映画をひきあいに出したからいうのではないが、エロティックな表現において、私たちは眼と耳に大きく依存している。これは、今後ともますます強くなるだろう。それに対して、嗅覚、味覚、触覚といった感覚は、ますます劣等視され、機能的にみるみるうちに低下してゆくかも知れない。
私たちの文化は、言語、音声、そして「眼」に関してはますます進化してゆくだろうけれど、人間がふれあうことによって喚起される感覚を鍛えることはより少なくなって行くだろうと思う。
嗅覚についていえば、ジャコウなどの動物性香料が、性的な昂奮を惹き起こすことは古代から知られていたが、ここで香水の歴史をとりあげる必要はない。
ただ、嗅覚が、欲望、食欲、本能ともっとも深く結びついた感覚として、五感のなかで、もっとも動物的な、したがってもっともいやしい感覚として考えられていたことは、鼻の評価にかかわっていたはずである。
北山 晴一の「官能論」(1994年)によれば、
嗅覚が、もっとも動物的な、いやしい感覚と見られたことは、嗅覚と知性、匂いと言語といった対立関係で、考えられてきた。
しかも、「匂い」は、18世紀いらいの「自然」、「野性」、「野蛮」などのカテゴライズされた語彙で定義づけられ、位置づけられたという。
したがって、嗅覚の発達した人間は動物に近い。言語、社会生活を所有する人間にとっては、嗅覚は必要ではない。ものの認識において、嗅覚にたよるのは野蛮人であり、文明人は視覚や聴覚を手段とする。視覚や聴覚が言語をつうじてコミュニケーションの手段となりうるのに対して、匂いの言語化がいかにむずかしいことか。 (P 134)
たしかに、ヘミングウェイのように動物的な嗅覚をもった作家は少なくなっている。
日本人が、香りに敏感でなかったなどということにはならない。香合わせ、香道といった、匂いを遊びの手段とする雅びの文化をもっている。いわゆる香水が、わが国の小説に登場するのは、西欧化をめざした明治初期からと見ていい。