■ 若き日の回想 | Date: 2005-06-06 (Mon) |
戦時中、私は向島の近く、本所の小梅に住んでいた。
業平橋から、北十間川を越えて、作家の堀辰雄が幼年時代に住んでいたあたりを左に見て、常泉寺のわき、どぶ川のような狭い放水路の通りを向島に進むと、途中に「太陽製薬」の工場があった。
(中略)
小梅から向島にかけてはまだどこか江戸の気配がただよっていて、少し近くには、基角が「夕立や 田をみめぐりの神ならば」と詠んだ三囲神社がある。
少し足をのばせば、桜餅の長命寺、お団子の言問橋。東向島まで出れば、名だたる花柳界、鳩の街。ついでのことに浅草までも眼と鼻の先。仲見世を観音小路(現在の柳通り)から、六区の活動小屋や、古本屋が私のテリトリーだった。むろん、オペラ館の横のみかん水や、愛玉只(オーギョウチ)がせいぜいで、「万梅」や「一直」といった一流の料亭などには立ち寄ったこともない。添田亜蝉坊の句に、「観音の裏 冬空の銀杏かな」という句があるが、中学生の身は折花攀柳の巷(ちまた)に縁がなかった。
私はゲートルを巻いて市電で押上から緑町乗り換え、神田駿河台下まで通っていた。
――中田耕治(「白井 重信さんの俳句」)
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