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2006年12月 アーカイブ

2006年12月16日

第1章 プロローグ〈1〉

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 エロスについて考える。

 エロスは、あらゆる主題のうちで、さまざまな言語や文化の違いを超えて、私たちの関心を惹きつける。だが、エロスは私たちの感性、感情、情熱の表現といった点ですべての人に共通するとはいえない。なぜなのか。

 もとより無数の答えがあるだろう。
 私の試みはその答えよりも、この問いをめぐっての考察というべきものになるだろう。
 理由は私にはむずかしい問いだから。

 人間の、あらゆる行動のなかで、性にかかわる行為によって、おのがじしの感情だけでなく、美、本性、精神性といったものの姿、位相が明らかになる。
 とすれば、性について書く、あるいは性行為そのものについて私が書く大きな理由は、菊花としてどこまで表現できるか、ということになる。

 これは、とてもむずかしい。

 私としては、生理、衛生はもとより、哲学、倫理学、医学、性科学、美学、あるいは性愛について書かれた古典に深い敬意を払いながら、できれば、性を地場としての男と女のさまざまなときめき、あるいは、その一瞬の高まりについて考える。できるだけまじめに書くということ。

第1章 プロローグ〈2〉

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 ジッドは「私は自分のエロスのおかげで幸福だった」という。カザノヴァは「私は生涯をつうじてエロスの犠牲者だった」といった。小林 秀雄は「女は私が成熟する場所だった」という。  ルイ・ジュヴェなら「私はいつも自分といっしょに仕事のできる女が必要だった」というだろう。    ジッドは、生涯をつうじてホモセクシュアルだったが、初老に達してから愛人のあいだに娘ができている。カザノヴァは、多数の女性を誘惑して、ほとんどの場合、かならず首尾をとげている。男なら、彼の幸運に羨望をもたない者はいないだろう。

 では、男は、女のどこに魅かれるのだろうか。

 むずかしい議論は避けよう。

 だいたいは女の肉体的な魅力に魅せられる。つまり女性に特有の性徴につよい関心をもたない男はいない。とくに、乳房、腰、腿の部分に。

 それよりも前に、容貌が先にくる場合も多い。
 美貌の女性は、異性だけでなく、同性の関心を惹きつける。嫉視されたり、反感をもたれることがあっても、まず顔に関心が寄せられる。
 ところが、女の容貌については、その時代の美意識がかかわってくる。
 日本人にとっては、伝統的に、細めの眼が美人の条件のひとつだった。
 たとえば、「源氏物語絵巻」に描かれている引き目、鉤鼻のお姫さまたちを、現在の私は美女とは思わない。
 浮世絵の美人たちが、切れの長い細い眼をしていることから、それぞれの時代の好みがうかがわれる。幕末から明治にかけての遊女絵や、芸妓たちの写真を見たことがある。
 今紫(金瓶大黒楼)、金山(定河内楼)、夕霧(野村楼)、白露(稲本楼)、小紋戸(相萬楼)、小太夫(中米楼)、真弓(彦多楼)、鶴尾(角海老楼)といった名だたる美女たちがそろっていたが、今の私が美人と思う女はそれほど多くなかった。
 むかしの無声映画(活動写真)のスターたちを見て、その可憐な美貌に魅力をおぼえても、今の映画スターたちと比較して、それほどエロティックに見えないのとおなじだろう。

 彼女たちはたしかに美女だった。では、どうして美女に見えなくなったのか。

 娼婦として生きた女たちは、あくまで美女というフィクティシャス(虚構)な存在でなければならなかった。浮世絵の美人たちとの違いは、彼女たちがカメラというメカニズムによって美女というフィクションを強制されたことにある。

 当時のカメラの性能、撮影技術がよくなかったり、照明が未発達だったために白塗りのメークで、表情が死んでいる、ということではない。
 芸者としてカテゴライズされた女たちは、美女としての「女」ではあり得なかった。
 現在の女性たちは、自分で自分の写真をいくらでも撮ることができる。プリクラや「写メール」などで、いくらでも好きなだけ自分を美女として撮影できる。
 女の子たちは、カメラでヌードを撮られても心理的な抵抗はあまりないだろう。げんに、自分でヌードを撮っている女性写真家が、世界じゅうにいる。
 アダルトビデオに登場する美少女たちは、けっしてフィクティシャスな美少女として登場するのではない。彼女たちは、トレンディーなテレビ・ドラマのストーリーの延長上のセックス・シーンの撮影に参加している。

 さて、そうなると女性美のエスプリは変化するだろうか。

第2章 眼〈1〉

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私たちが、女性においてまず見るのはかならず相手の眼であり、そのひとみである。

 私は、自分の作品で瞳と書くことがすくない。だいたいは眸と書く。自分では使いわけているつもりなのに、いつも校正者に「瞳」と直されてしまう。
「瞳」と「眸」の違いをいいたてても仕方がないので、そのままにしてしまう。

 瞳というのは、虹彩のなかの一点で、その奥の水晶体が黒くみえるだけの話である。私が、あえて「眸」と書くのは、ひとみ全体のいろ、と同時に、視線、まなざしをつたえたいからなのだ。
 外国の女性と話していて、ブルーのひとみが向けられると、綺麗だなあ、と思う。ブルーにもいろいろあって、ターコイズやペール・ブルーだったり、グリーン、それもコバルト・グリーンからサップ・グリーンまで、紫もさまざまな色の変化が認められる。
 日本の女性のひとみは、たいてい黒目としか見られない。しかし、「眸」と書くと、明るい茶色から褐色、黒でもピッチ・ブラックからさらに深みのあるアイヴォリー・ブラックまで、読者が想像してくれるような気がする。

 だから、私は黒目がちな、といった常套的な表現をしたことがない。

 女の眼の輝きは、私にとっては、その女の魅力をあますことなく語っているものとしてまず最初にやってくる。

 テオフィル・ゴーチェの小説に、

 ――ぼくはマドンナの淡い空いろの眼を、切れ長の瞳の奥深くを見つめた。痩せたうりざね顔、弓なりの薄い眉に敬虔なまなざしを向けた。なめらかな額、清らかに透き通るこめかみ、桃の花よりもやわらかく目立たない、微妙な乙女の色あいをたたえた頬骨に見とれた。小刻みにふるえる影を落とす金色の美しい睫毛を一本一本数えた。謙虚にかしげた聖母の華奢な首すじのとらえがたい線を、薄明かりのなかで見定めた。 (注)

 これが、十九世紀に典型的な男の視線の動きだった。
 ゴーチェの小説では、対象が聖母マリアの彫像で、マドンナ渇仰としてとがめられるべくもないのだが、このすぐあとに、

  畏れを知らぬ手でチュニカの襞をもちあげさえした。さらには神の御子(みこ)の唇しかふれたことのない乳にふくらむあらわな処女の胸をじっくり眺め、こまかく枝わかれしている細く青い血脈の先の先まで眼で追った。天上の液が白糸のようにしたたり落ちるかと、指で押してみた。神秘のバラのツボミにそっと唇をふれた。

 ここまでくればマリア崇拝に見えながら、瀆聖的な思想がかいま見える。『モーパン嬢』が、長年にわたって淫猥の書と見られた理由はこのあたりにあるのだろう。
 暗喩としての「神のバラ」(Rose mystique)は、聖母マリアの象徴には違いないが、イミジャリーとしては、女陰の象徴にほかならない。

第2章 眼〈2〉

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話を戻そう。

 女の眼の輝きは、しばしば、その女の秘密を物語っている。
 眼の色彩と光沢が、さまざまなひょうじょうを見せる。感情の昂ぶりから瞳の大きさがいろいろと変化する。
 そして、眼のうるおい。涙があふれる。
 セックスのあとの女の眼の美しさ!
 男なら、彼女のいろ、うつろなまなざしを忘れないだろう。

 睫毛。英語では eyelash。

 たいていの女のまつげは、上まぶたの方が長い。これは、きっと光をさえぎるためにそうなっているのだろう。と同時に、まつげは、女の白目の部分を美しく見せる。
 だから、長い睫毛を強調するために、彼女たちは、つけまつげ、マスカラを愛用する。

 私は舞台の演出をしてきたので、女優のつけまつげ、マスカラには注意を払っているけれど、街で見かける若い女性のつけまつげ、マスカラにはあまり感心したことがない。つまり、あまり魅力を感じない。

 Flutter her eyelashes at~ という用法がある。ウィンクする、という意味。このフラッタリングに、つけまつげ、マスカラが効果があるかどうか。
 lash をflutter するというと、なにやらおそろしくなる。

 私にいわせれば、たいていの女の子たちは、眼を見開いたときの効果しか考えていない。自分の眼の美しさ、それをさりげなくどう見せるか、そのことを知らない女が多い。
 たとえば、流し眼(秋波)の効果は、つけまつげ、マスカラのせいで、かえって、いやらしくなったり、陰険な眼つきになったり、蔑みとしか思えない。

 ほんとうの美しさは、眼のそよぎ、さやぎにある。とくに二重まぶたの女性は、眼の美しさをつけまつげ、マスカラが減殺することがある。

 眉について。

 日本の女に眉が美しい「おんな」がいる。むろん、外国の女性の眉も美しいのだが、日本の「おんな」は眉弓が、外国の女性ほど眼に近くない。
 一重まぶたであっても、眼から眉におっとりした感じがある。能の小面の眉は、極端に髪の生え際についている。かつぎ、市女笠などをかぶって出たり、蝋燭、篝火、あるいは自然光の下で演じても、日本の「おんな」の眼が生きる。そのための眉になっている。
 眉をひそめる。眉根を寄せる。眉をあげる。
 女の表情は眉によって変化する。とくに、セックスのときに。





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