私たちが、女性においてまず見るのはかならず相手の眼であり、そのひとみである。
私は、自分の作品で瞳と書くことがすくない。だいたいは眸と書く。自分では使いわけているつもりなのに、いつも校正者に「瞳」と直されてしまう。
「瞳」と「眸」の違いをいいたてても仕方がないので、そのままにしてしまう。
瞳というのは、虹彩のなかの一点で、その奥の水晶体が黒くみえるだけの話である。私が、あえて「眸」と書くのは、ひとみ全体のいろ、と同時に、視線、まなざしをつたえたいからなのだ。
外国の女性と話していて、ブルーのひとみが向けられると、綺麗だなあ、と思う。ブルーにもいろいろあって、ターコイズやペール・ブルーだったり、グリーン、それもコバルト・グリーンからサップ・グリーンまで、紫もさまざまな色の変化が認められる。
日本の女性のひとみは、たいてい黒目としか見られない。しかし、「眸」と書くと、明るい茶色から褐色、黒でもピッチ・ブラックからさらに深みのあるアイヴォリー・ブラックまで、読者が想像してくれるような気がする。
だから、私は黒目がちな、といった常套的な表現をしたことがない。
女の眼の輝きは、私にとっては、その女の魅力をあますことなく語っているものとしてまず最初にやってくる。
テオフィル・ゴーチェの小説に、
――ぼくはマドンナの淡い空いろの眼を、切れ長の瞳の奥深くを見つめた。痩せたうりざね顔、弓なりの薄い眉に敬虔なまなざしを向けた。なめらかな額、清らかに透き通るこめかみ、桃の花よりもやわらかく目立たない、微妙な乙女の色あいをたたえた頬骨に見とれた。小刻みにふるえる影を落とす金色の美しい睫毛を一本一本数えた。謙虚にかしげた聖母の華奢な首すじのとらえがたい線を、薄明かりのなかで見定めた。 (注)
これが、十九世紀に典型的な男の視線の動きだった。
ゴーチェの小説では、対象が聖母マリアの彫像で、マドンナ渇仰としてとがめられるべくもないのだが、このすぐあとに、
畏れを知らぬ手でチュニカの襞をもちあげさえした。さらには神の御子(みこ)の唇しかふれたことのない乳にふくらむあらわな処女の胸をじっくり眺め、こまかく枝わかれしている細く青い血脈の先の先まで眼で追った。天上の液が白糸のようにしたたり落ちるかと、指で押してみた。神秘のバラのツボミにそっと唇をふれた。
ここまでくればマリア崇拝に見えながら、瀆聖的な思想がかいま見える。『モーパン嬢』が、長年にわたって淫猥の書と見られた理由はこのあたりにあるのだろう。
暗喩としての「神のバラ」(Rose mystique)は、聖母マリアの象徴には違いないが、イミジャリーとしては、女陰の象徴にほかならない。