリドール/88年、93年)

2007年08月09日

『タルチュッフ』

 モリエールの『タルチュッフ』は、ルイ・ジュヴェの生涯をつらぬく劇的主題だった。私は評伝『ルイ・ジュヴェ』でも『タルチュッフ』をくり返しとりあげている。
 1950年の『タルチュッフ』には、それまでと違った異様な執念のようなものが渦巻きはじめる、と書いた。こんな一行にも私のジュヴェに対する共感があった。

 私たちのモリエール理解に大きな転換をもたらしたポーランドの演劇学者、ヤン・コットの『われらの同時代人モリエール』の主題は――あくまで私の推測だが、コットがルイ・ジュヴェの舞台を見たために、コット自身がジュヴェのテーマを発展させたもの、と見ている。コットは、ジュヴェによってモリエールを「発見」したのだ。
 ただし、ポーランド語ができない私は、コットの資料にあたることができなかったため、読む人が読めばわかる程度に書いただけだった。

 『タルチュッフ』は、モリエールの全作品のなかでもいちばんおもしろい。当然ながら、私は何度となく読み返した。その上演史にも眼をくばった。

 主人公、「タルチュッフ」はだれでも知っている。ジュヴェ以前にも、たくさんの名優が「タルチュッフ」を演じてきた。リュシアン・ギトリ、コクラン、コポー、デュランというふうに。
 その伝統のなかで、ジュヴェの「タルチュッフ」は画期的だったと思われる。

 最近、また『タルチュッフ』を読み返した。
 ふと、へんなことを考えた。モリエールが上演した当時の観客は、主人公の「タルチュッフ」にまず何を見たのか。

 しばらく考えて、あっと驚いた。
 ひょっとすると、そうだったのではないか。いや、間違っているかも知れないなあ。
 しかし、モリエールのことだからそのくらいの「いたずら」はやるだろう。

 しばらくこんな自問自答をくり返していたが、だいたい間違いないと推測した。むろん、小場瀬 卓三先生や、鈴木 力衛のような研究家は、こんなことを書いてはいない。世界のどこかに、私とおなじことを書いている学者はいるかも知れないが、不勉強な私はとてもそこまで手がまわらない。

 『仮名手本忠臣蔵』という外題に、作者(ひいては、民衆)のひそかな心情が隠されていたように、「タルチュッフ」という外題を見ただけで、当時の宮廷人(ひいては庶民)は、ただちにこの新作が喜劇だということに気がついたに違いない。

 「タルチュッフ」は、じつはじゃがいもである。まず間違いないと思う。
 フランス語でじゃがいもはポム・ド・テールだが、イタリア語でじゃがいもはタルトゥッフォロという。
 もし、私の説がただしければ、わが国の狂言の外題から内容が想定できるように、当時の民衆は、イタリアふうのコメディア・デッラルテふうの喜劇を思いうかべたはずである。おそらく、外題を見ただけでおもわずニヤニヤしたのではないだろうか。

 われながらくだらない「発見」だが、『検察官』のゴーゴリの「いたずら」や、チェホフの『かもめ』のチェホフの「いたずら」を知っているだけに、モリエールの「いたずら」も、「いたずら」好きな私をうれしがらせる。

2007年07月24日

ミケランジェロはゲイだった?

 
 ミケランジェロが男色者だったことは有名だろう。彼の生涯には女性の影が落ちていない、という。
 晩年、ヴィット−リア・コロンナに対する深い愛情も、肉欲とは関係のない純愛だったといわれている。はたして、ミケランジェロの生涯に、女に対する性愛がまったくなかったのだろうか。
 ミケランジェロ自身がいうように、「わたしは生涯愛せずには少しも過ごすことはできなかった」という、ルネッサンスのおとこの強烈な欲望が女性にまったく向けられなかった、とは思えない。彼の処女作と見ていい詩に、
    愛の神キュピッドよ、そなたの激情に誇らしく立ち向かうことのできた過去、
    わたしは幸福に生きてきた。しかし、いまは、ああ、わたしの胸は
    涙にぬれている、そなたの力が身にしみて
 とか、
    わたしをあなたにことさら惹きつけるのは誰だろう。
    ああ、ああ、しっかりとしばりつけられながら、
    それでもわたしが自由とは
 という。(1504年)
 作家、ア−ヴィング・スト−ンは、メディチ家の令嬢、コンテッシ−ナに対する愛を想像しているが、それを裏づける資料はない。ただ、私は、1520年から27年まで、ミケランジェロがあまり仕事に手をつけなかった不毛な時期に、女色にふけったのではないか、と見ている。
 ロマン・ロランは、「ミケランジェロの作品には愛が欠けている」といったが、これも私としては疑問で、じつは、ある女性に対する恋の苦悩に身を灼いていたのではないか。
 うまれついてのホモセクシャルと見るよりも、むしろバイセクシャルだったし、コンパルシヴな女体探究者だったとみていいのではないかと思う。若い男性に対するつよい関心は、1530年以後からで、初老にさしかかってからだったと考えているのだが。

「モナリザ」の「モデル」は?


 
 ル−ヴル美術館でも、ダヴィンチの「モナリザ」だけは、特別にガラス・ケ−スで保護されている。それまで写真や画集で見てきたものと違って、実物の「モナリザ」はほんとうに世界最高の作品だと思った。絵の美しさに感動したが、想像していたよりずっと小さな絵だったことにも驚かされた。「モナリザ」を見たあとでは、巨大な「ナポレオンの戴冠」にも、ル−ベンスの連作にも心を動かされなかった。
 「モナリザ」のモデルについては、いろいろな説がある。
 私ごときにはモデルが誰なのかわからない。もっとも注目すべき説は、田中英道氏の研究で、「モナリザ」のモデルを、マントヴァ侯夫人、イザベッラ・デステとしている。
 イザベッラは、ルネッサンスきっての才媛だったが、ダヴィンチに自分の肖像画を描かせようとしながら、どうしても描いてもらえなかった。
 義弟の愛人、チェッチ−リア・ガッレラ−ニがダヴィンチに肖像画を描いてもらったと聞いたイザベッラは、半分口惜しまぎれに、ぜひ見せてほしいといった。
 ベルガミ−ニ伯夫人になっていたチェッチ−リアは、その絵はあんまり私に似ていないけれど、自分が愛に溺れていた娘時代ではなくなっているからです、と答えた。
 つまり、娘時代の私はダヴィンチが描いたとおりの美女だったというわけである。
 イザベッラはむかついたらしい。じつは、肖像画を描くつもりだったダヴィンチはイザベッラの横顔のデッサンを描いている。これもたいへんな傑作だが、中年にさしかかって、肥満しかけたイザベッラが描かれている。それがまたイザベッラには気に入らなかったらしい。
 ダヴィンチはそういうイザベッラが嫌いだったらしく、とうとう肖像画を描かずにフランスに去って、皇帝、フランソワ一世につかえた。1519年、フランスで亡くなっている。

錬金術がさかんになったのはなぜ?


 
 ロ−マ帝国が滅亡して、ギリシャ人、アラビア人がイタリアに流れ込んできたが、ここに科学の基礎が生まれた。
 占星術がイタリアにつたえられたのは、ビザンチンの学者、プレト−がフィレンツェで講義してからだが、錬金術はそれより先にエジプトからつたえられた。
 これが、やがて気象の研究や、植物の生成の観察など、さらに医学、天文学、植物学、鉱物学などに発展してゆく。
 錬金術は、先史時代からあって、鉱物や、金属の精錬にまつわる魔術を得意とした部族が、神聖な森に集まって、踊ったり祈ったりする秘儀から起こった。この錬金術の秘法に、ルネッサンスの人びとの強烈な欲望が重なった。
 いつの時代でもおなじだが、宝石が珍重され、金が欲望の対象となった。
 宝石は、人間の手にかからない自然の生んだ神秘だった。その神秘に憧れる気もちが、さまざまな護符や、幸運の指輪、金属のメダルなどの流行を生み、さらには人間の手で、この神秘を生み出そうという夢をもたらした。
 これが一方では、手相学、骨相学などにつながり、また、一方では、不老不死の秘法の探究に発展してゆく。
 水銀を凝固させて純金にする、とか、ほかの卑金属から金を作る技術がある、と信じられていた。そのためには「賢者の石」が必要なのだ。その「賢者の石」は、エリクサ(連金薬)とか第五元素と呼ばれているが、その精製は秘中の秘だった。ヴァチカンにも、この研究に熱中したロ−マ教皇がいる。
 『ロミオとジュリエット』に出てくる修道士は、ジュリエットに秘薬をあたえるが、あれも錬金術の一つと見てよい。
 トレヴィ−ソ伯は、「賢者の石」の発見に夢中になって、城も領地も売りとばし、ついに最高の秘法を発見したが、うれしさのあまり、病気になって乞食同然の死にかたをした。死んだとき、口から金の塊を吐いたという。

万能人が輩出したのはなぜ?


 
 中世にくらべれば、ルネッサンスの時代ははるかに高揚した気分が見られる。
 フィレンツェの隆盛を代表するロレンツォ・デ・メディチの時代は、まさにハイ・ルネッサンスとよばれるにふさわしい最盛期だった。
 この時期、ルネッサンスによって、はじめて人間が血肉を得た、といわれる。
 ルネッサンスの人びとには、独立の人(ウォモ・シンゴラ−レ)、個の人(ウォモ・ユニコ)、他に抜きん出ようとする野望が共通していた。
 自分は他人とは違うのだ。こういう気もちは、君主も、傭兵隊長も、芸術家も、女たち、乞食、みんなに共通していた。女は、自分と寝る男がほかの女とは違うからだだといってくれるように、セックスにもいそしんだ。
 ミラ−ノのルドヴィ−コ大公は、愛妾、チェッチ−リアに暇をくれた(別れた)とき、「この女性(にょしょう)、性技、天下第一等」という証明書を書いてやった。
 こんなふうに、いつもシンゴラ−レであろうとして、ユニコをめざして、他に抜きん出ようという野望は、政治、経済、外交、戦術にもあらわれる。
 フランチェスコ・スフォルツァ大公は、臨終の床で、
 「もし三方に敵あらば、最初の敵と和を結び、つきの敵と休戦し、さてつぎなる敵に打ちかかり滅ぼすべし」と、遺言した。
 銀行家も、商人も、経済戦争をつづけて、自分だけは生き残ろうとした。芸術家も、レオナルド・ダヴィンチをはじめ、いろいろな分野に手を染めて、ほかの芸術家に負けない仕事をするのが理想だった。ダヴィンチ、ミケランジェロ、もっとあとのベッリ−ニまで、ひとしなみにこの理想を追い求めた芸術家なのである。
 だが、こうした気概のうしろには、ロレンツォ・デ・メディチの詩にあるように、
    きたらむ時を な怖れそ。
    乙女うるわし 恋人うれし
    何思うべき 今日より先を
 といった、どこか悲哀が迫ってくる予感がただよっていた。
 万能人(ウォモ・ウニヴェルサ−レ)は、こうした時代に、不屈の気概をもって生きた人たちのことで、ダヴィンチほかの少数者だけをいうわけではない。

高級娼婦が多かったのはなぜ?

 
 ルネッサンス・イタリアの女たちが、性的に奔放で、乱倫をきわめていたと見るのは、はっきり間違いだし、間違いではないにしても、かなり一面的にすぎるだろう。大多数は貞淑な女たちだったし、性にかかわりなく生きた女たちも多い。
 私などが関心をもつ女たち、たとえばルクレツィア・ボルジア、コスタンツァ・アマレッタ、はっきり色情狂だったラウラ・ファルネ−ゼといったエロティックな女たちは、例外的な存在と見てよい。
 そのかわり、ルネッサンスの娼婦たちは、その数、性風俗において、ほかの時代の娼婦たちに比較しても異彩を放っている。
 娼婦の階級差もきびしいもので、ヴェネツィアでは、下級の娼婦をコルテザ−ネ・テッラ・ミノ−ル・ソルテと呼んだ。マイナ−な種類の淫売という意味で、日本流にいえば端女郎からドヤ街の女まで。
 高級遊女は、コルテザ−ネ・ファモッセ。この女たちは、いずれも名だたる美女ぞろいといってよい。ヴェネツィア派の巨匠たちが描いた絵で、その美貌がいまにつたえられている。
 ヴェネツィアは、毎日が祝祭のようなもので、当時として世界一、淫靡な都会だった。なにしろ二世紀のちに、カザノヴァが登場する街である。
 コルテジア−ナは、もともと宮廷(コルテ)の女という意味だったが、こういう呼びかたにふさわしいのはロ−マの女だった。
 日本の太夫のように、たくさんの侍女、男衆をひきつれて、まるで宮殿のような住まいを構え、相手にする男たちは、王侯貴族、枢機卿、大商人、銀行家といった人たちだった。酒席の話題は豊富で、プラトン主義の哲学、ダンテの『神曲』や、ペトラルカ、タッソ−といった詩人を論じるし、ラテン語、ギリシャ語、なかにはトルコ語、グルジア語まで話す才女も多かった。
 トゥルリア・ダラゴ−ナは、アラゴン王家の血筋をひくお姫さまだったが、『まったき愛の無限について』という本の著者だったが、彼女と同衾する男は、その性技のたくみさに魂も天翔(あまが)けるといわれた。

メディチ家が登場したのはなぜ?

 
 名家、メディチ家も、中世にはフィレンツェの北、ムジェッロの谷に住む農民だった。 そのなかに、草根木皮の薬を作って、民間療法をはじめた者がいたらしい。医者=メディコからメディチという名ができた。(ただし、歴史学者のなかには、これに反対の意見をもつ人もいる。)現在でも、フランス語、英語のMedicinは、メディコに関係がある。
 メディチ家の紋章には八つの丸い玉がついているが、これはピロ−レという錠剤をかたどっている。メディチ家の守護聖人は、民衆に医療をほどこした聖タミア−ノだった。
 フィレンツェに出たメディチ家は、武器を作ったり、金貸しをやって富を築いていった。中世末期には、ポポロ・グラッソ(肥った市民)とよばれる大商人たちの仲間入りをしていた。政治には、かかわらないようにしていたが、もともと古い家柄ではないので、ポポロ・ミヌ−ト(賤民)とよばれる下層の人々の支持を受けた。
 メディチ家がフィレンツェで頭角をあらわしたのは、ジョヴァンニ・デ・メディチが、親戚の経営した小さな銀行を引き受けて、1393年に独立してから。このかんに、イギリス国王に軍資金を融資した大銀行が軒並み倒産したのに、メディチ銀行は小さいために地道に経営をつづけ、ついにはロ− マ教皇の銀行家にまでのしあがって行く。
 メディチ家が損をしたのは一度だけ。教皇ジュ−リオ23世をハイデルベルグの牢獄から出すために3万8千デュカ−トという巨額な貸付けをしたが、これが焦げついた。
 ジョヴァンニの子、コジモ・デ・メディチが政権をにぎると、ヨ−ロッパ最高の大貴族になった。その権勢は、各国の皇帝、国王をはるかにしのいでいた。父のジョヴァンニが残した遺産は18万フロリンだったが、コジモは慈善事業や、公共事業だけで、40万フロリンを使った。
 コジモがロレンツォ・デ・メディチに残した遺産は、現在の貨幣価値に換算して、ロックフェラ−財閥の約七倍といわれている。
 メディチ家は、その後、300年にわたってフィレンツェを支配する。

傭兵隊長があらわれたのはなぜ?

 
 中世のイタリアでは、戦争が絶えなかった。
 たくさんの都市国家にわかれて、宗教上の対立や、経済的な理由で、まるで微粒子がぶつかりあうように、小ぜりあいや、全面戦争をくり返していた。一つの砦、一本の橋をめぐって、ときには女が犯されたことが原因で、戦争が起きた。
 戦争で死ぬやつは運(フォルチュナ)に見放されただけ。抜け目のないやつ、利口なやつは富む、という考えがひろまった。そこで戦争で稼ごうというやからが登場する。戦争をうけおう職業ができた。
 荒くれた気風が一般的だったから、腕の立つ男のまわりに戦国浪人が集まってグループを作る。頭領株の男は、自分と部下たちまる抱えで、一定の期間、一定の軍資金で、雇主に貸し出す。これが傭兵のはじまりだった。
 雇料をコンドッタという。傭兵隊長はコンドッティエリ。戦国浪人というと、わたしたちは、塙(ばん)団右衛門とか、後藤 又兵衛、宮本 武蔵といった豪傑を連想しがちだが、イタリアの傭兵はもっと営利本位の戦闘集団だった。
 自分の感情や、友情なんか、はじめから度外視している。正義感もないし、祖国への忠誠心もいっさい抜き。あくまで自分たちに金を払ってくれる人のために働く。もっと多く払ってくれる相手がいればいつでも乗り換える。隊長は、商品とおなじように、雇主、買い手ののぞむ数量と品種の兵士を提供する。
 たとえば、ガスコ−ニュ人は勇敢、スイス人は雇主に忠実、イギリス人は知謀にすぐれ、スペイン人は豪快といった評判が立ち、それで値段もきめられる。
 傭兵隊長の戦術(アルテ・デ、グェ−ラ)は、じつは、節約、能率、収益、最大の之順を意味した。戦争になれば、略奪、強姦、殺戮は日常茶飯事で、すぐれた傭兵隊長を雇ったほうが勝つ。傭兵の質のよしあしによって、1527年のロ−マの劫略のような悲惨な結果が起きる。
 ルネッサンス・イタリアの君主たちは、大多数が傭兵隊長あがりといってよい。マラテスタ家、バリオ−ニ家、ベンティヴォ−リョ家、スフォルツァ家、あのエステ家も、傭兵隊長から僣主になったのである。
 「歴史読本」臨時増刊 (2000.1月)

エロス


 ルネサンスの結婚はどういうものだったか。

 ルネサンスの結婚は、だいたい政略結婚がふつううだった。花婿が未成年だったり(ボルジア家のホーフレと、ナポリの王女、サンチャ・ダラゴーナの場合)、花嫁が極端に若かったり(武将プロスペロ・コロンナとヴィットーリア・ゴンザーガの場合)、現代の結婚とはずいぶん違っている。
 若い娘たちは、いつも母親か、それに準ずる保護者の眼の届くところにいなければならなかった。十七歳以上に達した処女は、いかなる男とも口をきいてはならない。
 この時代きっての教養人だったバルダッサーレ・カスティリョーネは、若い娘はすべからく何も考えない無知のままでいなければならないとした。なぜなら、若い娘の純潔こそ大事で、何も考えなければ純潔でいられるからという。ひどい話である。
 時代は遅れるが、モリエールの「女房学校」の「アルノルフ」はいう。
「私の理想の女は薄ノロの女ですよ。音韻とは何なのか知らないような女。音韻さがし(スコルピオ)で遊ぶとき<こんどは何にしますか>と訊かれて<クリーム・パインよ>と答えてくれていい。つまり、まったく無知な女。ありていにいってしまえば、神さまにお祈りができて、私を愛してくれて、針仕事ができたら、それでたくさんじゃありませんか」と。
 ルネサンスの女性観もこれに近い。
 ただし、階級差はある。
 若い娘の誘拐が頻発して、とくにジェノアで多かった。掠奪結婚の名残りともいえるが、同時に、こうした娘たちの無知につけ込んで牛馬のように売りとばす、ひどい場合は強姦したあと娼婦に仕立てあげる、といった事件も多かった。
 都市部でも娘たちにとって危険は多かったが、これが田舎になると危険はさらに大きかった。娘たちはさまざまな誘惑、とくに性的な凌辱をともなう危険にさらされていた。
 農村で歌われた民謡は、しばしば春歌であって、性行動の自由、あるいは途方もない淫佚(いんいつ)ぶりが、ときにはおおらかに、ときには露骨に表現されていることからも想像できよう。貧しい娘たちの生活、性行動は、中世初期の娘たちとそれほど変わらなかった。相続する土地もなかったし、政治的、経済的な基盤も影響もないため、しばしば結婚する必要もなかった。まして政略結婚などまるで無関係だった。
 貧しい娘たちは結婚前にいくら男に身をまかせようと非難されなかったから、誘いかける男がいれば平気で身を委ねた。むろん、結婚すればたいていの女は貞節を守った。結婚できればいいほうで、娘たちの多くは修道院にやられたり、フランス語でいう「快楽の娘たち」(フィーユ・ド・ジョア)になった。
 ジェノアの娘たちは失恋すると、神信心や貞節に戻るのでほかのイタリア都市の女たちよりもずっと躾がいいという。つまり恋をしているあいだは、神も信じないし、貞節でもないという意味が隠されている。
 現代の私たちは、結婚は男性、女性ともに精神的に惹かれあい、ただしい和合がなければならないと信じている。ところが、ルネサンスの結婚にはそうした結婚はほとんど見られない。それでいて、男も女もじつにいきいきと生きている。ひょっとすると私たちの考えている結婚という制度や、婚姻形態は、ほんとうは病み弱まった、想像力のない、衰弱しきったものではないか、という思いがけない考えも出てくる。
 半分は冗談だが。