2007年08月22日

第3章 鼻 4-4

 
 ステフォン・ツヴァイクの遺作「変身の魅惑」のヒロイン、「クリスティーネ」は、戦前、スイスの社交界の花形として登場しながら、「戦後」の窮迫のなかで、見知らぬ男を相手に春をひさぐ。
 はじめて、男をホテルにつれ込んだとき、そのホテルの部屋にひどい嫌悪感と吐き気で失神しそうになる。彼女は、いそいで窓の戸をひき開ける。ガスの噴出した坑道から救い出されたように、外から流れ込んできた、あたらしい、「よごれていない」空気を吸い込む。
 ドアをノックする音がして、メイドが入ってくる。新しいタオルを洗面台に置いて、部屋の窓が開けっぱなしになっていることに気づいて、「そのときは、カーテンを下げてください」といって出て行く。
 この「そのとき」が、「クリスティーネ」にショックをあたえる。「そのとき」のために、人々はこうした横町の安ホテルにやってくる。いやな臭いのする穴ぐらに。ただ、そのことのために。

  男はそっとそばに寄ってきたが、不用意なことばで彼女を傷つけるのをおそれて、肩にあてた手を相手の指にふれるところまですべり落とした。女の指は冷たく、ふるえていた。こっちの気もちを落ちつかせようとしているんだわ、と感じた。「ごめんなさい」ふり向かずにいった。「きゅうに目まいがして。すぐによくなるわ。もうちょっと、新鮮な空気が吸いたくて……ただ……」
  思わず、いいそうになった。こういうホテルや、お部屋を見るのははじめてなものですから。しかし、唇を噛んだ。そんなことを彼に知らせてどうなるの。いきなり、ふり返って、窓を閉めて、切り口上でいった。「明かりを消して」

 「クリスティーネ」は暗い室内で、みしみしきしむ音、ため息、笑い、きしみ、素足の足音の気配、どこからか水の流れる音。ホテルじゅうに、自分の知らない、なにやらセックスにまつわる、男と女のからだが結合することだけを目的とした現象がみちみちていることに気がつく。こまかな霜のように、おぞましさがじわりと肌にしみ通ってゆく。
 「クリスティーネ」は、男がついに自分を抱いたときも拒まなかった。

 私はツヴァイクも嗅覚がするどい作家だったことは間違いないと思う。

第3章 鼻 4-3

 
 鼻が生理的にもっとも重要な呼吸、嗅覚にかかわりがあるため、作家はあえて描く必要がない、と書いた。
 私たちが呼吸するのはごく自然なことなので、排泄や、新陳代謝とおなじように、肉体の反応としてはオートマティックなものなのだ。

 嗅覚がセックスにかかわる反応はどうなるのか。
 私たちがエロティックな刺激に反応する場合、誰でも自分の反応を意識する。はじめの段階では、まだ抑制することはできる。しかし、生理的な反応であるかぎり、それは意志とはかかわりがなく、私たちにはコントロールできないものになる。
 鼻は、このとき、ほかの器官よりも、なぜか低い働きしかもたない。つまり、手でふれたり、からだをすりつけたりするよろこびに比較して、嗅覚は性中枢をそれほど刺激しない。私たちのセックス、性行動において、嗅覚はそれほど重要なものにならなかった。
 だから、たいていの作家は、おそらく無意識に、匂い、臭いを描かない。
 汗の臭い、吐息、唾液、尿や糞便の臭い、女性に特有の匂い、いわゆるオドール・デ・フェミナ、性交後の分泌物の匂い、口臭、老人臭、ようするに体臭に関心をもつ作家はいないか少ないのではないだろうか。
 そうだとすれば、ここに、いささかパラドクサルな状況があらわれる。
 たしかに私たちの性欲を刺激するものとして、匂いは、視覚、触覚ほどには大きな役割を果していない。しかし、私たちは、ある種の匂い、とくに香水などに強烈な反応をしめすことが多い。ここにフェティッシュな感覚がかかわってくるのはなぜなのか。
 プルーストの「マドレーヌ」は、セックスにおいても、まさに「リアル」なのである。したがって、プルーストが鋭敏な嗅覚をもっていたことは間違いない。

第3章 鼻 4-2

 
 またしても、もう誰も読まない作家を引用しておく。
 エロティックなシーンで、息づかい(呼吸作用)や嗅覚が描かれるのは当然だが、それでも下等な、いわゆる「スーハー本」のようなものは別として、こうしたシーンの、息づかいや匂いが、作中人物の内面を表現するような作品はきわめて少ない。

  「佐藤は小時(しばらく)すると、手を伸ばして先刻(さっき)ふじ子が持って来た花瓶を自分の方へ引き寄せ、こつそり味はふやうにその匂ひを嗅いでいた。花束を鼻から離したり、くッつけたりしているうちに漸次(だんだん)と酔はされたやうな顔になって、うつとり眼を瞑(つぶ)りながらヘエリオトロープの冷たい花弁へそつと唇を押当てた。
         長田 幹彦 「永遠の謎」(大正11年)

 ヘリオトロープがいつ頃から小説に登場したのか知らない。しかし、日本人にこの匂いが親しくなったのは、大正期の無声映画、とくにミステリーに登場してからだろう。ヒロインがつけている香水が、ヘリオトロープという植物性のものであることが、エグゾティックに響いたと思われる。
 長田 幹彦の別の長編「戀ごろも」(大正9年)では、

  「豊子は蒸すやうな香水の匂いのする手巾(ハンケチ)を取出して、それで口の辺(あたり)を拭きながら、……(後略)
 といった表現があって、これは動物性の香水だろうと想像できる。
 このヒロインは、大正期の奔放な「悪女」として登場していることもあって、この香水はおそらく動物性の香りなのだろう。ただし、「戀ごろも」という作品は、香水の匂いが作中人物の内面まで表現しているとはとても思えないのだが。
 あえていえば、長田 幹彦のような作家でさえ、女性美の一つとしての鼻に言及することがなかった。これに較べて、谷崎 潤一郎のほうがはるかに嗅覚的な作家だったといえるだろう。

第3章 鼻 4-1

 
 映画をひきあいに出したからいうのではないが、エロティックな表現において、私たちは眼と耳に大きく依存している。これは、今後ともますます強くなるだろう。それに対して、嗅覚、味覚、触覚といった感覚は、ますます劣等視され、機能的にみるみるうちに低下してゆくかも知れない。
 私たちの文化は、言語、音声、そして「眼」に関してはますます進化してゆくだろうけれど、人間がふれあうことによって喚起される感覚を鍛えることはより少なくなって行くだろうと思う。

 嗅覚についていえば、ジャコウなどの動物性香料が、性的な昂奮を惹き起こすことは古代から知られていたが、ここで香水の歴史をとりあげる必要はない。
 ただ、嗅覚が、欲望、食欲、本能ともっとも深く結びついた感覚として、五感のなかで、もっとも動物的な、したがってもっともいやしい感覚として考えられていたことは、鼻の評価にかかわっていたはずである。
 北山 晴一の「官能論」(1994年)によれば、
 嗅覚が、もっとも動物的な、いやしい感覚と見られたことは、嗅覚と知性、匂いと言語といった対立関係で、考えられてきた。
 しかも、「匂い」は、18世紀いらいの「自然」、「野性」、「野蛮」などのカテゴライズされた語彙で定義づけられ、位置づけられたという。
 したがって、嗅覚の発達した人間は動物に近い。言語、社会生活を所有する人間にとっては、嗅覚は必要ではない。ものの認識において、嗅覚にたよるのは野蛮人であり、文明人は視覚や聴覚を手段とする。視覚や聴覚が言語をつうじてコミュニケーションの手段となりうるのに対して、匂いの言語化がいかにむずかしいことか。 (P 134)
 たしかに、ヘミングウェイのように動物的な嗅覚をもった作家は少なくなっている。

 日本人が、香りに敏感でなかったなどということにはならない。香合わせ、香道といった、匂いを遊びの手段とする雅びの文化をもっている。いわゆる香水が、わが国の小説に登場するのは、西欧化をめざした明治初期からと見ていい。

第3章 鼻 3-3

 
 作家、ユイスマンスは、美術評論家としても一流の眼識をそなえていた。
 当時、「踊り子しか描いたことがない」といわれていたドガについて、ドガの描いた人びとは、「店のなかのクリーニング屋の女たち、稽古中の踊り子、カフ・コン(カフェ・コンセール)の女シャンソニエ、劇場のホール、競馬ウマや、ジョッキーたち、アメリカの綿花商人、風呂から出る女、閨房や、芝居の桟敷席」を描いたとする。
 ユイスマンスは、「見せ物の女闘士のような上半身のうえに小さな頭が乗っている淑女ぶった女」、ミロのヴィーナスよりも、

   通りでいちゃつく娘、外套を着たりドレスでめかし込む女工たち、つやのない顔色、いろっぽい、真珠母のようにきらめく眼をした婦人帽つくりの女たち、腰のうえで、乳房がユサユサ揺れる、こまっちゃくれた鼻の、蒼白く、可愛い遣い走りの小娘たち」

 のほうが、ずっと魅力があると見ていた。
 ユイスマンスが「こまっちゃくれた鼻」をあげていることに、私は注意する。
 私たちは、アナベラ、ダニエル・ダリュー、シモーヌ・シモンから、フランソワーズ・アルヌール、ミレーヌ・ドモンジョまで、フランス女の「こまっちゃくれた鼻」に親しみをおぼえてきたのである。
 しかし、現在、私たちは、映画のなかで「こまっちゃくれた鼻」に、それほど魅力をおぼえるだろうか。

第3章 鼻 3-2

 
 ライナー・マリア・リルケは、ドゥイノに滞在していたとき、タクシス公爵夫人の別荘に飾られていた公爵夫人の母の姉妹の肖像画を愛していた。
 結婚してすぐに、まだ二十歳の若さで亡くなったライモンディーネ。これも、わずか十五歳で夭折したポリクセーネ。
 ドゥイノには、この二人の不幸な令嬢の肖像画が残っていた。ライモンディーネは半身像だけでなく、美しいミニアチュールが残っていて、リルケはそのいちばん美しいものをガラス・ケースにたいせつに飾っていた。

   美しい孤をえがいている鼻、つぶらな青い眼をしていて、みごとな黒髪をおさげに編んでいる。その青白い顔がとりわけ詩人の気に入っていた。

 と、タクシス公爵夫人は回想している。
 彼女にとっては、ライモンディーネも、ポリクセーネも、自分が生まれるずっと前に亡くなった母方の親族というだけの存在で、その美しい肖像を見ては、ときおり思い出すだけ、どこまでも未知の人びとだった。
 ところが、リルケにとっては、ドゥイノの館が静まりかえって、その静寂をやぶるものが何もないようなときでさえ、自分がほんとうにひとりでいると思ったことがなかった。
 彼にとっては、この姉妹は、いつも自分の身辺にいる<実在>だったという。

 リルケが、心を奪われたのは、若い娘の青白い顔、つぶらな青いまなざし、みごとな黒髪、さらには「美しい弧をえがいている鼻」だったと想像する。

第3章 鼻 3-1

 
 クレオパトラの鼻の高さがわからない。
 だからこそ、もしクレオパトラの鼻の高さがもう少し低かったら、という逆説が成立するのだ。

 アポリネールの詩、「とてもいとおしい僕のルウ」は、

   とてもいとおしい僕のルウよ きみが好きだ
   いとおしく可愛い きらめく星よ きみが好きだ
   うっとりするほど 柔らかな肉体よ きみが好きだ
   クルミ割りのようにしめつける 陰門よ きみが好きだ
   あんなにもバラ色の 並外れた左の乳房よ きみが好きだ
   泡だたないシャンパンの色をした右の乳房よ きみが好きだ

 というふうに、愛する女性の性徴をつぎつぎにあげて「きみが好きだ」とつづける。
 右の乳首、左の乳首、小陰唇、双つの臀、へそ、淡い毛並み、わきの下、肩、腿、耳、髪の毛、こわばる足、つよい腰、かがめた背中。そして、最後に、

   比類ないまなざし 星のようなまなざし きみが好きだ
   その動きをこよなく愛している手 きみたちが好きだ
   とても貴族的な鼻 きみが好きだ

 とつづいて終わる。

 アポリネールの詩でも、いちばんすばらしい詩のひとつ。
 だが、なぜ、この詩で鼻が最後にきているのだろうか。

第3章 鼻 2-2

 
 鼻のかたちは――鼻根の正中天から鼻が人中(じんちゅう)の上辺にたっするまで(つまり、距離)と、小鼻の、いちばん張り出したところまでの距離の比率によってちがってくる。
 ヨーロッパ系の女性の鼻は、ほっそりとしているほうが美しい。ところが、南方系の人種では、だいたい幅がひろい。日本人をはじめ、アジア系の女性は、だいたい中間的といえるだろう。
 私たちのエロティシズムの観念において、女性が誘惑的な理由の一つは、彼女たちがかならず見えない部分をもっているからである、という。それはしばしば(女性自身によって)意識的に隠された部分であることが多いが、鼻は隠されることがない。
 いつも見えているものが、いつもエロティックに訴えてくることはない。だから、日本の作家はわざわざ鼻を描写することがないとも考えられる。
 ただし、ブルカで顔をつつんでいる、中東の女性たちの、鼻はおそらく今後とも文学作品に描写されることがないだろう。

第3章 鼻 2-1

 
 芥川 龍之介の「鼻」は、鼻という器官にいちじるしい特長のある人物だからこそ、おもしろいのだが、この作家が鼻に対して、ほかの作家よりもずっと鋭敏な関心をもっていたように思える。
 たとえば、日本人のプロフィルで、ローマン・ノーズ型の女性は少ない。だからこそ、作家は、たとえ女性の鼻の美しさに心を奪われても、その表現がむずかしいことを知っているのだ。

 ここでは、わざと誰も読まない作家を引用しておく。

 「奥様、あなたは美しいですね。第一その鼻筋が如何にもいい、眼もいいし、その髪の結び方も気に入ったねえ。おまけに色が白さうだし。」
     奥野 他見男 「訪問客」(昭和5年)

 いかにも類型的な表現で、描写としては意味がないことはわかるだろう。
 女の顔のなかで、形態的にもっとも美しい部位にあるものが、ほとんど描写されることがない、というのは興味深い。
 鼻が人間の生理で、もっとも重要な呼吸、嗅覚にかかわりがあるため、描く必要がないからだが、それでも私は問いかけよう。
 美しい女性の鼻はかならず美しい。
 にもかかわらず、私たちは、はたして「クレオパトラの鼻」を想像できるだろうか、と。

2007年08月09日

第3章 鼻 1-4

 
 それでは、日本人の嗅覚はにぶいのだろうか。
 そんなことはないだろう。
 『源氏物語』に、性にまつわるゆらぎ、顔や肌の美しさが描かれるとき、その背後にえもいわれぬ薫りが立ちこめる。
 たとえば、「薫の宮」、「匂の宮」といった登場人物の命名をみても。
 また、「頭中将」と「顔ふたぎ」という遊びに興ずるシーン、「頭中将」の子が、「催馬楽」を歌う。まだ、八つか九つながら、美貌で、声もすばらしい。
 「光源氏」は、着ている衣を脱ぎ、この童子にあたえる。

  君ならでけさ咲く花は夏の雨にしをれにけらしにほふほどなく

 このときの「光源氏」は、「例よりはうち乱れたまへる御顔のにほひ、似るものなく見ゆ」と表現される。
 この「にほひ」を嗅覚にかかわるものと見るのはあやまりだが、それでもたおやかにエロティックな存在としての「光源氏」の姿が匂い立ってくる。
 私たちは、これほどにも精妙、高雅な「匂い」を知っていたというべきだろう。
 だが、18世紀から、私たちにおいても「匂い」に対する感受性の変化があらわれる。

 池沢 夏樹が書いている。人は情報や記号ではなく五感で生きる。「かすかに花の匂いを含んだ春風をふっと頬に感じる時の、その喜びのために生きる」と。
 そういう民族の嗅覚がにぶいはずはない。