それでは、日本人の嗅覚はにぶいのだろうか。
そんなことはないだろう。
『源氏物語』に、性にまつわるゆらぎ、顔や肌の美しさが描かれるとき、その背後にえもいわれぬ薫りが立ちこめる。
たとえば、「薫の宮」、「匂の宮」といった登場人物の命名をみても。
また、「頭中将」と「顔ふたぎ」という遊びに興ずるシーン、「頭中将」の子が、「催馬楽」を歌う。まだ、八つか九つながら、美貌で、声もすばらしい。
「光源氏」は、着ている衣を脱ぎ、この童子にあたえる。
君ならでけさ咲く花は夏の雨にしをれにけらしにほふほどなく
このときの「光源氏」は、「例よりはうち乱れたまへる御顔のにほひ、似るものなく見ゆ」と表現される。
この「にほひ」を嗅覚にかかわるものと見るのはあやまりだが、それでもたおやかにエロティックな存在としての「光源氏」の姿が匂い立ってくる。
私たちは、これほどにも精妙、高雅な「匂い」を知っていたというべきだろう。
だが、18世紀から、私たちにおいても「匂い」に対する感受性の変化があらわれる。
池沢 夏樹が書いている。人は情報や記号ではなく五感で生きる。「かすかに花の匂いを含んだ春風をふっと頬に感じる時の、その喜びのために生きる」と。
そういう民族の嗅覚がにぶいはずはない。