ジッドは「私は自分のエロスのおかげで幸福だった」という。カザノヴァは「私は生涯をつうじてエロスの犠牲者だった」といった。小林 秀雄は「女は私が成熟する場所だった」という。 ルイ・ジュヴェなら「私はいつも自分といっしょに仕事のできる女が必要だった」というだろう。 ジッドは、生涯をつうじてホモセクシュアルだったが、初老に達してから愛人のあいだに娘ができている。カザノヴァは、多数の女性を誘惑して、ほとんどの場合、かならず首尾をとげている。男なら、彼の幸運に羨望をもたない者はいないだろう。
では、男は、女のどこに魅かれるのだろうか。
むずかしい議論は避けよう。
だいたいは女の肉体的な魅力に魅せられる。つまり女性に特有の性徴につよい関心をもたない男はいない。とくに、乳房、腰、腿の部分に。
それよりも前に、容貌が先にくる場合も多い。
美貌の女性は、異性だけでなく、同性の関心を惹きつける。嫉視されたり、反感をもたれることがあっても、まず顔に関心が寄せられる。
ところが、女の容貌については、その時代の美意識がかかわってくる。
日本人にとっては、伝統的に、細めの眼が美人の条件のひとつだった。
たとえば、「源氏物語絵巻」に描かれている引き目、鉤鼻のお姫さまたちを、現在の私は美女とは思わない。
浮世絵の美人たちが、切れの長い細い眼をしていることから、それぞれの時代の好みがうかがわれる。幕末から明治にかけての遊女絵や、芸妓たちの写真を見たことがある。
今紫(金瓶大黒楼)、金山(定河内楼)、夕霧(野村楼)、白露(稲本楼)、小紋戸(相萬楼)、小太夫(中米楼)、真弓(彦多楼)、鶴尾(角海老楼)といった名だたる美女たちがそろっていたが、今の私が美人と思う女はそれほど多くなかった。
むかしの無声映画(活動写真)のスターたちを見て、その可憐な美貌に魅力をおぼえても、今の映画スターたちと比較して、それほどエロティックに見えないのとおなじだろう。
彼女たちはたしかに美女だった。では、どうして美女に見えなくなったのか。
娼婦として生きた女たちは、あくまで美女というフィクティシャス(虚構)な存在でなければならなかった。浮世絵の美人たちとの違いは、彼女たちがカメラというメカニズムによって美女というフィクションを強制されたことにある。
当時のカメラの性能、撮影技術がよくなかったり、照明が未発達だったために白塗りのメークで、表情が死んでいる、ということではない。
芸者としてカテゴライズされた女たちは、美女としての「女」ではあり得なかった。
現在の女性たちは、自分で自分の写真をいくらでも撮ることができる。プリクラや「写メール」などで、いくらでも好きなだけ自分を美女として撮影できる。
女の子たちは、カメラでヌードを撮られても心理的な抵抗はあまりないだろう。げんに、自分でヌードを撮っている女性写真家が、世界じゅうにいる。
アダルトビデオに登場する美少女たちは、けっしてフィクティシャスな美少女として登場するのではない。彼女たちは、トレンディーなテレビ・ドラマのストーリーの延長上のセックス・シーンの撮影に参加している。
さて、そうなると女性美のエスプリは変化するだろうか。